スキマライフ!~なんで羊なのかなぁ。【アンディラート視点】
目の前には、王都を出る前に用意した睡眠薬。まさか、本当にこれを使うことになるとは思わなかった。
眠るといっても何かあった場合に気付けなければ困るし、かといって狸寝入りだと思われるような様では困る。出来ればすぐに効くようにしてほしい。
そんな注文を付け、うるさい客だなーという顔をされながらも、何とか心折れずにわざわざ調合してもらったものだ。
しかもこっそりと買ったのに、翌日リーシャルド様から呼び出しがかかった。
貴族街の薬屋なのがいけなかっただろうか。
睡眠薬の購入がバレていた挙げ句、誰に使う気だと冷気を感じる笑顔で問い詰められた。
自分用に弱めの睡眠薬を買ったと答えたが納得してもらえず…用途までひとしきり喋らされたのは、本当に辛いことだった…。
でも、まぁ。娘と旅に出ることが決まった途端に睡眠薬を買いに走れば、娘に薬を盛る気なのかと疑われても仕方なかったよな。
…仕方なかったかな。
まずは不眠を疑ってくれないものだろうか。
隈なんて出来ていないし、明らかに不眠じゃない顔をしているから聞くまでもないのか?
だけど、顔を合わせて開口一番「まさかその薬を娘に使う気か」だなんて。
もしかして俺には信用がないのだろうか。
信用を失うようなことなんて、………したな。
で、でもオルタンシアだって、そんなことまで親に言ってはいないはず。俺だって、時折触れたくなるのをちゃんと堪えている、はず。
だけど、相手はリーシャルド様だ。何かを察知しているのかもしれない。
とはいえ俺がオルタンシアに薬なんて盛るわけがない。というか、睡眠薬だぞ。そんな突然オルタンシアを眠らせてどうするのか。
…本当にどうするんだ?
良く眠れば、疲れがよく取れる…だけならリーシャルド様が怒りそうにも思えない。いや、本人の承諾なしに薬を飲ませるのだから怒るか?
いや、そもそも俺用なんだけれども。
その後、リーシャルド様は「道中、足りなかったり効かなかったらこちらを使いなさい。一度に小匙一杯以上は使わないように」と小袋一杯の粉をくれたのだが、これは本当に睡眠薬なのだろうか。
袋自体は小さいが、付属の匙自体もやけに小さい。
小匙一杯を何度繰り返せばこの袋は空になるのか。そしてそんな微量で効くと…。
なんか怖いので、あまりこちらには手を出したくないな。
「どうしてこんなことに。…オルタンシアは本当に気にしないのかな…」
いつもだってあえて意識しないように頑張っているのに、なんでこんな目に…。
しかし愚痴っている暇はない。
彼女が戻ってくる前に全て終えなければ。
急いで最低限の装備の手入れを終え、水差しからコップに入れた水の中に粉を溶かす。
ベッドの上に移動。飲んですぐ寝るぞ。
考えない。今、オルタンシアが浴室を使っているとか、絶対考えない。
湯上がりなんて破壊力が高すぎる。それは壊れる危険があるだろう、俺の理性が。
夜営でも彼女は風呂に入るけれども、その後は少しも油断した格好ではないし、俺も魔獣に備えている。
だけど、宿は駄目だろう。魔獣を警戒する必要もない街の中で、これから眠るというのに、彼女が装備を付けるはずがない。私服どころか、パジャマなわけだ。
それは彼女が居なくなったあの夜に見た、如何にも防御力のない、寝るためだけの柔らかくて楽な薄手の黙れ俺。
俺はもう、自分の理性が信用できなくなってしまった。自分ではもっと丈夫なものだと思っていたのに、全然駄目だったじゃないか。
色々あったけど結果的には嬉しかったし、嫁に来てくれるって言った。だけど…そもそも俺がきちんと手順を踏めてさえいれば、オルタンシアがああも頑なになる必要もなかったのじゃないか。
彼女が俺のお願いに折れてくれたから良かったけれど、さもなくば俺は心に傷のある婦女子に狼藉を働いて、責任も取らずに放り出す羽目に。互いの内心がどうであれ、一度その形に決着してしまえば、二度と彼女の信頼は得られなかったことだろう。
だからこそこれ以上、婚前に問題視されるような行動はできない。リーシャルド様に結婚の許可を取り消されてしまうと困る。わりと本当に泣ける。
彼女に嫌われたのでなければ、諦めるという選択肢はない。もしもそうなったら駆け落ちするしかないけど…いや、やっぱり家族を大好きなオルタンシアが、一番喜ぶ方法でなければ。
というわけで、理性を保つことが第一。何も見ないために迅速に寝る。
ぐっと一気にコップの中身を呷った。
意外と、薬の味は感じないな。あ、後から苦味が来…、うわ苦い。苦い! 不味い!
逆に目が覚めるんじゃないのか、これ?
慌てて水差しからもう一杯、水をコップに入れて口に…うっ、コップの底に溶け残りがいた。軽くコップを揺すって、全部飲んだ。
足りなくて効かなかったら意味がない。
コップを置いて、ベッドに横になる。
苦い。こんなに苦いのに、効かなかったら損した気分だ。…効かなかったらあらゆる意味で俺がピンチかな。
別に昼間に一緒にいるのは平気なのに、どうして夜っていうだけでこんなにドキドキしてしまうのか。
苦味と焦りを抱えながら、しかし薬は迅速に効果を発揮した。
気付けばウトウトしていて、今にも眠りそう。壁側を向いて寝ようと思っていたのに、もう面倒で寝返りも打てそうにない。
…どのくらい経っただろう。
小さくドアの開く音。
トコトコと無防備に歩く、オルタンシアの気配。自分のベッドへ行くのかとおもったら、こちらへ近付いてきた。
「…えぇー、マジかー。君、もう寝てるの」
潜めた声で、そんなことを言う。
ごめんな。寝るよ。
どこかガッカリしたようなその声に罪悪感が湧くけれど、急にふわりと髪を撫でられて、気持ちいい。
「…そうだよねぇ。疲れているのよね。いつもありがとうね」
疲れてないよ。そう言いたいけれど、気持ちよさに負けて、声は出ない。
そのまま眠りに落ちそうになったけど、不意にオルタンシアの手は離れていってしまって、また少し意識が戻る。
もっと撫でてくれてもいいんだけどな。そんなことを言うのは変だよな。
そもそも、もう瞼も上がらない。起きるつもりで思い切り気合いをいれれば起きられそうだけれど、薬を使用しておいてそれでは本末転倒だ。
手が離れてしまったのは寂しいけれど、同じ部屋の中で彼女の気配がするのは、思ったよりも悪くない。
眠ってしまう寸前みたいな状況だからだろうか。
何だか懐かしいような気さえして。
シャッ、と小さな音がした。
一度だけではなく、連続して細かなそれは続く。
聞いたことのある音。唐突に始まったその音の正体をぼんやりと察する。
絵だ。オルタンシアが絵を描いている。
絵を描いている時のオルタンシアは、楽しそうで、時折真剣で、とびきり可愛い。
見たいなぁ。
目を開けたい。だけど眠たくて億劫だなぁ。
…こんな薬に頼らなくてもいいように、もっと鍛えなくちゃなぁ。俺が彼女に危害を加えるだなんて、絶対にあっちゃいけないこと。
そのうちに、オルタンシアは小さな声で歌い出した。
笑いたいような、くすぐったい気分になる。
多分、無意識なんだろうな。彼女はよく、絵を描きながら歌っているから。
俺の知らない、他の世界の歌。聞き取れない言葉の、聞き慣れない旋律。
けれどそれは確かに、彼女を形作るものの一部。
懐かしいと感じたのは、そうか、子供の頃のようだからか。
柔らかな日差しの下で眠って、隣にはオルタンシアがいて、絵を描いていて。
…あぁ、何だかとても幸せだ。
幼い頃の記憶と現在の境界が夢うつつになって、ぼやけて、溶けて…自分が夢に沈んでいくのがわかる。
ずっと続けばいいと思っていた日々。
きっと、今後も続くであろう日々。
俺が守っていけばいい。守ってもいい。
オルタンシアにもリーシャルド様にも許可を得た。グリシーヌ様の墓前には、オルタンシアのタイミングで報告に行こう。
まだ結婚はしていないけれど、もう少しだ。彼女がオルタンシア・ルーヴィスになったら…そうすれば、この時間はずっと俺のもので、在り続けるんだ。
それは、なんて幸せなことだろう。
歌声と鉛筆が紙の上を走る音を聞きながら、満足感を握り締めて眠りにつく。
いつの間にか、すうっと意識を失った。
だから、すっかり忘れてしまっていた。
すぐ傍でオルタンシアが絵を描く音がしたということは、そりゃあ寝ている俺を描いていたのだということを。
後日、色付けまで行われた絵を見せられた。
羊と共に描かれた眠る俺の姿、成長後バージョン。
オルタンシアは真面目な顔で「家宝だよ。絶対売らないから」などと言っているが。
………それ、誰も要らないと思う。




