スキマライフ!~いつの間にか婚約者ではなくケーキの説明をしていた。【アンディラート視点】
スケッチブックの表紙をめくり、被写体を見つめた途端に真剣になった彼女の表情。
それを目にしたエーゼレット夫人が、小さく息を飲んでいる。
赤子に向ける表情としては少し適さない気もするが、彼女が完全に深い集中に入ったのが、見て取れた。
「これは…しばらくは、名を呼んでも気付かないかもしれません」
そう伝えると、相手は不思議そうな顔をした。彼女の集中力の高さを知らないのだ。
もしも夫人がふと声をかけてしまった時に、オルタンシアが返事をしなかったら…無視していると、思われてしまったなら。
…それは、彼女が望むことではないだろう。
だから俺は説明した。
「オルタンシアは絵を描くのが好きなので、放っておけば一日中でも描いていられる。だけど今日はそんなわけにはいかないから、集中して短時間で描くことにしたようです。あの子は貴女が思うよりは不器用で、絵に集中してしまえばこちらのことを忘れてしまう」
俺がいるからと対応を任せてくれたのだとすれば嬉しいのだけれど、そこまで考えているとは思えないものなぁ。
急いで描いているのだろう。一見何事もない姿に見えるが、持ったペンだけが凄い速さで行ったり来たりしている。
近くで見ていれば、紙から滲み出るように絵が出来上がっていく様が見られるはずだ。
あれは実に不思議な光景だと思う。
本当はそれを側で見るのが好きなのだけれど、今日は我慢するしかない。
「ルーヴィス様は、彼女の婚約者…なのでしたね?」
「…はい。とはいえ、元々幼馴染なのです」
照れてしまうが、手に入れた肩書きは誇らしいので胸も張ってしまう。
ただし俺は油断しない。「結婚前ならばまだフリーも同然だろう」なんて平然と言う者達も、見たことがあるからだ。
彼女は可愛らしいから、婚約者がいようとも、好きになる男はいるかもしれない。
オルタンシアに限って、俺を捨てるようなことはないだろうが…俺が弱そうだとか頼りなさそうだと思えば、ちょっかいをかけてくる者がいないとも限らない。
「それでは、ルーヴィス様は、彼女が決闘に挑む場も見たことがお有りでしょうか」
怯えの滲む声。
なぜだろう。そういえばこの人は、当初から……オルタンシアの何が怖いのだろうか。
オルタンシアの家族になる人だ。
ならば、きっと彼女はこの人を守るだろう。
リーシャルド様とグリシーヌ様には敵わなくとも、オルタンシアにとっては大切な相手であるはずだ。
「ええ。初めての決闘も見ていました。それに、俺が剣を教えていたこともあります。だが、安心してほしい。彼女は貴女を害したりはしないから」
驚いたように相手はこちらを見た。
剣を振り回すことが問題であるのなら、貴族令息のほとんどは当てはまる。
だが、この人には俺を恐れる様子はない。見たところ、親兄弟も剣くらい使うだろう。
この人が怖いのは、オルタンシアが自分に剣を向けることなのだろうが…なぜ向けられると思い込んでいるのか。
俺の顔色を窺うように見て、それから、チラリとオルタンシアに目を向ける。
当然のように、彼女はこちらを見ていない。
ペンの動きが変わらないから、やっぱりこちらには意識を向けてはいないのだ。
「…聞こえてないと思う。あれだけ集中しているときは、呼びながら肩でも叩いてやらねば反応しないはずだから。人前であんなに集中するのは本当に珍しい。余程、双子達を描きたいのだろう」
あぁ、リーシャルド様に見せてあげたくて必死なのかもしれない。だから、何としても今描き留めておきたいのかもしれないな。
パラリとオルタンシアはページを捲った
どうやら1枚、描き終えた。速い。
「もし何かあの子のことで不安や疑問があるのならば、俺が可能な限りお答えする。出来ればあの子を嫌わないでほしいから」
遠回しにどうこうするのは不得手だ。
ちょっと貴族らしくはないけれど…曖昧にした結果、伝わらないならば意味がないと思う。うちの父がそのいい例だ。
それに彼女の良さを伝えてあげられるのは、今この場に俺だけなのだから、精一杯のことはしたい。
エーゼレット夫人はチラチラとオルタンシアを見ている。
…だから、集中していて聞こえていないと思うのだけれど。
それでも気になるのかな。
彼女には聞かせにくい話なのかな。
「…あの…」
意を決したように、相手が口を開く。
俺は黙って続きを待った。
やはりオルタンシアに聞かれてはいけないと思っているのか、小さな小さな声だった。
「彼女は、新しい母親を拒んで、決闘していたのではないのですか」
今更、オルタンシアに聞かれて困るかな?
それは当時からよく囁かれていたことのような気がする。
「…違うと思う。リーシャルド様が求めないうちに持ち込まれる縁談が、問題だったはずだ。それを止めるために、オルタンシアを倒さねば縁談を持ち込めない状況を作ったと聞いている。だから、リーシャルド様が直接選んだ貴女を、彼女が拒むことはない」
「そう…でしょうか…?」
納得いかない顔をしているな。
オルタンシアは「必要だから決闘する」としか言わなかったが、後に事情はリーシャルド様から聞いた。
グリシーヌ様を失った直後から縁談は持ち込まれた。しかし、リーシャルド様が立ち直るためには時間が必要だったのだという。
あのリーシャルド様だから、とも思う。
彼は、自他ともに認める愛妻家として有名だった。彼が妻と娘に向けた優しい目を、俺は知っている。
あのリーシャルド様でさえ、とも思う。
そう考えると、うちの父は本当に、よっぽど俺の母を好きではなかったんだなぁ。
オルタンシアは強いから…俺より先に死ぬなんてことはそうそうないはず。
でも俺だって…もしも、オルタンシアが、俺の手の届かない場所で魔獣に襲われ、死んだなんて聞かされたら…。
彼女は時々うっかり屋さんだから、絶対にないなんて言い切れないよな。
そして、思う。
彼女がいない世界なんてものの、恐ろしさといったら。
家出されただけでも絶望的だった。
当たり前みたいに共に居たのに。
会えないことがあんなに辛いことだなんてそれまでは知らなかったし、まるでこの世から灯りが消えたように感じた。
会えない日々が重なっていくことが、あんなにもひしひしと辛いなんて知らなかった。
名を呼んでもらえないことが、笑いかけてもらえないことが、次にいつそうしてもらえるか当てもないということが…。
それを思えば…好きな人に二度と会えなくなったリーシャルド様がどのような精神状態だったかなんて、想像するのも恐ろしい。
きっと娘が、オルタンシアがいたからこそ、耐えられたんだろう。
今なら、己の力不足を嘆いたあの日、リーシャルド様に告げられた言葉がただの慰めではなかったのだとわかる。
「私は…若い頃から旦那様を想っておりました。けれど、あの方が選んだのは私ではなかった…他の方に嫁ぐことは考えられず、家族に甘えて独り身でいましたけれど…今頃になって、お側に置いていただけるなんて、夢にも思っていませんでした」
…え。
嫌な汗が背中を伝う。
リーシャルド様。聞いてません。
そうだよな、リーシャルド様と、年齢的には釣り合っている相手だ。
うちは今の母上が結構下で…つまり母が適齢の時に、年上の父に政略婚として嫁がされた典型的後妻だ。まだ俺が赤子の時だから、違和感があるほど差のある相手ではなかったというだけ。
エーゼレット夫人のように、適齢を過ぎた女性が後妻候補に上がるなら、既に離縁したか死に別れた寡婦か、そうでなくば…理由あって、ずっと独り身。
でもその理由が…好きな人が別の人と結婚したから、というと。うーん。夫人は相当家族に可愛がられている娘だということだ。
貴族としては政略婚が当たり前。俺みたいな「したければ自分で見つけてこい」というのは珍しい。
…成程、オルタンシアへの、ご家族の視線の強さはこれが原因か。
そして彼女はこれも知っていたんだな。
「だから、オルタンシアが貴女を認めないのではないかと思ったのですか?」
「一般的に見れば、そうなりますわ」
エーゼレット夫人が俯いた。
確かにちょっと、子供から見れば少し複雑な相手かもしれないよな。自分が生まれるより前からずっと父親を想っていて、この度が初婚の義母というのは。
だけどあの子はリーシャルド様が大好きだ。
今更、政略的な家から嫁がれるよりは、父親が好きで嫁いできてくれるほうが受け入れられるのではないかな。
…うん、そんな気がする。
俺だって家名と財産を狙う野心的な義母よりは、父を愛してくれる相手のほうが良い。まぁ、うちの場合は義母の実家が野心的で…母は父を愛そうと努力をしてくれていたのだけど…父が踏みにじって…。うちのことは置いておこう…今は平和なんだ。
何の例にもならないことは、一旦忘れる。
残念だが、うちの父は一般的な貴族に含まれないからな。
「それを聞いて、オルタンシアはむしろ貴女を既に認めていると確信しました」
「えっ」
「他人である俺でさえ思いますよ。迎えるのなら、地位と権力しか興味のない相手より、リーシャルド様を愛してくれる女性の方がずっといい。リーシャルド様は優しい方ですから、その、友人の子でしかない俺ですら、幸せになってほしいと思う」
俺は昔から良くしていただいているからな。
外で聞く宰相の噂や武勇伝にはオルタンシアに聞かせるには忍びないものが多くて…でも「リーシャルド様ならやりかねないな」とも思ってしまうけど。
それはリーシャルド様は冷たいとか酷薄な方だという話ではなくて、単に敵には容赦しないというだけのことなんだ。
オルタンシアを見ていれば、親子だなぁと納得もする。多分エーゼレット家は皆、身内枠に認定した相手しかあんまり大切にしない人達なんだ。そして認定範囲が渋い。
貴族としては、誰彼構わずいい顔をしておいて、腹の中で嘲笑うような人だってたくさんいるじゃないか。
リーシャルド様もオルタンシアも、受け入れずに初めから切り捨てる様を隠さず見せているから、ちょっと特殊に思えるだけだ。
情がないわけでも何でもない。
「…オルタンシアは、本当は、ちょっと令嬢らしくない。絵を描くのが好きですが裁縫も得意です。刺繍だけじゃなくて、あっという間に服を縫ってしまったりもします」
エーゼレット夫人は困惑げにこちらを見る。
俺は言葉を止めずに続けた。
「歌うのと、踊るのが好きです。日向ぼっこと、それから、そのままうっかり暖かいところで昼寝してしまうのも得意だ」
「まぁ」
おどけてそう言って見せれば、相手は思わず笑った。
ほら。令嬢らしくないことに眉をひそめるのでなく、笑ってくれるのならば、大丈夫だと思うな。
足りないのは互いの情報だ。恐れるのは、相手を知らないからだ。
それでも、彼女らは今後も家族として一生続く縁を持つ。
家出前の2人ならば仲良くなれなかったのも仕方ないのかもしれない。あの頃はまだ、オルタンシアは、他人が怖かったはず。
「誰かに傷付けられるのが怖いからと、その前にわざと他人を突き放そうとしていたこともある。だけど自分よりも、大切な人が傷付けられることを極端に恐れます。決闘もその一環でしていたらしい。だけどどうにもお調子者なところもあって…そう、あの頃は勝つことの他に、如何に貴公子らしく格好良く見られるかに拘っていました」
格好良くマントを翻す練習を、一生懸命していたものだ。
そう伝えれば、相手は今日の「完璧な令嬢ロール」の印象を崩されて目を丸くする。
オルタンシアは完璧じゃない。貴公子でもない。それをわかってほしい。
「男装するのならと徹底して男らしくあろうとしていましたが、本当は、全然そんなことない。剣よりも包丁を持つ方が得意なんです。どこでレシピを手に入れたかわからないような、見たこともない料理を作ります。だけど、いつも絶対美味しい」
普通という型に納めようとするから、はみ出た部分が不可解に見えるんだろう。
普通の令嬢の型になんて、特に。とてもじゃないが、型が小さすぎて嵌めようがない。
「彼女は令嬢なのに剣士に見えたかもしれないが、実は絵師で針子で料理人なんだ。やらせればきっと何でも器用にこなして見せるから、こちらが一面しか見ようとしなければそこだけ特出して見える」
「…でも、見えるだけが、全てではない…そう仰りたいのね? 何でもできるだなんて、随分と期待の大きな言葉に聞こえるわ」
「でも実際、出来てしまうので。とはいえ、リーシャルド様の娘だと思えば、そんなに不思議なことでもないと思いませんか」
「………確かに」
リーシャルド様は生家を廃した冷酷な貴族と言われているが、愛妻家で子煩悩だ。腕自慢の元冒険者だというが、見た目は如何にも文官然としている。
宰相なのに、暴れ猪みたいなうちの父の友人をしているし、大抵は優しげに見えるが、案外押しが強い。
それこそ勝手な印象を持って対すれば、簡単に裏切られることは確実だ。
俺はあまり知らないが、ひょっとしたらグリシーヌ様にもそんなところはあるのかもしれない。オルタンシアが「お母様はおっとりとバッサリするから」なんて言っていたことがあるからな。
誰しも一面しか見ずに対すれば印象の差はあるのかもしれないが、エーゼレット一家は特にその傾向が強い可能性がある。
それからしばらく、夫人は無言でオルタンシアを見つめていた。
伝えるべきことは伝えられたと思う。
オルタンシアはこちらの様子に気付きもせずに、真剣に絵を描いている。
残念ながら、令嬢らしいかといえば、ちょっと違うと思う。今の彼女は、令嬢の服を着た絵師としか言えない。
「絵師よね」
夫人もそう思ったようだ。
どこか納得したような声で呟いていた。
そこから、夫人は俺から見たオルタンシアの具体的な話を聞きたがった。
令嬢でも貴公子でもないオルタンシアに、興味を持ってくれた。
嬉しくて、俺はたくさん話す。
彼女について話すことは、幾らでもある。
「先程仰っていた見たこともない料理というのはどんなものがあるの?」
「例えば…揚げるという調理かな。突然鍋にたくさん油を入れだした時には、何をする気なのかと目を疑った。熱したそれに彼女が肉や野菜を入れると美味しくなるんだ」
「えっ。ど…ういうことですか?」
唐揚げや天ぷらの美味しさを語る。
…お腹が空いてきた。揚げ物が食べたくなってきた。今晩、唐揚げにならないだろうか…宿の食事では、絶対に出てこないことはわかっている。
でも、戻ったら彼女ももう疲れているだろうな。我が儘を言うのもどうかと思う。
「そうなのですか…ジャガイモを揚げるだけでも、そんなに…」
フライドポテトは一緒に揚げたことがあるから説明できる。
肉詰めピーマンは美味しいが、ピーマンがないから説明できない。
調理法については特に秘密にするようには言われていないし、揚げ物広まれ!って言ってたから平気なはず。
「他にも、オルタンシアはお菓子も作れる」
「まぁ、例えば、どんなものですの?」
ミルクティークッキーは言っちゃダメかもしれない。あれは俺にとって特別なお菓子だ。
彼女は気にしないかも知れないが、俺には大事な思い出で、そしてたまに異様に食べたくなる不思議なクッキー。
そうすると…俺にとってとても衝撃的だったお菓子は…。
モンブランだな。あれは…何だかよくわからない美味しさだった。栗だったことはわかるが、何をどうしたらああなるのか。
オルタンシアが唐突に気まぐれに作ってくれるものも美味しいが、祝い事として気合を入れて作ってくれる時は、なんかもう俺は胃袋を掴まれているんだなって凄く自覚する。
「細く絞り出した栗のペーストが一面にかかっているケーキとか。なめらかで、それだけでも永遠に食べていられるが、その下に白い甘いクリームと、甘く煮た栗が入っていた。その時は栗のモンブラン…と言っていたから、他に何で作る気かはわからないが、違うもので作ってもいいのかもしれない…」
「そ、それで? それで、どうでしたの?」
「…とっても美味しかった」
不味いわけがない。
いつの間にか身を乗り出していたエーゼレット夫人が、うっとりと溜め息をついた。
「素敵。どんなものか気になるわぁ…」
あっ、オルタンシアがこっちを見た。




