スキマライフ!~隣から見えること。【アンディラート視点】~
まさか夜中に動いていたとは思わなかった。
屋敷から出ずとも、相手にサポートを付けておけば状況を見ることはできる。
それはそうかもしれないが、長時間そんなことが出来るとも思っていなかった。可能性に思い至らずにきちんと話をしておかなかったのは、俺が悪い。
右手を握られたまま、1時間が経過した。
こんこんと眠るオルタンシアを見下ろしながら、横から俺もベッドに突っ伏してしまいたい衝動が込み上げる。
なぜ俺に言わないのか、とは…問い詰める気にもなれなかった。
何もかも逐一、しかも女の子の行動を報告させるだなんて、そんなのはどう考えてもおかしな話だからだ。
俺がそうするように、彼女だって自分で考えて、選んで行動する。必要だと思えば相談もするのだろう。
監視と変わらないような、気詰まりな関係になるなんて御免だ。
それに、…俺だって言えなかった。
街には既に、「忘れられた姫君は戻った。富を独占する王位簒奪者を廃し、無辜の民を救う」という噂が溢れ出しているそうだ。
貧困層からは特に強い支持があるらしい。
それが国民にとっての本意なのか、先導者が混じっているのかまではわからない。
使用人から集めた世間話を総合すれば、セレンツィオは既に現王派とぶつかる寸前だ。
オルタンシアの知らないところで、知らない国の大勢の人間達が、重めの期待をかけてきているんだ。
それを知ったら…彼女はこの国に留まろうとは考えないだろうか。そんな人々のために尽くそうとはしないだろうか。
「真に困窮した誰かに、もしも面と向かって頼られてしまえば…簡単に否とは言えないのは、本当はオルタンシアの方だ…」
俺は…俺の手では救えないからと、切り捨てられる。この国の問題を解決してほしいなんて、誰も俺には求めない。
他国の、ましてこちらへ助けを求めてもいない人間と、大切なオルタンシアを秤にはかけられない。
彼女はしばしば俺が優しいなんて言うけれど、出来ないことは出来ないと見切る分別はあるつもりだ。
もちろん、俺の一存で可能な範囲ならば手を延べたいと思うかもしれない。
だが見誤れば、冒険者としては自分のみならずパーティの命を、貴族としては自分の一族や派閥を危険に曝す。元々、そう教育を受けている。
理想だけでは生きられないことを、俺はきちんと理解していた。だから、何もかもを守ろうとなんて思わない。
もう体験済なんだ…油断すると一番大切なものが手をすり抜けていってしまうんだぞ。凄いスピードで、予想もしない方向にだ。即座に動けるよう、惜しくないものは捨て、身軽でいなければ。
大切なものを間違えなければ、やることも間違えないはずだ。
…一方で、オルタンシアは少し危うい。
簡単に誰かと距離を縮めようとしないのは、簡単に情が湧くからだ。
記憶力が悪いわけでもないのに相手の顔や名前を覚えようとしないのは、殊更に他人であろうとするせいだ。
自分に害のない、歴史書なんかは暗唱できるほどに覚えているのだ。見ただけの風景を、切り取ったように絵に描けるだけでも、それは証明されていた。
現王派は突然に去ったオルタンシアをどう思っているのだろう。
城の開かない扉を廃した今、この国が彼女を求める理由は、それこそ正当な血統以外になくなった。
王とて当初はそれを視野に入れていたはず。相手から裏切りに見られていれば、遠慮も恐らくないだろう。命を取らない代わりにとその血を欲することも考えられなくはない。
かといって彼女のことが好きなわけでもないだろう。
…早くオルタンシアを連れて、この国を出たいなぁ。でも、それだって、キサラギを何とかしないといけない。
居住地までは使用人達からの情報ではわからない。この屋敷にテヴェルと共に訪ねてきたことは、あるそうだけれど。
オルタンシアはテヴェルが嫌いだし、王相手にも激しい拒絶を見せていたから、現状で俺が引く義理も理由も何もない。
彼女が本当はどうしたいのだろうなんて、微塵も考えず動けるのは助かる。
背後から刺されないように軽く仲良くしてみる、などと彼女は言っていたのにな…こうなってしまっては、どちらのトップに捕まっても身が危うい。いがみ合った結果、相手方に正当性を渡すくらいならと、彼女の命を狙うことも考えられる。
俺は、どんな状況で彼女を庇うのだろう。
忘れていたわけでも、信じていないわけでもない。鍛練は欠かさないし、油断もしない。
彼女の予知夢は日時を明示しない。時期を理解するのは…事の寸前だ。
知らず顔が歪むのを、堪えられなかった。
ちゃんと、守れるだろうか。
俺が傷付くとオルタンシアは泣く。だというのに庇って死ねば、どんなに嘆くか。こんな故郷から遠く離れた見知らぬ土地で、誰がそれを慰めるというのか。
守れるのなら、然程、命は惜しくない。
でも、泣かさずに連れて帰りたいんだ。
「…サトリはこちらには干渉しない。俺が何とかしないと…」
サトリ。
彼は未だにテヴェルを追っていた。
前に一度連絡したから、もう頼まれ事は終わったのかもしれないと思いながらも、声をかけることにしたのはつい先日だ。
テヴェルは、キサラギと共にこの国に潜んでいるはずだから。
王城では時折、天井裏や隣室との隙間にあるのだろう隠し部屋に見張りがいた。
場所柄仕方のないことだし、人の気配がなくとも出入りには気を遣うだろう。城ではさすがにサトリを呼び出すようなことはできなかった。
だが、セレンツィオの屋敷…本宅ではないせいなのか、使用人が拍子抜けするほど緩い。だから、呼べた。
既に状況は伝えてある。
サトリの元には仲間から「テヴェル達はトトポロポに抜けた」との情報が寄せられていたらしい。見当違いの場所を右往左往しているのだという。
担当する通常業務を肩代わりしてくれる者もなく、上司はギリギリになるまで指示を寄越さず、同僚も役には立たないようなことを珍しくぽつりと溢していった。
付き合いは深くないはずだが、初期に八つ当たりの敵意を向けたことが申し訳なくなるくらい、サトリはこちらに好意的だと感じる。
オルタンシアを案じてくれている。
それだけで、俺にとっては味方だ。
「…さとりさんが…?」
不意にオルタンシアが呟いた。
目が覚めたのかと思ったが、オルタンシアは瞼を閉ざしたままだ。寝言かな?
少し待ってみても、それ以上何も言わない。
俺の独り言に反応しただけみたいだ。
「…うん。もう彼については俺の方が、お前より詳しいかもしれないよ」
返るのは規則正しい寝息。
今度は返事をしてくれないらしい。眠っているのだから当たり前か。
同じ体勢でいるの、少し疲れてきたな。
手を握られているとは言っても、力はそれほど入っていない。軽く包まれている程度だ。
…離したいわけじゃないから、起きないように上手く反対の手と交換しよう。それからちょっと椅子の向きを変えればいい…そう思って、手を持ち上げる。
指をほどこうとすると、抵抗するようにギュッと握られた。しかも俺もつい反射のように握り返してしまった。
まずい、起こしたか?
思わず息が止まった。
柔らかい、小さい手。お互いに離す意思の見えない、同じくらいの力。
じわじわと顔が熱くなってくるのがわかる。
無意識に握り返してしまうなんて…意識しないように気を付けていたのが、却って仇になったのか。恥ずかしい。
どうか何一つ突っ込まないでほしい。でも本当に全く離したかったわけじゃないし、それはわかってほしい。
頭の中がグルグルする。
椅子から立ち上がりそうな、前のめりの半端な体勢で、静かに動揺する俺。全く動かないオルタンシア。
………これは…眠ってるな。
彼女の方も反射だったみたいだ。
できるだけ静かに、息を吐いた。
あぁ、誰も見てないってわかっているけれど、すごく恥ずかしい。どうして俺はこうなのか。そっと椅子に座り直す。
また力の抜けかけてきた指が、けれども不意にきゅっと握り直してきた。やっぱり、反射的に握り返してしまう。
またやってしまったと焦った瞬間。
眠ったままのオルタンシアは、ちょっとだけ微笑んだ。ふにゃりと。
可愛い。
照れてしまうからやめてほしいな…いや、やめてほしいわけでは…全然、迷惑なんかじゃないし、むしろ嬉しい。何考えてんだ、そうじゃなくて。
恐らく手が離れそうなことで、夢の中の彼女を、不安にさせたのだろう。
それならもうちょっと、このままでも。うん。多分一晩でも、別に辛くはないかな。
「…離そうとしたんじゃないよ、左手に繋ぎ代えようと思っただけなんだ」
聞こえているのかはわからないが、安心させようとそう言えば、もそもそとオルタンシアの両手が俺の右手を包む。
勝手に動きかけた手をハッとして押さえた。
そう、オルタンシアの手の上に乗ろうとして出てきた自分の左手だ。
何をする気だ、お前。そんなことしようなんて考えてなかったぞ。勝手なことするな。
幾ら幼馴染とはいえ、眠る婦女子にベタベタと触るなど。礼儀知らずにも程がある。
宙で何とか留めることが出来たのは僥倖…
「…っ!」
待ってオルタンシア。どうして俺の右手をそんな一生懸命撫でてるんだ。
淑女の行動としてはどうかと思うが、こちらが触られる分にはセーフか? いや、これは寝惚けているのだし、止めてやらないと駄目なのでは? でも、オルタンシアの羞恥心はわりといつも留守にしている。起きていても、そうしたければ、好きにやる気はする。
どうしよう、すごい汗出てきた。なんで撫でてるの。理解できない。
くすぐったいし恥ずかしいし、起こしたいわけじゃないけど、やっぱり止めないと…俺が先に死ぬ。
「あんでぃらーと、発見」
「はいっ」
背筋を伸ばして返事をしてしまった。勢い余ってまた手を握ってしまったし、格好悪いし、もう自分が嫌だ。
オルタンシアは小さく口許で笑って、「ふぃ」と謎の声を出した。
そう、これは…きっとここにあることを確認していただけなんだろう。焦ることはない、落ち着け、相手は寝ている。
…もしもそんなに離すのが嫌なんだったら、持ってても良い。
浮いたままだった左手がオルタンシアの手の上に着地した。何ならこれも渡すから好きにすればいいし、全然迷惑なんかじゃない。
いや、駄目だろう、俺。
オルタンシアは今眠っていて、何かが起きてもすぐには対応できないのだから、俺は不測の事態に対応できるようにしておかないと。
うぅ…でも咄嗟に手が遣えなくても何とか…いや、やっぱり駄目だ、ちゃんと守りたい。
せめて左手は空けておこう。
断腸の思いで左手を引き剥がそうとしたところに、しかし状況を理解したらしいオルタンシアの手が移動してきた。
目を開けないままに、手探りで。
そんな。遠慮なく撫でられて、嬉しそうに握られて、…何かもう俺は多分、人には見せられない顔色だと思う。
突っ伏したい。助けて。
本当に寝てるんだよな?
疑いの目で彼女を観察してしまうが、俺の左手を両手で包み込んだまま、オルタンシアは何だか満足そうにしている。
移住は完了したようだ。
空いた右手が何だか涼しい。
いっつも俺だけ、勝手に翻弄されて。本当に格好悪いったらない。
でも…昔から、そうか。スマートに格好良くできたためしなんかない。
はぁ、と深い溜め息が出た。
こんな風にしっかりと寝顔を見るのは、久し振りな気がする。
昔はよく一緒に、エーゼレット家の裏庭で昼寝をしたな。
使用人も寄り付かない不思議な庭だった。誰に取り繕う必要もない、うちでは考えられない、楽な時間だった。
目が覚めればオルタンシアがいて笑ってくれる、木漏れ日と常緑の温かな記憶。今も、あの頃を思い出すだけで、自然と口角が上がってしまうくらいだ。
…彼女がこれで良いというなら、大したことじゃないか。寝ていようが起きていようが、俺が手を渡すことに変わりはないものな。
ただ一緒にいられるのが、幸せだ。
だから、必ず、守ってみせる。
必ずリーシャルド様の側に、帰してみせる。
彼女は…幸せに、なりたいのだから。
サトリの言葉を思い返す。
照れてる場合じゃない、少しでも、備えられることを考えておかねばならない。
テヴェルは、本来はサトリの担当ではない。
だが後任に引き継げど引き継げどキサラギに返り討ちにされ、手が足りなくなっては担当外のサトリが駆り出されている…らしい。
結局手伝わされるのに、なぜサトリが担当にならないのか。
俺は踏み込み過ぎていた。気付いてすぐに、慌てて謝罪をしたけれども。
彼は小さく首を横に振った。
そうして、オルタンシアとも違う、別の世界の話をした。
「私の世界には肉体というものが元々ないので、所謂老衰というものがありません。また、私自身があまり起伏のないタイプでして…何となく過ごしていると、いつの間にか同世代の者は大体居なくなったのですよね。存在が古い故に私の能力は比較的原初に近いのですが、入れ替わる住人は次第に力を薄めていきました。所謂、緩やかな退化です」
サトリは大きく感情を揺らすことの少ない性格なのだと言う。
好奇心はあるが、それで身を滅ぼすほどにはのめり込まない。今の人々には聞こえないはずの「本心」も当たり前に聞こえるから、諸々をそれなりに躱すことができ、絶対的な反感も買わない。
サトリの世界の住人から見ると、彼は「伝える予定のない心まで読む不気味な奴だが、同時に伝えずとも困っていることを解決してくれる便利な奴」であり、「異様に能力の強い便利な奴だが、排除しにくい厄介な奴」なのだそうだ。
切り札のような扱いで引き留める一方で疎み、邪険に仕事を押し付けていく。忙しいだけだからとそれほど気にせずに生きてきたが、どこを見ても悪意が大半を占めるようになると、少々鬱陶しく感じてきたという。
随分気の長い話だとは思うが、サトリにとってはそうだったのだから仕方がない。
そんな時、サトリはオルタンシアに出会った。
「詳細はわかりませんが、疲弊した可哀想な魂でしたよ。明るいようでいて、悪意は内に向き、他者よりも自分を責める…そのせいで負の感情値が高くなり、私の世界になど落ちてきたのでしょう。私がオルタンシアさんの心の声が聞こえると気付いても、こんなことを聞かせてすまないと、私の方を気遣うような方でした」
それは何だか、想像できる気がした。
泣くほどどうしようもなくなるまでは、笑って見せる子だと知っている。
だから…初対面のサトリが哀れむほどの状態を、ひどく辛く思った。
「彼女が幸せになりたいと願ったのを覚えています。手助けはできませんが、そうなるのがいいと私も思いました。…それから、彼女の思う幸せとはどんなものなのかと、珍しく興味を持ちました。とはいえ私自身は、幸福が側にあったとしても、あまりそれとは感じられないのでしょう」
起伏が少ない性格だからか。
でも、それだからサトリは消えずに同世代のモノより長く存在し、オルタンシアを担当してくれた。
サトリと出会わなければ、オルタンシアは希望など抱かずにこの世に生まれた。赤子の時分に足掻くこともなく、俺とも出会う前に死んだかもしれない。
そうすると俺も、今もまだ実家の状況に落ち込んだまま…どんな風に生きたのだろう。
サトリがいて良かったと、俺も彼女も思っている。不思議な縁だ。
「…出来るだけ、こちらを気にはかけます。しかし私が姿を表せばキサラギと名乗るものが逃げ出してしまうかもしれません。備えてはおきますが、期待はしないでください。私は確実なタイミングで介入したく思います」
サトリはそんなことを言った。
以前に言われた通り、戦闘中に手を欲して呼んでも駄目だということだ。
彼がキサラギをどうにかするつもりだというのはわかった。
正直なところ俺は…あの女性には、あまり対処ができない気がしている。それは、サトリに感じているものと同じだ。斬りかかっても害せないような…もちろん負けるつもりはないのだけれど、斬り捨てても相手が死ぬ気がしないというか…何だか、同じ世界に生きていないというか…。
戦って勝つとか、そういう次元にはない気がして…うまく、言葉にはできないのだけれど…。
とにかくサトリに任せられるのならば、それが一番良いような気がする。
だが、彼が追っていたのはテヴェルのはずだ。警告、説得、或いは懲罰…何のために追っているのか。
テヴェルにはどの段階で会うつもりなのか。
口に出して問いをかけても、その答えは得られなかった。




