平穏、崩壊。
来るべき日が来てしまった。
唐突なその訪れに、私は二つの思いを抱えて佇む。
ああ、来てしまったか。そんな諦観に満ちた思いと。
なぜ、どうして、お母様が。そんな納得できない思い。
お父様が泣いている。
悲鳴のようなその嗚咽に、使用人達は何も言わずに痛ましそうな目を向ける。
私もただただ、胸が痛い。
私とて泣きたいけれど…彼の嘆きに比べれば、私の思いなどなんてちっぽけなものかと気付いてしまう。
「領地から戻る途中で、魔獣に襲われていた親子を見つけたそうです」
家令の声に、ぼんやりと目を向ける。
ああ、魔獣なんているんだった…そうだよね、色んな道具が魔石を燃料にしているんだもの。
魔石は魔力に満ちた岩盤から採掘されることもあれば、魔力に満ちた場所で発生した魔物や、魔獣へと変質した獣からも採れる。
そんな風に、習ったっけ。
「彼らを逃がして魔獣を引き付けたものの、…奥様も大怪我を負われてしまい…」
護衛も全滅した。
いや、正しくは瀕死の護衛が1人、お母様の亡骸を連れて戻った。
けれどその護衛も、家令に事情を伝えると息絶えたそうだ。
ただちに危険な魔獣の情報を冒険者ギルドに伝えたが、ヴィスダード様が真っ先に飛び出していってしまったとのこと。
あの人は、冒険者証も持っているんだって。
国内で危険な魔獣が出たら、基本は冒険者ギルドが対応するのらしい。
国としての判断で動くのが騎士団なので、冒険者だけで手に余るような事態であれば騎士団が出るのだろう。
お父様は手配と指示を終えた後、お母様が寝かされた部屋へと戻り…。
もう、何時間も泣き続けている。
お葬式は今夜だ。
なぜなら今は夏で蒸し暑く、遺体は時間を置くほど傷んでしまう。
氷をかき集めてきてはいるが、室温を下げきるには到底足りないし、ドライアイスなどは存在しない。
お父様だって、お母様とできるだけ長く共にいたいはずだ。
もっと氷で部屋を埋め尽くしてしまえば。そんな風にも思った。権力と財力を最大限に使えば、部屋ごと凍らせることだって不可能ではないのではないか。
しかしそうしてしまえば、それこそお父様は、死を受け入れられずにおかしくなってしまうかもしれない。
そして維持し続けられなければ、絶世の美女たるお母様が、望まぬ醜い姿を他人に晒すことになるかもしれない。
お母様は私室ではなく、玄関から運び入れやすい応接用の一室に寝かされていた。
私室に入れてしまえば、お父様が2人で閉じ篭りかねないという理由もあったと、使用人が噂していた。
「ねぇ。2人だけにしてさしあげて」
私が言うと、使用人達は困ったように押し黙った。
家令が付くというので、それも控えてくれるよう、重ねてお願いする。
皆はお父様が思い余ってしまうのではないかと心配しているのだ。
…そのくらい、彼の嘆く様は酷い。
「大丈夫です。だから。今は2人にしてあげて」
私でさえ、ここにいてはいけないのだと思う。
半ば無理矢理使用人達を追い出し、それから、家令の袖を引いた。
人払いをした部屋で、彼にだけ、協力を求める。
「今夜、場合によっては、お父様はご乱心されるかもしれないわ」
「…今も、側にお付きした方がよろしいと存じます」
「今は大丈夫。…今夜、です」
訝しげな家令に、私は微笑んだ。
この人だけは、多分大丈夫だと信じている。
誰が敵か味方かもわからない使用人の中で。
「あなたは、絶対にお父様を裏切らないわ」
「…ええ、そのつもりでおります」
「だから私が今から言う話も…馬鹿なことをと思いながらも、気に留めてくれるわ。お父様のためになるかもしれない情報ならば、決して頭から否定はしない」
家令はすっと目を細めた。
この人が元々どんな人なのかは知らないけれど、やたらとお父様を崇拝していることは知っている。案外内面はアグレッシブなことも。
身体強化様をもってしても勝てないかもしれない、と思っている内の1人だ。
「きっと葬儀の後になるでしょう。お客様がいらしたら…私と、お父様が対応致します。出来れば貴方も、お父様の補佐をしに応接室へ。決してお父様お1人では会わせないで下さい」
「お客様…ですか? そのようなご予定が?」
「なければ一番いいわ。だけど、きっと最悪なのが来る」
常識的には有り得ない奴らが。
恐らく使用人が対応しても、身分を盾に「足止めする」など「無礼だ」だのと押し切られ、上がり込まれてしまうのだろう。
私のことも、家督も継がぬ女児だから問題ないと簡単に突き飛ばしちゃうような奴らなのだ。
「私が呼んだらすぐ入室できるよう、筆記具を持った者を待機させなさい。必ず、状況がメモできるようにして。それが我々の今後を救います」
「…かしこまりました。しかし、お嬢様…」
「失敗すれば、私達はお父様を失います」
言い切る私に向けられる、家令の目は真剣そのものだった。
子供だから。荒唐無稽だから。命令の意味がわからないから。
そんな否定より、彼は「お父様の危機かもしれない」という情報を重視した。
「今夜を乗り切れれば、それでいいわ。そうすれば、きっとお父様はこれほど無防備な精神状態ではなくなる」
予知夢という能力を持ちながら、お母様を救うこともできなかった私は。
母を失うことを、『決定的に悪いこと』と出来なかった、最低な私は。
せめて、彼女が愛したお父様を、守り通して見せよう。
メイドがおずおずと呼びに来た。司祭が到着したのだ。
この世界では、神職による葬儀か遺体の火葬がなければ、迷信でもなくアンデッドとして甦り得る。
絶世の美女たるお母様を、魔物に貶めるような、そんな目に遭わせるわけにはいかない。
お父様がどんなに悲しかろうとも、当日に葬儀を行うのは、そのためだった。
朗々と祈りの言葉を読み上げる司祭の声を聞きながら、私とお父様はぼんやりとしていた。
涙はとめどなく。
脳裏にはふつりと途切れてしまった日常が、幻燈のように巡る。
青白い顔のお母様は、それでも、世界で一番お美しい。
「今は葬儀の最中です、どうか…!」
「うるさい、家令如きが、私を誰だと思っている!」
「まぁまぁ、こんな夜なんですから穏便に…」
騒がしい気配に、はっと気を引き締める。
歯を食いしばり、手の中のしわくちゃで湿っぽいハンカチを使って涙を拭った。
お父様は、まだぼんやりとしていて、事態には気がついていない。
祈りの言葉を紡ぐ速度を上げた司祭は、状況を的確に察しているようだった。
…そうよね。
葬儀を行うことが多ければ、こんな事態に遭遇する機会も多いでしょうよ。
「おお、ここにいたか。丁度葬儀も終わったようだな」
「いやいや、この度は誠に残念なことで。御悔み申し上げます」
「司祭殿はすぐに帰られるのかな? お忙しい身でしょうからな」
…クズどもが。
はしゃぎやがって。
苛々と、どす黒い気持ちが胸に満ちる。
間に入ろうとした私は案の定、サクサクと荷物のように除けられた。
お母様の安置されたこの部屋を「辛気臭いから場所を変えよう」なんて言いながら。
そんな言葉にさえ反応できないくらい、ぼんやりして何も見えていないお父様を引っ張って行くのだ。
奴らは当たり前のようにメイドに茶を要求し、応接用の一室に陣取った。
閉められるドアをギリギリですり抜けて、私も室内へと共に入る。
家令は間に合わずに締め出された。想定内だ。夢でも彼は中にはいなかった。
主人が客の対応をしている部屋のドアを、用もなく使用人が開けることなど出来ない。
そうして悪夢は繰り返される。
何度も何度も見た光景。ソファに深く沈み、両手で顔を覆うお父様と。
何やらと喚き立てて見合い用の肖像画をテーブルに撒いていく奴らと。
「お分かりでしょうな。国の重鎮たる貴方には、後妻を娶らねばならぬ義務があります」
「我々のような格式高い家からでなければ釣り合わぬ」
「こういうことは早めに進めておかねば、喪が明けるのに間に合いませんからな」
虚ろな目で、袖に指先を触れたお父様。
私は。
その瞬間に、床を蹴った。
「この、無礼者ども!」
飛び乗ったのは応接テーブルの上。
身体強化で最速の蹴りを発動。お父様が袖口から引き抜いたナイフを弾き飛ばす。
他者にそれが見えたかどうかは知らないが、お見合い画を踏みにじっては四方へと蹴り飛ばし、クズの注意を引き付けた。
「これはっ!」
「なんということを!」
囀ろうとする男達の前で、再び靴音高くテーブルを踏み締めた。
「黙れ! このような侮辱、許されるものではない。何事もなく帰れるなどと思ってはおるまいな!!」
令嬢としてあるまじきこの行為には、皆度肝を抜かれたようだ。
お父様ですら、信じられないものを見るように私を見上げている。
私のほうこそ、本当に何様。
…あぁ、クズの女王、オルタンシア様だよ! 問題ないね!
「ぶ、侮辱だと…?」
「あなたのほうこそ無礼ではないか、こ、このような…」
「侮辱以外の何物でもないわ。母の葬儀のこの夜に、この私に、新しい母親を早々と用意しようなどとは片腹痛い!」
相手は思わぬことを言われたという顔をしていた。
そう、彼らにとってオルタンシアという存在は路傍の石以下。
嫡男ではない女の子なんて、いずれ出て行く、家同士を縁付かせる政略結婚の駒。
つまりこの家自体を乗っ取りたい彼らにとっては関係がない生き物のはずだったのだ。
だがなぁ。お父様に妻を用意するってことは、私に母親を用意するってことなんだよ!
「誰か!」
「はい、ここに」
ぱぱん、と手を打つと間髪入れずに素早く家令が現れた。
使用人を用意するのではなく、本人が待機していたようだ。
その手に筆記具があるのを見つけ、私は頷く。
「両親の子は私のみ。つまり現状、この私が次期当主だ」
突然の前提条件引っ繰り返しに、クズどもが色めきたった。
お父様も寝耳に水の顔をしている。
この会話が、彼の耳と頭にしっかりと入っていることに、私は安堵した。
あの夢では、最後までお父様の赤い目に、表情が戻ることはなかったのだ。
…ああ、道化の道で正しかった。
そう気付いて、泣きそうになる。
「馬鹿な! あなたは女ではないか」
だけど、まだ舞台は終わっていない。気を抜いてはいけない。
クズの1人が意地になったように会話を続けて来た。
全く、いい傾向だ。助かる。
「女児が継いではならぬという法はない。第一、我が家の家督など、他家が口を出すことではないわ。ああ、後妻だがな。亡き母グリシーヌに勝ることは当然出来ずとも、せめて劣らぬような女性でなくば、認めない。簡単に我が母になどなれると思うな。父に後妻を娶らせたくば、次期当主たる私を倒し、認めさせてみよ」
あまり呆然としていられては、話の振りどころに困っちゃうからな。
私は一人一人、目を見て、微笑んだ。
「私は貴殿らに決闘を申し込む。…証人、すぐに城への立会いを依頼しろ」
「…はっ」
家令は余計な口を挟まずにさらさらと何かを書いている。
慌てたのはクズどもだ。
「そうか、代闘士にヴィスダード・ルーヴィスを立てる気だな!?」
「卑怯な小娘め!」
予想通りの発言に、指を差して笑ってしまいそうになる。
そうね、そうでしょう。
ヴィスダード様ならきっと誰にだって勝てる。頼めば引き受けてもくれるでしょうよ。でもヴィスダード様自身が、喪が明けて早々に後妻を娶っているのに、何の説得力もないじゃないの。
それでは、ダメ。令嬢失格になってまで決闘したところで、この3人しか退けられやしない。
「いいや? 代闘士は立てない。断っても構わぬぞ、年端も行かぬ小娘相手の決闘から逃げた臆病者と、広く、国中に知られることが、恥ずかしくなければな!」
混乱の声を上げるクズどもに私はニヤリと不敵な笑顔を作って見せる。
「お客様がお帰りだ、ご案内して差し上げろ」
家令は一礼し、扉を大きく開ける。
喚き散らす男達に私は最後の言葉をかけた。
「おやおや、こんな小娘が怖いか? これはただ、どちらの主張が正当かを天に問う決闘である。文句があるのなら決闘に勝って、貴殿らが正当と証明してみるがいい」
後悔するぞ、だの、とんだじゃじゃ馬だ、だのと捨て台詞を残しながらも、奴らはようやく我が家から出て行った。
私は未だテーブルの上に仁王立ち。
振り向くのが怖かったのだ。夢では、そこに見つけるのは、お父様の亡骸なのだから。
だけど何度か気を落ち着けようと深呼吸を繰り返して、気づいた。背後で続く呼吸の音。私と同じように、気を落ち着けようと深呼吸をしている。
かつりと靴音を響かせて、後ろを向いた。
目を瞠ったままのお父様。
…生きている。
悪夢は。
乗り越えたんだ。
「オルタンシア…お前…お前は、なんてことを…」
目を合わせると、お父様が表情を歪めた。
「仰らないで、お父様。考えなしにしたわけではありません」
ぴょんとテーブルから下りて、深々と頭を下げる。
「テーブルに靴で上がってごめんなさい」
「…あぁ。うん。いや、オルタンシア、そうではなくて…」
「お父様には、きちんとお母様とお別れをする時間が必要です」
わかってるよ。テーブルの件は、一応謝っておきたかっただけです。
私が告げると、お父様は小さく息を呑んだ。
ふわふわ笑うだけだったはずの娘が、突然偉そうに他人を詰り、決闘まで申し込んだのだ。
お母様の死で呆然としていたところに叩き付けられる娘の変貌。もはやお父様には何が何だかわからないだろう。
だから、出来るだけゆっくりと説明をする。
「成人前の子供が少しばかり派手に踊ったところでどうということはありませんし、元よりお嫁に行く気がないのですから、貰い手に悩む必要もありません。決闘もご心配なく。勝算があるから提案したのです。お父様が後妻を娶ることを考えるとしても、それは今ではないでしょう?」
戻ってきた家令が、ふと身を屈めたのが視界の端に映る。
…どこに蹴ったかと思っていたけれど、そんなとこに飛んでましたか…。
お父様のナイフを拾って、そっと隠したのを確認しながら、私は言葉を続ける。
これでお父様の自殺フラグは折れた。
お父様が正気を取り戻した以上、家令はこの件で私を問い詰めたりはするまい。
城への立会い依頼を取り消して、状況を悪化させるような真似はしないだろう。
見せしめは必要なのだ。でなければ、何度でも似たような手合いが訪れる。
あとは、お父様を説得するだけ。
お父様がやるべきなのは、あんな部外者に惑わされることなんかじゃない。
「お父様は、お母様のために泣いてあげてください。それは他の誰にも代わりの出来ないことよ」
「…オルタンシア…」
「私は観客の目を引き付けるため、全力で踊りましょう。道化が舞台を下りる頃には、きっと時間が色々と解決してくれます。…明日からはしばし、可愛らしいオルタンシアとはお別れですよ、お父様。ですから今、存分に愛でてくださいな」
ぎゅうと抱きつくと、お父様は間を置かずに抱き締めてくれた。
私の言葉に、反応がある。
それは、とてもとても幸せなことだ。
叱る言葉も問い詰める言葉も、お父様からはなかった。
それでも。
「グリシーヌの言うことはいつも正しい」
少し苦い声音で、ただ、こう言った。
「…どういう、意味ですか…?」
お母様が、一体なんて…?
「…可愛いオルタンシア。だから私は、お前の言う通りにするよ」
けれども私の問いには答えずに、お父様は悲しそうに微笑んだ。




