第32話 絢爛の宮殿4 新世代の魔王
突然に強風が巻き起こった。
何が起きたのか、すぐにはわからなかった。
金髪の女剣士が、髪をはためかせながら剣を鞘に納めている光景があった。ばらばらにされたチューリップ型のワイングラスたちが無残に散乱し、美しかった分厚い絨毯に、濃い色の液体が吸い込まれていく。
獅子魔王の毛並みや、ワニ頭が着ていた洋服にも、グラスの中身が掛かってしまっていた。びしゃびしゃだった。
早い話が、神速の剣技が炸裂したのだ。
……なんで?
豪華絢爛さを少し鈍らせた広間は、沈黙に支配されてしまっている。
それを最初に破ったのは、あまりのわけのわからなさに混乱した僕だった。
「あっ、えっ、ちょ、ちょっと、何してんのミクミさん」
ミクミさんは答えない。剣の柄を握ったまま、臨戦態勢だった。
二柱の魔王も動きを止めたまま女剣士ミクミをじっと見据えている。
立会人のウィネさんは、ばつが悪そうに床に視線を落としていた。
静かだった。それで僕も黙らざるをえなかった。
張りつめた空気が続く。
どれくらいの時間、五人は黙りっぱなしだったのだろう。
やがて、僕の運命の魔王が口を開いた。
「何の真似だ?」
びしゃびしゃに濡れながら、額に血管を浮き上がらせる獅子魔王。闇のオーラが爪に集中しているように見えた。
剣をいつでも抜ける姿勢のまま、ミクミさんは答える。
「こんな手段で、あたしの冒険を終わらせられるのは、絶対ムリ」
突如として始まろうとしている争いに、僕は戸惑わざるをえない。
平和協定のはずだった。無差別な争いをやめ、転生者と魔王だけが殺し合いに参加することを約束する会合のはずだった。僕はそう信じていた。
それが、ミクミさんの一閃で、いま、台無しになろうとしている。
何度目かの沈黙。それを景気よく破ったのは、獅子魔王の豪快な笑い声だった。
「……フハハハ! なるほどなあ!」
ミクミさんは、突然許されたようだった。なるほどとは、どういうことなのだろう。
「道理で、連絡のとれねえ同胞が増えたわけだ。こういうカラクリだったとは」
突然の急展開に、僕は誰にもきこえないような小さな声で、「何なんですか」と呟くほかない。
獅子頭が、一つ大きく息を吐いて、僕の疑問をほとんど解消してくれた。
「毒、というわけだな」
魔王の発言に、ウィネさんは微笑みを貼り付けたような表情を見せた。
僕はそれをみて、ぞっとした。全身に鳥肌が立つような感覚におそわれた。
つまり、僕は、見誤っていたのだ。
ウィネさんの目的は、無差別な殺戮の防止だとか、転生者と魔王が戦う構図をつくることだとか、そんなところで止まっていなかった。わかりやすく、最強最短の一手、毒殺を狙っていた。
獅子の魔王は豪快に笑う。
「こんなことだと思ったわ。我は最初から気付いておったぞ」
うそっぽい。ミクミさんが止めなければ絶対に飲んでる勢いだった。
獅子の魔王は続けて言う。
「まったく、和平のために呼び出しておいて毒を盛るなど、あまりに無礼。いますぐこの場から狡猾卑劣な人間どもの根絶やしを始めてやってもいいのだがな。しかしだ、そこの金髪の女剣士に免じて、貴様たちとは正々堂々、戦うことを約束してやろう。な、兄弟」
ワニ顔キリン首に声を掛けたが、答えなかった。
知能を失っているようだ。
それを見て、獅子頭の魔王は、大きな手でワニの尖った口を掴み、分厚い絨毯が敷かれた床に叩きつけた。
頭上のシャンデリアが派手に揺れ、床の一部が割れ飛んだ。首の長いワニは白目をむいて倒れた。
僕は唖然としてその光景を見守るしかできなかった。
「いいかげん目をさますのだ。貴様に話しかけている我が道化みたいであろう。いつまで寝ぼけているつもりだ」
首を折ろうとでもするように強く押し付けた獅子魔王。根元から順に連続でビキビキゴキゴキという音が響いた。
そして、ついに一度ミクミさんと戦ったワニ魔王が、正気を取り戻した。
「……ああいいぜ。この女剣士と、一対一の勝負をしようじゃないか」
突然のワニ魔王復活に戸惑う僕らを尻目に、二柱は交互に言葉を紡いだ。
「もし我らに勝つことができたなら、約束してやる。我らの一族は人間に手出しはしないとな」
「逆に、もし負けたら、人間は地上から姿を消すだろうぜ。一人残らずな」
そして獅子はフハハと笑い、ワニはムヒヒと笑った。
二人からほとばしる暗黒の殺気に、僕はすっかり気圧されてしまっている。
獅子魔王はビビり倒している僕を見ながらニヤリと笑みを浮かべると、爪を立てた右手をゆっくりと頭上に持ち上げた。
「それはそれとしてだ。未遂に終わったとはいえ、このような卑劣には、ケジメが必要だからなぁ!」
振り下ろされると同時に、周囲が吹き飛んだ。
僕らのいた場所も含めてだ。
ミクミさんの咄嗟の跳躍。僕とウィネさんは彼女に手を握られて天井を突き破って空に舞い上がり、崩落に巻き込まれずに済んだのだった。
見事な白亜の宮殿も、生気あふれる前庭も、一瞬でつぶれた。その様子を上空から見ていた。
不思議と、残念がるような感情は浮かんでこなかった。こうなって当然、こうなるべきだと、むしろ清々しくすらあった。
それだけの褒められない行為を、人間側がしてしまったのだから。
むしろ、ミクミさんが毒殺未遂犯であるウィネさんまで助けてしまったことに、わずかな怒りの感情さえ湧いてしまったほどだ。
僕らが、瀟洒だった門の残骸の横にぐだぐだな着地を決めたところで、土煙の中から二柱の魔王のシルエットが歩み寄ってくるのが見えた。
やがて空気が落ち着いた頃、知性を取り戻したワニ顔キリン頭の魔王は言った。
「次は正々堂々、やり合えるんだろうな、転生者どもよ」
いや正々堂々とか、どの口が言うのだろう。名前は忘れたが、このワニの魔王は、子供を人質にとって逃げおおせようとしたと思うんだが。
ミクミさんは、呆れたように笑いをもらし、言葉を返す。
「正々堂々……ね。まるでマトモな人間みたいなことを言うじゃないの。やりにくいから、悪は悪らしくあってほしいんだけど」
このミクミさんの声に反応したのは、まだ名前も教えてもらっていない獅子頭の魔王だ。
「人間みたい? フハハ、おもしろいな小娘! 人間とは! 我らは新世代の魔王。エルフや人間が跋扈する以前の黄金を復興する。それを約束として生まれたのだ。人間と一緒にされてはたまらぬし、また、半端な他の魔王どもと一緒にされるのも御免だ」
そして、頭上高くから見下ろしてくるワニ顔が続く。
「知性と尊厳と腕力と胆力。狡猾な人間や尊大なエルフなどとは質を異にする偉大な種族だ。新たな支配者となるのは、吾輩をはじめとする新世代の魔王なのだ」
ミクミさんは、二柱の魔王を相手に一歩も退かず、強い口調で言葉を返す。
「要するに、ベタに自分たち以外を滅ぼしたいってことね?」
「そんなものは結果、いや過程に過ぎぬ。最強の魔王たちで満ちる世界こそ、本来のこの世界のあるべき姿ということだ」と獅子頭。
「ああそうだ。世はまさに、力の時代を迎えようとしている!」とワニ顔のキリン首。
「そういうの、時代遅れって言うんじゃないの?」
「フハハ、そんなもの、未来の者たちが決めることよ。我らの覇道が実った先には、力なき者たちが苦しみの世界に生きねばならぬこの現代は、暗黒の人間時代とでも呼ばれるようになることだろう」
「だが喜べ人間どもよ、いや転生者どもと呼ぶべきか? お前たちの死が、その時代に終止符を打つのだからなあ」
「そんなことには、させない!」
「決戦の日が楽しみだ。せいぜい小賢しい技でも磨いて震えてるんだな」
魔王たちは、そう言い残して去って行った。彼らを見送った後で、ミクミさんと僕は、無言でウィネさんを見た。聞かねばならないことがあったからだ。
ウィネさんは、足下で転がしていた小さな瓦礫を腰を折って一つ拾い上げ、瓦礫の山の中へと放り捨てた。その後で、ひとつ息を吐くと、ミクミさんの目をまっすぐに見て、言うのだ。
「知りたいのは、毒殺作戦に踏み切った理由、ですよね。はっきり申し上げますと、勝てると思えなかったからです」
「は?」
ミクミさんは控えめに言って激怒していた。今までで一番怒っている。今にも斬って掛かりそうな空気を撒き散らしている。
「放っておくと、魔王はさらに強大になります。実際、首の長いやつは一時的に頭が悪くなっているようでしたが、一度会った時よりも強くなっていることを肌で感じたでしょう?」
「で?」
「大魔王にならないうちに命を奪うべきだとエリザマリー様からの予言が出ましたし、その選択が最善と私が判断しました」
早い話が、僕らは信じられていなかったのだ。
ウィネさんは、とても有能なのだと思う。
毒殺。そのやり方は、とても卑怯ではあるけれど、僕ら転生者が置かれている状況を考えれば、ひどく正しいのだと思う。
僕でもわかる。取り返しのつかないほどに魔王の数が増え続けてしまえば、全面戦争となった時に勝ち目がなくなってしまう。だから、魔王誕生のペースを細かく監視観測したうえで、すみやかに数を減らす判断を下したのだ。
だけど、僕も、どこからその気持ちになったのかわからないけれど、怒れるミクミさんの激情に引きずられただけかもしれないけれど、胸に大いなる苛立ちをおぼえた。そして、考えるよりも先に、口から言葉が吐き捨てられていた。
「今まで! この方法を使って、何人倒したんですか」
僕が声を発したことに、ウィネさんは驚いて僕を見た。けれど、落ち着いた声ですぐに答えた。
「そうですねぇ、数えていませんが、転生者と魔王との数のバランスをとるためです。仕方ないでしょう」
「それにしたって、こんな……」
「転生者たちが全員、魔王よりもずっと強ければ、こんな悩みなど無くて済むのですよ」
僕は怒っていたはずだった。たぶん本当に怒っていたはずだった。けど、ウィネさんのこの言葉をきいた途端に、申し訳なさの方が上回ってしまった。そして、口をついて出てしまったのが、
「すみません」
「は、はい? なんです急に。なぜフシノが謝るんですか?」
「え、僕に向かって言ったんじゃないんですか?」
「いえ、そのように受取られてしまうとは思いもよりませんでした」
そしたらミクミさんが毒気を抜かれた顔で、横目で僕を見ながら、
「フシノってさ、本当、陰キャの極みだよね」
「すみません」
「なんでそんななった」
「自分でもよく分かりません」
強いて言うなら、後ろめたさ、なのだと思う。クラスの決まり事を踏みにじり、約束を守れなかったために全員に敗北を味わわせてしまったことについて、僕は心のどこかで、ひどく後悔しているんだ。
「いつかさ、ちゃんとわけを聞かせてよね、フシノ」
ミクミさんにさえ、僕の失態を知られたくはない。だから僕は、無言を返した。
そうして、僕があまりに陰の者だったために、あやうく対立しそうな緊張がすこし和らいだのだった。陰の者であることも時には役に立つものだ。
ウィネさんは言う。
「あなたたちが弱いと言うつもりはありません。ミクミ――と今は名乗っているのでしたか。あなたはとても強く、皆から愛される剣士です。フシノにしても潜在能力の高さに大いなる可能性を感じます。
しかし、運命の魔王とされる相手が強すぎるのです。予言によれば、あの二柱を含めた魔王連合軍によって、人は人でなくなり、美しいこの世界が、苦痛に満ちたものに変えられてしまう。だったら、何としても弱いうちに叩くしかないでしょう?」
とても正しいと思う。
でも、それは、僕らの意志を無視する選択でもあるのだ。
やはり正しくないと思う。
僕らはすでに選び取っているのだ。どんなに恐ろしくても、ひとりで魔王を倒す道を。
そのとき、ミクミさんは、何を思ったか、唐突に僕の腕を掴んだ。
そして言うのだ。
「そんな予言なんか、あたしたちが上回ってあげる。ね、フシノ」
急に僕に語り掛けてきたので、話すことを何も用意していなかった。僕は慌てて視線を泳がせながら、思ったことを言うしかない。
「えっと、その、自信はないですけど、やるだけやってみます」
「まーた保険かけた。こんな時まで陰キャの返答やめなよ」
「すみません」
いずれにしても、この暗殺失敗によって、僕はもう、本当に進むしかなくなったのだ。
あの獅子頭の、僕の魔王に勝利して、世界を救う道を。




