スキマライフ!~フランさんの犬。【アンディラート視点】
まだ彼女が、そんなにはシャドウを上手く扱えていなかった頃だ。
いつものように裏庭の奥深くで、彼女は不気味な影を操る訓練をしていた。
黒くて煙のような人型は、初めて見たときから変わらずに俺の警戒対象だ。
彼女の命令を聞く、それ以外には動かない、意思はない。
そう聞いてはいても。俺には未知のその靄が、いつか彼女を害するのではないかと警戒せずにはいられない。
…けれどそれを表に出せば、きっとオルタンシアは悲しい顔をするだろう。
シャドウは、オルタンシアが生まれ持った不思議な力で操っているのだ。
魔法では、恐らくない。聞いたこともない『サポート』という能力。
彼女は他人とは違う自分のことを、信じられないほどに卑下し、嫌悪の対象だと信じている。
それを知りながら、彼女の能力の一端に否定的な台詞を吐くことなど出来なかった。
元より、偶然にもシャドウを見つけることがなければ、怖がりの彼女は俺にだって何も話す気はなかったのだから。
「ランランラン♪」
聞こえてきた歌声に、口元が緩むのがわかった。
けれども、続く歌詞は聞き取れもしない。
何を意味するのかもわからない異国の言葉。
彼女が異質だという証。
誰にも内緒の彼女の秘密。
俺以外に言葉の意味を問われても、きっと彼女は思いつきの出まかせを歌ったと答えるのだろう。
「ランランラン♪」
楽しそうに、オルタンシアが歌っている。
それだけなのに、俺は何だか嬉しい。
早く姿を見たいのに、格好をつけてゆっくりと歩いた。
音を立てて近寄って、彼女の歌が中断されてしまわないように。
「ランラン♪」
けれど開けた視界に飛び込むのは、シャドウの手を取る彼女の姿。
いつもと変わらない、オルタンシアよりも少し背の高い、少年形のシャドウだ。
わかってる。
今のシャドウには、オルタンシアの輪郭を持つ少女形と、この誰とも知れぬ少年の二種類の形しかない。
そして自分自身と遊ぶのはすごく寂しい人みたいで何となく嫌だと、彼女は少年形のシャドウのほうを良く出す。
…俺がシャドウを気に入らないのは、これが男の姿をしているからなのかもしれない。
イメージできないと上手く形を作れない。
そんな能力で作られたこいつは、一体誰の姿を模したものなのか。
「オルタンシア」
いつものように少しだけむっとして、声をかけた。
パッと振り向いたオルタンシアは、そんなことも知らずに、俺を見つけて嬉しそうに笑う。
「やぁ、アンディラート。いらっしゃい」
シャドウの手を離して、彼女はこちらへ駆け寄ってきた。
それだけで、先程までの憂鬱が嘘のように霧散した。
我ながら、あまりに現金だ。
「今日は何をしてるんだ?」
「シャドウとダンス。随分上手く動かせるようになった気がするよ」
見て見て、と。楽しそうに、せがむように言うものだから、断るなんて難しい。
スカートの裾を翻して彼女はシャドウの側へと戻り、向かい合って立って見せる。
それだけで、石でも飲み込んだように胸の内が重くなる。
俺の心の急激な変化なんて知りもしないで、オルタンシアが歌いだす。
「ランランラン、ランランラン♪」
くるりくるり。手を繋いで、可愛らしい声で。
奇妙なステップで、はしゃぐように。
楽しそうな顔を…シャドウに向けて。
「オルタンシア」
たまらなくなって声をかけてしまった。
振り向いたオルタンシアと違って、シャドウはこちらのことなど気にせずに一人で踊る。
踊るように命令されているからだ。
止まってこちらを見て、首を傾げる彼女の後ろで、言われるままに踊るだけの影。
前よりずっと人間らしく滑らかに動いている。
オルタンシアが教え続けたせいだろう。
手を取って、長い時間、二人きりで。
「…俺にも教えて」
気付けばそんな言葉が出ていた。
わかってる。自分の能力を把握して、育てていかないと困るのは彼女なんだってこと。
そのために協力を惜しまないと、伝えたこと。
それでも。
「いいよ!」
オルタンシアは笑って言って、何の未練もなくシャドウを消した。
幾度となく、簡単に、シャドウよりも俺を選ぶ。
自分に嫌気が差しながらも、ただ、選ばれることが嬉しい。
「始めはこう。ランランラン、こんな感じ」
邪魔なら、そう言って怒ってもいい。それは彼女の本心だからだ。
彼女の本音を欲しながらも、出来れば、笑っていてほしいと願う。
演技でも、いい。
…演技では、嫌だ。
我儘な俺の向かいに立って、俺の手を取ってオルタンシアは笑う。
「ここでこう、くるっとターンして」
ふわふわと金色の髪が目の前で揺れる。
貴族の嗜みとして習うダンスとは全然違う。
片足で二回ずつも跳ねるなんて、慣れなくて少し踊りにくい。
でも彼女とお揃いの、不可思議なダンス。
「はい、ここで手を叩いて、パトラッシュ!」
「…パト・ラッシュって何だ?」
「犬の名前」
なぜ最後に犬の名前を叫ぶのか。
オルタンシアは、しばしばわけのわからないことをする。
姓のある犬って変じゃないのかな?
「犬、飼ってたのか?」
だけど彼女が楽しそうなら、本当はもう、それでいい。
話題を繋ぎながら、もう一度始めからダンスのおさらい。
「ううん、お話に出てくるの。このダンスはオープニングをリスペクトしてて…」
…言っている意味がわからない。
内心では悩みながらも、うんうんと頷く。
フラン・ダース。パト・ラッシュ。ネルロクンと、アロアタン。
そんな名前が続いていく。
俺が理解できていないということが、わかっているのだろう。
オルタンシアも、ちょっとすまなそうな顔をしていた。
「じゃあ、ダンスを覚えたら、あとでもっと詳しく教えて?」
俺はそう口にした。
話せる話は聞く。言えないことは聞かない。
どんなにわけのわからない言葉でも受け入れる。
混乱するけど、それが何だって言うんだ。
これは俺が望んだ、彼女の信頼だ。
だって彼女は、俺以外には決して、こんな話はしないのだから。
「…ふふっ、いいよ!」
申し訳なさそうだったオルタンシアが、口の両端を上げる。
彼女が笑うだけで、世界が明るくなるようだ。
気付けば俺も口の両端が上がっている。
くるくる回って、向かい合って、お辞儀をして。
手を繋いで、目を合わせて、跳ねて。
「ランランラン、ランランラン♪」
歌え、小さな蝶々。
聞き取れない言葉は、そんな意味だと彼女が呟く。
聞いたこともない言葉。
誰も知らない物語。
内緒の多いオルタンシア。
本当は怖がりで臆病な、彼女の真実。
いつか全てを教えてもらえるのが、どうか俺でありますように。




