スキマライフ!~パパ会議② 王様と宰相
ゆったりとした動作で、次の書類が置かれていく。
いっそバタバタしていてくれたなら、自分だけが追い詰められているような気にならずに済むのに。
思わず頭痛を堪えるような仕草をしてしまうのは、この国の頂点に立つ男。
「…リーシャルド。これ、実は急ぎではないのではないか?」
言わずにはいられない。だって、全然頂点という気がしない。
飴と鞭どころか、鞭に鞭で働かされている。
そんな嘆きを胸に秘める王様に、宰相は。
「優先的な案件だと考えますが、ご判断はお任せしますよ」
ニッコリと、有無を言わせぬ、得意の笑顔。
優しげに細められ、笑みを深めていく赤い目。
容赦なく積み上げられていく書類。
反比例して目が死んでいく国王。
このところ、毎日毎日、腱鞘炎になりそうなほどにサインを繰り返している。
執務の一環なのは確かであったが、これほど休む間もなく署名を要求されるのは初めてのことだった。
やはりおかしい。
こんな書類漬けの日々が始まったのは…そう、あの時からだ。
心当たりは、残念ながらあった。
「お前、未だに、余が娘の決闘を見に行ったことを怒っているな?」
「おや、姫も決闘を。最近の女の子は元気ですね」
「そんなことは言っておらん。お前の娘だ、お前の」
さらさらとペンが紙の上を走っていく。
崩れたサインはもはや、ギリギリで読めない。
しかし公文書に使われるのは、特殊な製法で作られたインクだ。
専用の道具を用いれば、書いた人間を判別できるインクであり、然程問題はなかった。
もしもここに宰相の娘がいたのなら、「さすがお父様、抜かりない!」と無意味に父親を褒めちぎるであろう。
ちなみに、偽造防止であるこのインクを使うことと、リーシャルドの意志は特に関係がない。
「そう…陛下はあの日、親の私が見に行くのを堪えたというのに、わざわざ私にだけ行き先を伏せて抜け出されましたね」
王は、不意に室内の空気が重くなったような錯覚を覚えた。
心なしか気温も僅かに低下した気がする。
そして顕著に、宰相の声が低くなっていた。
「…しかしながら過ぎたことですよ」
「全然、過ぎてる感じがしないな。おい、もう書類を積むのをやめろ、今日中に目を通しきれる量じゃないだろう!」
「公務でしょう。国のためですよ? 削れば良いのではないですか、睡眠時間を」
やっぱり怒っている。
溜息をついて国王は項垂れた。
「余の右腕が、余を殺そうとする日が来ようとはな…」
「大変ですね。ロープをお貸ししましょう、どうぞ」
「持ってるのかよ! 右腕は比喩だろ、お前のことだよ! 人の手を縛ろうとするな、サイン出来なくなってもいいのか!」
「ペンと手を縛れば良いです。良かったですね、朝までサインできますよ」
「だから、書類は急ぎじゃないのだろう!」
ツッコミが広範囲に分散してしまい、国王のイライラは発散しきれない。
宰相と国王の、執務室においてのこんな遣り取りは日常茶飯事だった。
幼少時に学友として城に上がっていたリーシャルドが後に側近となったことを知る者は多いが、非公式の場でこうもフランクな関係であることを知るものは限られている。
さすがに、扉の締め切られた執務室以外でこんな掛け合いはしないからだ。
王が深い溜息をついた途端に、追撃が飛んできた。
「右腕なんて、簡単に仰らないで下さいね。他人に誤解されると迷惑ですから」
「笑顔で切り込んでくるのやめろ!」
にこにことリーシャルドは微笑んでいる。
子供の頃であれば、あと2、3言はキツめの言葉で抉り込んできたことだろう。
随分と丸くなったものだと、王はしみじみ時の流れを噛み締める。
「それにしても、オルタンシアは強かったぞ。さすがはお前の娘だ。しかし、それほど気にかけていたのなら、見に行けば良かったのではないか?」
「仮にも決闘なのですよ。…娘を傷付けかねない相手なのに、死角からナイフを投げられないではありませんか」
「そっちかよ。殺す気満々じゃないか。試合を汚すどころの騒ぎじゃないな」
きっと乱入してしまう…そんなことを危惧して見に来なかっただなんて、娘には知る由もない。
リーシャルドは少しだけ眉を寄せた。
どこか愁いを帯びて見えるその表情にも、王の心が動かされることはなかった。
碌なことを考えていない、と長年の勘が告げていたからだ。
先手を打って、考えていそうなことを止める。
「絶対やめろよ、あの冒険者を闇討ちするとか、そういうの。現役の宰相が冒険者に私刑を加えるなんて、国の恥だからな?」
「はい。まず辞任しましょう」
「やめ…じゃない、退職はよせ!」
「おや。辞めろと言ってくれたら、辞任が成立しましたのに」
揚げ足を取られぬように言い直す癖が染み付いている辺り、攻防は日常的であることが窺えた。
やっぱりか、と王は戦慄する。
妻のために地位を得た宰相は、妻を失った今、もはや地位に未練などない。
やめろといえば嬉々として辞め、領地に引き篭もってしまうかもしれない。
父親の再婚相手を跳ね除けようと決闘したうえに、勝利した娘も一般的な令嬢ではない。
王子との婚姻にも興味がないと言うくらいだ。
父親がそうすると言っても気にせずついていくだろう。
いっそ親子で冒険者なんて始めてしまうかもしれない。
王はそこに、追いかけて行って「楽しそうだ!」と共に冒険者活動をするヴィスダードまで幻視した。
「冗談ですよ。娘が頑張っているのに、そんな真似はしません。…剣など振り回しているのは心配ですが」
クッと国王が笑った。
恐らく同じことを考えている。
そう気付きつつ、リーシャルドは言葉を続ける。
「せめて成人までは大人しく家にいてくれるといいのですが」
「どうだかな。なんせ父親が、成人前に家を飛び出して冒険者になってしまったような男だからな」
「ほんの数年、自由に生きただけですよ」
「いや、その後も自由だったろ。戻ってきてからは見事な手腕で出世していったが…あとで聞いた話じゃあ、上が詰まってると出世できないからって理由で不正や汚職をガンガン摘発したらしいな?」
「ええ、ちょっと取れる中で最高の地位が必要になったものですから」
「おい。否定しろよ、怖い」
「妻に不自由な生活をさせるわけにはいきませんから。貴方の首を狙わなかったことを感謝してほしいくらいですよ。それが必要ならやりました」
「…冗談だろう? 宰相くらいの地位でないと自分の能力が生かしきれないからだよな?」
「実家以外でしたら、どこにいてもベストは尽くせます」
結局、どんなに否定させようとしても否定はされなかった。
冗談だと思いたかったのに、どうやら事実であったのだろう。
何だか急に疲れた気がして王はソワソワと時計に目をやる。
「そろそろ休憩するか」
宰相は心配そうな顔をして、書類入れを示して見せた。
「そんなことをしている暇があるのですか?」
「だから! この書類の山は急ぎじゃないからな!」
あっという間に心配顔は消えて、リーシャルドはニコニコしている。
王は悪態をつきながらも、変わらぬその面の皮の厚さに安堵した。
溺愛していた妻を失ったあとしばらく、宰相は「愛想笑いも面倒くさい」と笑みなど浮かべようとはしなかった。増えるかと思われていた、王に対して遠慮なく吐いていたはずの毒も激減していた。
娘がいなければ失踪していてもおかしくなかったと彼は思う。
リーシャルドにとって、世界の価値は二度と戻らないのだから。
仕事はこなしていたが、現実逃避の一環だったのだろう。
傍目にも落ち込んで見える宰相の失脚を狙い、罠を仕掛ける者も多々いたが、何の間違いも起こさず的確に大量の仕事と邪魔者を処理していた。
お陰で、そのときも回されてきた書類の山に泣いた覚えがある。
気付いてしまった王は、立ち直って良かったなと持っていくはずだった思考を、真顔で心の奥に沈めた。




