俯いたらオシマイだから。
その日、朝から青ざめた顔をした私を、部屋付きの侍女が不審そうな目で見ていた。
なぜだろう。
一体、なぜ。
ぐるぐると回るその言葉を、決して外に出すわけにはいかない。
監視と紙一重の侍女が、動きの悪い私を見兼ねて身支度に手を貸そうとする。
不要だった。
令嬢生活の中でも赤子の時分しか、着替えを他人に任せるようなことはしていない。自立心の高い子アピールで生きてきたからな。
「どこか調子が悪いのではありませんか?」
いつもより、やけに動きが緩慢な私だ。
もちろん調子は、よろしくはない。身体的ではなく精神的な話だ。
だが、そんなことを他人に言ってどうなるというのか。ましてや、他国の侍女に。
それこそお腹や頭が痛いとか、怪我しましたとか、対処出来るような不調ならまだしも…メンタルヘルスまでお気にかけていただくような関係ではないはずだ。
私の対応がヘタクソなんだ。だから怪訝な顔をされている。わかってる。
でも、今だけ。もうちょっとだけ。
私が寝室を出るまでは、許して欲しかった。
「少し出ていて」
「ですが」
「夢見が悪い日もあるわ。この様は見られていて楽しいものじゃない。そうでしょう?」
侍女は少し沈黙し、それから一礼して出ていった。
しつこくしない辺り、仕事でしか私に興味がないのだとわかって安心する。
カーテン越しの日差しの明るさとは裏腹に、少し肌寒い。
それが、余計に憂鬱になる。
「…アンディラート…」
ここは私に与えられた部屋で、寝室だ。
だから天使な幼馴染は隣の、彼に与えられた部屋にいるだろう。
通常は朝から鍛練に勤しむのが日課の彼だが、こんな場所で私を置いて離れることを良しとはしないから、きっと外で剣を振ることはしていない。室内で筋トレをしているかもしれないね。
今すぐ大声で名前を呼びながら、隣室のドアをバーンと開けてやりたい。
きっと私の顔を見た途端に異変を察知し、急いで側に来てくれるだろう。
めっちゃ癒そうとしてくれるはずだ。
だから今、甘えに行ってはいけない。
何とかこの部屋を出るまでに気持ちを立て直さなくてはならない。どうしても勘付かれたくはないから。
けれども…だけれども。
何だか力が抜けてしまって。
自分が死ぬ夢なら数えきれない程。そして父も母も、死ぬ夢を見た。
だというのに、私はまだ甘かったんだ。それでも起こりえないと、思い込んでいた。
膝を抱えて、顔を伏せる。
泣き喚いて解決出来るなら、いつだって躊躇わずにそうするのに。
「…君が私を庇って死ぬ夢だけは、見たくなかったよ…」
どうして、君だけは大丈夫だなんて思っていたんだろう。
お母様が死ぬ夢だって辛すぎて泣いた。
何度も何度も、夢の端にすら映らない原因を探し出そうとして…頭がおかしくなるくらいに、愛する両親が死ぬ夢を見続けたのだ。
同時に、お母様の死に連動して起こるのがお父様の死だ。こちらは理由が明確、加害者も明白。
現実と彼の心を繋ぐ細い糸をプツンと切る、最終的な切欠がわかっていた。
でもお父様の死は、全ての前提が防げなかったときに起こる、結末。
お母様の死さえ防げれば、何一つも起こりえないのに。それを防ぐ手段は、いつまで経っても見つからなかった。
せめて最後の砦としてこれだけは防ごうと、お父様の正気を保つための方法を必死に模索した。
寝ても覚めてもその日のことばかりを考えた。もはや自分が眠っているのだか起きているのだかもわからない日々。しかし、考えないわけにはいかない。
あんなに辛い中、私が病まずに済んだのは、しばしばうちに癒しの天使が降臨していたからだ。
対処したかったから、心が死んでしまうんじゃないかと思いながらも、あの苦行を繰り返した。何か出来ることがあると信じて。
そして。
…結局、私はお母様を守れなかった。
両親を揃って失うという事態こそ免れたが、私が予知夢を見ておきながら、回避に成功しなかったことに変わりはない。
私の失態だ。きっと、本当はどこかに何か、手段があったはずだ。
私がクズだから失敗したのだ。そうでなければ、あんなに優しくお美しいお母様が失われるなど、この世の摂理に合わないではないか。
そんな私が見る、幼馴染を失う夢だ。
…もう涙も出ないよ。
死ぬなら、私だけにしてくれればいい。
やっぱりこの世には神様なんていないか、いるとするならば、物凄く私を嫌いなんだ。
ぽふりとベッドに倒れんだ。
このまま黙っていても仕方ないことはわかっている。本日のご予定的にも、幼馴染の人生においても。
だけど、なかなか動けない。
気力が根こそぎ持っていかれた気分。
お父様もお母様も、その死を見せつけられる私はたまったものじゃないけれど、少なくとも私のために犠牲になるわけではなかった。
私の危機は私だけのものだと思っていた。
だが…確かに、アンディラートはそうするのだろう。彼こそは騎士気質で紳士な資質を持つ天使。早口言葉のようだが、ただの事実だ。
危機だと思えば、私のために、きっとその身を投げ出してしまう。
それだけは、絶対にいけない。
ただ死ぬだけでも耐えがたいのに。目の前で、私を庇ってなんて。絶対に駄目だ。
お父様はもちろん私にとって大切な宝物だけど…私が居なくても生きていける人だ。何を失おうとも、もはやお父様は微笑んでいられる気がする。
…私がしくじったせいだ。
彼は癒しを永遠に失った。
お母様が亡くなった時点で、恐らくこの世の全ては無価値になったのだろう。
なぜそんなことがわかるかといえば、私もまた同様に思うから。
私にとってもアンディラートという癒しがなければ、もはやこの世は荒みきった何かだ。
唯一の、私の全てを許してくれる親友を犠牲にしては、さすがの私も精神が壊れる未来しか見えない。
予知夢が発動するに正しき、決定的に悪い出来事だろう。
身代わりのように天使を殺した後を、のうのうと楽しんで生きるなど私自身が許さない。
だが、自殺は彼が命を賭したことを無にする。それもまた、許されないのだ。
待っているのは己を責め続けながら、息をするだけの日々だ。それが償いだと、信じて。
でもさ。
それすらも、些末に感じるほどに。
「辛いなぁ…」
言えるわけがないよ。
隠し事をしないと約束して、だけど、どうして死の宣告など行えるだろう。
お父様にもお母様にも、結局は言えなかった私だ。
信じてくれるかどうか? それも迷った。だけど、結局はそれ以前の問題なんだ。
他人なら、初めて会った相手ならもっと良かった。情などない相手にならきっと言えた。必要なことだと、割り切れたはずだ。
余命宣告に臨む医者を尊敬した。
とんでもない気力と自制がなければ、冷静に言葉を発することさえ出来ない。
もっとずっと辛かろう本人を前に、己の心の辛さを優先してボロ泣きで嗚咽するだけの生き物になってしまう。
面と向かって「あなたはもう少しで死ぬ予定があります。だから一緒に対処を考えましょう」だなんて。
どうやって、伝えれば良かったのよ。
手紙も考えたよ。でも、書けなかった。
口にするよりも酷いと思った。
それが文字としてこの世に現れた瞬間、まるで予言者のように傲慢な顔をして、現実へと呪いをかける気がした。
けれど。
あの時、私に言えていたら、お母様の運命は変えられたのだろうか?
唐突にノックの音が響いて、私は息を飲んだ。
嫌だ。誰にも会いたくなんかない。
ノックが再度繰り返された。
放っておいてはもらえない。
ましてや、ここは私の家ではない。訳も話さぬ我儘ばかりなんて、通りはしなかった。
現実はいつだって、こちらの都合なんてお構い無し。
「…はい」
掠れた声で返事を何とか返して、じっと扉を見つめる。
「お連れ様がいらしております。朝食をご一緒にと仰られておりますが、今朝はいかがなさいますか?」
身支度なんて何もしちゃいない。
パジャマだし寝癖だし、表情はしょっぱい。
だが、幼馴染が訪ねてきたというのにこれ以上私が寝室から出てこないというのも心配をかけるだろう。
野生の勘を持つ彼は、もしかしたら既にいつもとはどことなく違うこの部屋の様子に気付いたかもしれない。
きらりとベッドサイドの鏡に陽が反射する。何気なく目をやると、濁った目をした美少女が、青白い顔で映っていた。
いかん。お母様似の美少女が台無し。
泣きべそなんてぇ♪デストロイ、ね?
ニヤリと虚ろな目で笑うホラー演出。
返事待ちでドア付近に待機していた侍女は、しかし無言であった。
「朝食はラッシュさんと2人分で用意しておいて下さい。私の支度はすぐ終えられますから、こちらは結構よ」
侍女は何か言いたそうな顔をしたが、了承を返して立ち去った。かしこまり!である。
侍女が立ち去れば、私の身体は再びベッドに沈もうと傾ぎかける。
ダメよ、甘ったれるな。立つんだ、オルタンシア。
泣かない、俯かない。何とか顔を上げて踏み留まった。
わざわざ鏡を見ずとも、目が死んでいることはわかる。
それでも意識して、ゆっくりと口の両端を持ち上げた。
夢はまだ現実化していない。黙って負ける気か?
ご冗談を。
「何か事態が動いたから、リスクも高まったんだわ。宝物庫を開けたから? それとも、相手方で何か動きがあった?」
わからない。
だが、私には乗り越えられるはずの力がある。決して、泣き寝入りするためのチートではないはずだ。
私は、私が何をしても嫌われないと、アンディラートを信じた。何も、遠慮は要らない。
念には念を。
まだ切欠や流れはわからない。それでも私を庇って刃を受けることがわかっている。
お父様と同じだ。
前段がわからないまま、それでも最後の最後だけは、準備しておける。
身支度を整え、鏡の前で笑ってみた。
何度か繰り返して、いつもの顔になる。
まだ、私は戦える。
きっと。
君を、守るよ。




