スキマライフ!~娘の帰宅と君への報告と。【リーシャルド視点】
今日は本当にたくさんの話をした。それでも、尚、まだ足りない。
娘が描いた、最愛の妻の肖像画。それを見上げながら、私はゆっくり吐息をつく。
至らぬ父親だった。
元より、私は人間としてはあまり上等な部類ではない。
他人にはあまり共感できない…興味が薄いというか、本来ならグリシーヌとオルタンシア以外には、私が何かしてやる必要はないと考えている。
とはいえ手の届く範囲でならと気まぐれに手を貸してしまうことも多々あり、割り切るというには中途半端だ。我が事ながら、それも人間味であろうと思うことにしている。他人に絶対に手を貸さないと言い切るほど、強固な意志を持つ理由も、特にないから。
人生とは有象無象が勝手なルールを作る遊戯盤のこと。駒を弾き出す遊びをする者がいる一方で、駒に色を付け美しさを競う者、升目の形や大きさを歪ませるのに必死な者がいて、私を駒にしようと画策する者がいる。
提唱される正しさは不変ではなく、慈愛など自己満足の変形。そう思ってきた。誰がどれだけ言葉を尽くして飾ろうとも、飾っているのは各自の体面だ。そこに意味はない。
私には、グリシーヌだけが盤面の外にいるように見えた。
だから、グリシーヌだけが別格で特別だった。
他者に何を取り繕うつもりもなかったし、娘のオルタンシアは、そんな私の心を物凄く良く理解して見えた。私と似たような世界を見ているのだろうな、我が子だからなぁ…と思っていた。
社交に興味がないのも、友達を欲しがらないのも、或いは根底に他者への信頼がないことも、私から見ればごく当たり前のことだ。私自身、そういう子供だった。
むしろ親しくもない相手を初対面から誰でも信頼しきっていたなら、もっと身を守る努力が必要だと苦言を呈する案件だ。
反面、私とは違い、家族仲は良好だった。愛しているし、愛されている。随分といい子でいようとするとは感じていたが、私とて家族の前では穏やかな男でいたい。それと変わらないことだと思っていた。
前世の記憶やチート?と聞いて…娘の盤に刻まれた模様は、そういうものだったのだなと納得はする。私の盤に刻まれていたのは今はなき実家との確執であった。人生の難題が刻まれることは間々ある。
まぁ、滅多にない模様だろうね。それを見て眉をひそめる人間も世の中にはいるかもしれない。だが、そういう人間は何を見ても眉をひそめるのだから、気にする必要はない。
そして何も知らない私の目の前で、幼い娘が怪力を披露したり、神童が如き思考の様を発揮したのなら、驚いたとは思う。
だが最愛の妻が生んだ可愛い娘に、気味の悪さなど感じようがない。驚くだけで娘を傷付けるのだろうと知った以上は、驚いてなど見せない。
娘は、自分が人間としてはあまり上等ではないと考えているようだ。
前世の記憶とやらのせいで混乱したようだが…前世如何せず、うちの家系というだけなのではないのかな。
だが娘はグリシーヌにも似ているから、あの父や兄や親戚達のようなゴミとは似ても似つかない。実際には彼女自身が危惧しているほどのものではない。
どちらにせよ、人として上等かどうかなんて…正直、そんなに悩むことかい?
煩いものは黙らせれば良いし、絡んでくるものは潰せば良い。その小さな手を汚そうとせずとも、言ってくれれば私がしよう。
それを躊躇せぬ私からすれば、娘やアンディラートは、十分上等な人間に思える。
優しくしたいものにだけ優しくすればいいし、誰が文句を言おうと関係ない。処断を躊躇うなら懐柔しても良いけれど…そういう手合いが役に立ってくれるとは思えない。情けをかけてやったところで、何をさせても、文句を言う気がするね。
大体、万人が気に入る人間なんてものは幻想だ。一方に都合が良ければ別の一方に不利益が出る。
麗しきグリシーヌにすら、彼女の良さがわからないという愚物はいた。私の兄や父や一部令嬢諸々、どうでもいい奴らだ。
それを自分が悪いのではないかと悩むなんて…うちの娘はどれだけ優しい性格をしているのか。天使かな。幼い頃から賢く立ち回った彼女は、決して愚図でも愚鈍でもない。
それを教えてやれなかったのは、むしろ父親の私が至らなかったせいかもしれない。
「こんなにも色褪せぬ笑顔を残せたのに、あの子は、これを隠してきたのだものな…」
グリシーヌの部屋は今も手入れをしてそのままに残してある。部屋の主はいなくなったが、今は代わりに、この肖像が私に笑みかけてくれるようになった。
それだけでも、彼女を失った虚しさが、どれほどに癒されたことか。
今の妻には、新たな部屋を用意した。
この部屋を片付けるつもりはないことも告げてある。無論「もしも君が私よりも先に亡くなったのなら、その部屋も同じように残すだろう」とも伝えた。
事実そうするつもりだ。相手はそれを喜び、現状を了承した。
グリシーヌと同じ想いをもって過ごすことはどうしてもできない。
そんな熱量はもう、私の中に存在しない。
だが、同程度の扱いは用意する。
愛妻家と有名であった私の隣に並びながら、惨めだなんて感じさせはしない。妻に迎えた以上その努力は怠らない。オルタンシアも、彼女を母と呼ぶのだから。
あの日。娘がいなくなったあの日に。
アンディラートを帰してこの部屋に一人きりになり、誰にも取り繕う必要がなくなって初めて、私は孤独と焦燥を強く感じた。
私の人生にはグリシーヌさえいれば良かったけれど、それはオルタンシアを失っていいということじゃない。人並みの幸せと嫁ぎ先を用意して手放すまでを、当たり前と考えていただけだ。
オルタンシアは、私の前ではいい娘であろうとする。知っていながら、成人前の幼い子供に甘えてきたのだと突き付けられた。
隠し事をしていることは、私もグリシーヌも知っていた。話してくれるまで見守ろうと、そう夫婦で語り合った。
しかしグリシーヌは死んだ。彼女と一緒に、私の心の一部は確かに死んだ。共に心の全てが死ぬものだと思っていたが、それでも娘が、オルタンシアがいたから、私はまだ生き長らえたのだ。
幼い娘を残して私まで生を放棄すれば、彼女が喜ばぬことなどわかりきっている。
衝動的に己を裂きかけたことを、今なら愚かしいと言える。それでも、あんな絶望が吹き荒れたなら、暗闇が背を押すのは仕方ないが。
オルタンシアは思いもよらぬ行動に出て、私の命を引き止めた。両親を揃って失わぬようにもがいた娘の行動。それは母を失った辛さを紛らわせる手段でもあると、そう考えて…私は、誤ったのだ。
何も問わずに、娘の言葉に従った。
…それは信頼ではなかった。
グリシーヌを失い、表面上こそ活動していたものの、私の心は大抵のことを放棄していただけ。
私は娘と向き合うことを放棄したのだ。
グリシーヌがいない以上、娘が頼れるのは私だけだったのに。
夫婦で出した結論など、大事に抱えていて何になっただろう。
もちろん、問いかけてもオルタンシアが答えたかどうかはわからない。だが、親として問うことさえしなかったのは、怠慢ではなかったろうか。
アンディラートがいなければ、あの日あの子に頼れるものなど誰もいなかった。その事実は酷く私を打ちのめした。父親の私こそが、聞いていてやるべきだったのに、と。
オルタンシアを探すべきか、ということも。正直、迷った。
家を出るには出たなりの理由がある。オルタンシアの突飛な行動には、理由がある。それを邪魔してしまうのではないか?
しかしここでも、結局はアンディラートが直談判に来た。真っ直ぐすぎる彼は、放っておけば却って危うい。そう思った私は冒険者としての依頼という形を取り、彼は娘の後を追うことになる。
結果として、今、娘は無事に帰ってきた。
あの子が頼ることのできたアンディラート。彼が探しに行ってくれたからこそ、あの子は笑顔で帰ってきた。そう思う。
…グリシーヌに似てきた娘を手放しがたい気持ちもある。けれど、オルタンシアはグリシーヌではない。手元に置き続けても、何にもならないと知っている。
アンディラートを送り出した頃にはまだイマイチ整理のつかなかった心も、さすがにこれだけ時間が経てば始末をつけられた。
時折少し、ほんの少しイラッとしてしまうくらいは許してほしい。父親だからね。
籍を入れた翌日に、今の妻には大まかな話をしていた。
グリシーヌを失った日のこと、娘が男装を始めた理由。私がどんな状況であったか。そして娘は当分、家を留守にすること。
オルタンシアは世間で噂されるような過激な令嬢ではなく、ただ、私の心を守るために最大限時間稼ぎができる手段を取ったにすぎない。だから私が選んだ相手に剣を振るうことなどは決してない。今後、母親となる以上は知っておいてほしい。そう伝えた。
彼女は自分があまりに怯えたがために、私が娘を手放したのではないかと疑い、後ろめたく思っているようだった。
敢えて訂正はしなかった。問われもしないことを正す必要もない。
ただ、オルタンシアが戻った際に空白の期間が害にならぬよう「頼まれて、他国で知人の娘の側仕えをしている」と広めた。
オルタンシアの愛らしさも、その剣の腕も広まってしまっている。
娘の様子は、それを聞いた者達が勝手に推測した。
かつて彼女がそう振る舞ったように、貴公子のように姫を守る物語を。
または事情のほうを掘り下げ、オルタンシアでなくば守れない程の他国の危機を。
或いはそんなものは言い訳で、我が国の王子が誰かと婚姻するまで、私が遠ざけたのだと噂するものもいた。
そういえば王子は既に婚姻し、王太子となって国政の補佐をしている。
手引きした甲斐あって、押しの強い高位貴族の娘と無事くっつけられてホッとした。
今後末永くあのクソガキの世話をする趣味などはないので、私もひっそりと着実に後任を育てている。
今日は本当にたくさんの話をした。それでも、尚、まだ足りない。
至らない父親を「世界一」だと言ってくれる可愛い娘。手元に戻ってきたその存在に、いつの間にか止まっていた時間が、動き出したような気がする。
聞いても聞いても足りない娘の話の他に。
聞き出すばかりで話せなかった、彼女がいない間に起こったことや、必要な情報の共有もしなくてはならない。
深く息をつく私を見下ろして、グリシーヌの肖像が微笑んでいる。




