スキマライフ!~あの日、グリシーヌの誤算。
娘の様子がおかしい。
今に始まったことではないけれど、どうやら隠し事があるよう。
「お母様、体調は如何ですか? お疲れではありません?」
「大丈夫よ、オルタンシア」
このところ毎朝、出掛ける前の恒例となった会話。
子供が幼い頃はそれでも制限していた仕事を本格的に復帰した。
私は前よりもずっと忙しい日々を過ごしている。
そんな私の身体を案じていると、取れなくもなかった。
事実、夫であるリーシャルドは微笑ましそうに娘を見ているけれど…恐らくこの子が案じているのはそれではない。
何か魔法の才能が開花したのかしら。
いいえ、それは今ではないのかもしれない。
幼い頃からずっと、私たちの手を煩わせない子だった。
乳母も置かぬなら、子育てとはもっと手がかかるものだと、周囲にはいつも言われた。
そして…それがこの子の無意識なのではなく、意図して試みている結果だというのは、わかっていた。
周囲を煩わせないように、なるべく日常が静かで穏やかであるようにと、ただ微笑む。
私にも覚えがあることだから。
オルタンシアには私達両親に向ける確かな愛情がある。決して、信頼関係の構築に失敗したわけではない。
それでも何か、例えば側に人間が寄ることを、不安そうにする。そのように思えることがあった。
本人があまり表情には出さなくても、日々の様子を見ていればわかることもある。
「お父様、お母様、行ってらっしゃいませ。あのっ、どうか、お気を付けて!」
何かを言いたそうな目で、けれど今日もそれを口にすることなく、娘は私達を見送る。
あの子の不安が何か、わかれば良いのだけれど。私にはその手段があるはずなのに、そううまくは作動してくれない。
誰も知らない私の魔法は、とても不安定だ。意識的に使えることもあるし、そうでないことも多々ある。
それは年代物の家屋の中であるほど成功率が高い。同じ建物内に居る人間の声を無作為に拾い、その心の動きを私に伝えるだけの、無力な魔法だった。
物の本に依れば、家に棲まう妖精が聞いたことを伝えてくるのだというけれど、本当かどうかなど確かめる術はない。
建物は喋らないし、私は妖精を見たことなどない。妖精のように可愛らしい娘はいるけれども。
ただ、あの子が聞いたこともない歌を歌い、教えたこともない口調で大人びた独り言を呟く、それを知ってはいた。
…誰にも知らせたりはしない。あの子が自分から何も言わないのだから。
下手に触れて、追い詰めることになってはいけない。
あの子が明るく無邪気に振る舞うのは、忙しい私達のためだ。
屋敷に居るときに私達が穏やかに過ごせるようにと、我儘も言わずにいるのだろう。
寂しいだろうに、そんなことは何にも言わずに、家を出る私達を毎朝応援してくれる。
私達はいつも、この子に無理をさせている。
可愛い、私の、オルタンシア。
愛しい夫との間に出来たこの子を…私と私の血筋が、いつか不幸にするかもしれない。
それだけが私の人生の懸案。
私にはリーシャルドがいた。彼が、降り注ぐ理不尽から守ってくれた。これからもずっと、そうであり続けると思う。
それを当たり前だなんて傲慢には決して思わないけれど、2人で、共に居ることを望んだのだもの。
彼に申し訳ないだなんて思わない。私を他人に守られた方が、きっとリィは不機嫌になってしまうわね。
けれど、オルタンシアは。
親にも本心を打ち明けられない健気な娘に、もしも私と同じものが降りかかるなら。
もちろんリーシャルドは守るでしょう。彼は庇護下においた者が傷付くことを、実はとても嫌がるから。
けれど、オルタンシアが私達を心配するあまりに口をつぐんでしまえば、私達は、異変に気がつけないかもしれない。
あの子が独りで立ち向かってしまわないか…それだけが心配だ。
リーシャルドは一見何でも出来るように見えるし、本人もそのように振る舞う。
けれど、彼は、他人に頼ることが不得意だ。
そんな意地っ張りなところも可愛らしくて、私は好きだけれど。
人の手には長さも大きさも限界がある。
欲張って抱え込みすぎれば、何もかもを取り落としかねない。
だから、君しか抱え込まないよと彼は笑った。
その分、向けられる想いは深くて。
私のためならば、きっと彼は何でも捨ててしまうのだろう。
そして娘は、そんな夫によく似ていた。
「何を考えているのかな、グリシーヌ」
柔らかな眼差しをこちらに向けて、リーシャルドが問う。
彼とそっと目を合わせる…それだけで幸せで、何だか世界に祝福されているような気さえする。
「素敵な夫と、可愛い娘のことよ」
知らず微笑んでしまいながらそう返せば、リーシャルドがひどく甘く笑んだ。ここが城へ向かう馬車の中だということさえ忘れてしまいそう。
向かいの席から手を伸ばしたリーシャルドは、私の手を取った。誘われるままに立ち上がり、彼の隣へ座り直す。
その肩に凭れかかりながら、小さく溜息をついた。
「疲れた? すまないね。君には何の苦労もさせたくはないのだけど」
「あら、違うの。馬車は好きよ、貴方と旅したことを思い出すから。ただ、今回、オルタンシアには私の不在を伝えない方が良いのではないかと思って」
リーシャルドは目を細めた。
彼の代わりに領地へ向かうことが決まったのは、もう何日も前のことだ。
珍しいことではない。年に一度くらいは彼の代わりに領地の様子を見にいくし、何度も経験したこと。
そして、それを娘に告げないのも、初めてのことではなかった。
「あんなに心配しているのに?」
「あんなに心配しているからよ」
2ヶ月もかからないで戻って来られる。もちろん急げば、もっと早くに。
早朝に家を出て、夜遅くに家に帰る。そう説明すれば、娘は仕事が忙しいのだと納得する。
今までも、家を離れねばならないときにはそうしてきた。
周囲から、「親が長く家を空ければ、幼い子供はぐずるものだ。家に帰らないことは、愛情の不足と捉えられる」と聞かされていたからだ。
それでも機嫌は幾日しかもたないだろうと言われていたのに、私のオルタンシアは一度もぐずったことなどない。
それどころか幼い身でも何か出来ることはないかと尋ね、私達の身体を心配するのだ。
絶対にうちの子は天使か妖精だわ。さすが、リィと私の娘。
そうでないと言うなら驚きよね…むしろ天使か妖精の方が、意外と大したことがないという意味だと思うわ。
「貴方、あの子の失望する顔なんて見たことがあるかしら?」
「一度たりともないね」
「それを向けられることを想像してみて?」
「…この世の終わりかな?」
でしょう?
領地なんて行かないわって言ってしまうでしょう?
もちろんあの子は、寂しいなんて言わないだろう。私達のために、いつものように、堪えてしまうだろう。
それをわかっていて、わざわざ悲しませる必要なんてない。
お母様は忙しいけれど、眠ったあとには帰ってきて、きっと寝顔にキスしているわ…そんな風に、思っていてほしい。
これも私の我儘でしかないけれど…私の我儘は、私のリィによって、この2人きりの小さな世界の中でだけは全て許される。
リーシャルドと私の世界は、出来るだけ優しくて穏やかなもので満たしたい。それだけ。
大層な望みかもしれないけど、大それたものではないはずよ。
「君が望むなら、私はいつでも冒険者に戻るよ。その方が、2人でいられる時間もずっと長いしね」
国なんて、領地なんて、貴族籍なんて、この人には何の価値もない。
それを知っていながら…私は敢えてそれを手放さないように彼にお願いをする。
だってその中には、味方が含まれるのだもの。簡単に切り捨てられるのに、頼られればつい手を貸してしまうリーシャルド。
彼は気が付かないけれど、その小さな積み重ねが、彼を心から慕う者達を生んだ。
その人達はいつか、リィの助けになってくれるかもしれない。
非力で面倒な私を守るため、他のものに目を向けない彼を。自身さえ顧みない私のリーシャルドを、守ってくれるかもしれない。
だから領地も貴族籍も捨てないようにお願いするのだ。それを了承させられるのは、私しか居ないのだから。
「領地から戻ったら、オルタンシアとの時間を取りたいわ」
リーシャルドはそれを聞いて微笑む。私が何かをしたいと望む、それを喜んでくれる。
口に出してみれば名案のように思えた。領地の様子さえ確認すれば、今期はもうそれほど大きな仕事はないはず。
オルタンシアは私達を愛している。
だから、私の可愛い娘も、きっと今のリーシャルドと同じような表情で微笑んでくれるだろう。
もしも領地の滞在が長引いて娘ががっかりしてしまわないように、帰宅してから、オルタンシアに告げよう。
何がしたいか聞いて、久し振りに、一緒にのんびりと過ごそう。
領地から、戻ったら。




