アフターサポート
「じゃあ、まずは服を買って。今日は…どこ行きたい?」
擦り剥けたオデコを押さえながら、笑ってみる。
安心したように、アンディラートも表情を緩める。
「付き合うよ。オルタンシアは雑貨屋と市場が好きだろう」
好きだけど、いつもいつも付き合わせるのも悪い。
「アンディラートの買い物にも興味があるわ」
「えっ。俺の買い物か…」
困ったようにアンディラートは眉を下げた。
おや、あんまり連れて行きたくなさそうだな。
「これは、もしかして武器屋さんかな?」
「…そうだな。でも、お前には…」
楽しいところじゃないだろう、と言う彼に笑った。
そうでもない。むしろ願ったりだ。いつか偵察したいと思っていたのだ。
「いいよ、もし君の邪魔じゃなければ見てみたい」
「邪魔なわけがないよ」
すっかり慣れた服屋さんで、着替えを選ぶ。
私のワンピースを選ぼうとするアンディラートを宥めて、自分の服に専念してもらった。
とはいえ、好みの服が自分に似合うものかどうかなど、まだよく把握できないアンディラートは幾つかを試着室に持ち込んでは悩んでいる。
選んであげるとすぐそれに決めちゃうんだけど、いつまでも自分で買えないのもダメだよねぇ。
さて、私はそろそろ街用のズボンが欲しいのだ。
さすがにズボンは、騎士見習い隊の制服である訓練着しか持っていない。
そして訓練着では「貴族の子女ですよー。見習いだから腕も高が知れてますよー」と宣伝しているも同じである。
いくらアンディラートが一緒だと言っても、子供だけでうろついていたら誘拐犯ホイホイになりかねない。
きっと撃退できるけど、目立ちたくはないのだ。
当然、武器屋さんに行くのなら、街娘よりも小僧っこに見られたい。
冒険者でもない娘っこなんて、武器屋に行っても、やっぱり侮られるか絡まれそうじゃんね。
「…何だよ、その格好。まるで男みたいじゃないか」
令嬢とは思えないスピードで試着アンド購入を済ませた私を見つけ、ようやく試着を終えたアンディラートが不満そうな声を上げる。
キャスケットのような帽子もセットして髪を隠した私は、パッと見は完璧に小僧っこだ。
「可愛いでしょう? こういうのも似合っちゃうと思わない?」
帽子のつばの下からニッコリ笑ってやると、アンディラートは簡単に黙った。
鏡をちらりと確認する。うん、イイ感じ。
親方! 空から女の子が降ってきたら、私にも受け止めてあげられそうですよ!
私とは意見が相違しているのか、隣からはモショモショと何かを呟く声。
声が小さくて聞き取れませんよ。
あえて私は追及した。
「あれ、おかしいな、褒めてくれないぞ。もしかして、可愛くないのかしら?」
「か、可愛いよ! お前は何を着ても可愛い、帽子も、その、悪くない」
反射のように返したアンディラートは赤面して口を噤んだが、私は満足して「そうでしょう」と頷く。
お母様の娘たる私に、似合わない服などないのだ。
腰みのすら華麗に着こなして見せるぜ。
アンディラートは唇を引き結んだままお会計していた。
全く。紳士なら、赤面せずに女子を褒めるくらい、早く出来るようになりたまえよ。
あ、嘘です、調子に乗りました。
君がチャラ男になったら、多分白髪になるほどショックだから、無理しなくていいです。
庶民ルックに身を包んだ私達は、武器屋へ移動。
今日は完全に1人で服を選んだアンディラートだったが、うん、可愛い可愛い。
すぐ労働者スタイルを選ぼうとする私とは違い、ちゃんとした街のオシャレ人であった。
「なんだ、ここには子供のオモチャは売ってねぇぞ」
早速絡まれた。14歳で成人たるこの世界とはいえ、7歳で武器屋は確かに冷やかしだよね。
キョロキョロしながら棚の武器達を見て歩く。
しかしながら、アンディラートは堂々とカウンターに近付いた。
「ソードブレイカーを見せてほしい」
「おう。今あるのはこの辺だぜ」
…なん…だと…?
長剣でも槍でも盾でもなく、なんかよくわからないものをチョイスしている。
ソードブレイカーって何?
武器屋で売ってるんだから武器かな…ぶん殴って剣を歪ませて壊す…金槌?
それとも、燃えないゴミの回収屋さんが危なくないように、要らなくなった剣を分解する道具とかかしら…。
ちょろりと後ろから付いていき、邪魔にならないようにそっと覗き込んだ。
「…剣なの」
変な形。片側が普通の刃で、もう片方が魚の骨みたいになっている。
サイズとしては、短剣なのかしら。
「…武器を買うのは初めてか?」
私が覗き込んだせいで、店主のオッサンが訝しげになってしまった。
「いや…こっちは付き添いだ。私は普段、長剣と短剣を使用している。師より、使用する短剣を切り替えるよう指示が出たので、購入しに来た」
一人称が『私』だと!?
大人ぶっているアンディラートを思わず驚愕の目で見てしまう。
ちょっと困ったような視線が返された。
「パリーイングダガーか。マンゴーシュじゃなくていいのか? 見ての通り、強度には難のある武器だぞ。使い方が悪けりゃすぐ壊すことになる」
「マンゴーシュは、とりあえず訓練が終わった」
「ほう。そうか。ソードブレイカーが師匠の指示だったな」
おぅい、何を言っているのか全然わからないのだぜ。
パリーダガーってなんぞ。パーリー?
レッツ…パーリィ…ダガーは短剣…パーティー…余興用の短剣…ジャグリング?
マンゴーシュはゲームで出てきたことがある気がする…けど、文字だけだったから形状は知らぬ。
出された短剣を試している、アンディラートの目は真剣で聞ける雰囲気にない。
…ちょっとソワソワしちゃう。でも、選んでるとこ邪魔しても悪いしな。
ちょっと振ったりしてるし、ぶつからないように離れてみる。
しかし離れた気配のせいか、パッと腕を掴まれた。却って邪魔をしたようだ。
取り残されている様子の私に苦笑して、振り向いたアンディラートが教えてくれた。
「受け流し用の短剣だよ。盾代わりに短剣を訓練しておけって言われてるんだ」
「…ふぅん?」
「やっぱりお前にはつまらなかったろう?」
「そんなことないよ、知らないものには興味がある。君がどうして今、それを使うのかとかもね」
そう言うと、彼は会計を済ませた短剣を持たせてくれた。
それを見ながら、店を後にする。
半身の魚の骨にしか見えない。
お魚食べたい。食卓には開きとか、出てこない。ホッケェ…。
…なんて考えていたら、アンディラート先生の解説が入った。
「ソードブレイカーは相手の武器を折ったりできる。大きな武器は無理だけどな。今、家では攻撃を防いだり流したりする訓練が多くて。ソードブレイカーを使うのは、ここにかませて折るくらい、しっかり見て狙った場所に受けろってこと」
「…し、しっかり見て受けるって…またボッコボコにされてるんじゃ…」
ざーっと血の気が引いた私に、アンディラートは慌てた。
顔に傷が、と泣かれたあの日を思い出したのかもしれない。
当然私も思い出した。ぼっこり頬の腫れたアンディラートの顔を。
「あー…いや、あれは相手の攻撃に目を瞑らないための訓練だから。はじめは仕方なかったというか…」
どうしよう、既に鼻の奥がツーンとしている。
多分泣きそうな顔をしているのだろう。鎮まれ、我が鼻よ。
アンディラートが一生懸命ヨシヨシしてくれるが、ツーンはなかなか取れない。
しかし、顔を上げた彼が急に呟いた言葉に、一瞬で正気に戻ることとなる。
「サトリ」
どこどこ!?
慌てて私もアンディラートの視線の先を追った。
アンディラートは睨むように遠くを見ながら、その位置を指し示す。
あんぐりと口を開けながら、私も相手を視認した。
間違いない。サトリさんだ。
懐かしいくらい、何も変わってない。人間じゃないからかしら。
「ホントだ! うわぁ、頼む、気付いてぇっ」
思わず両手を祈りの形に握り締め、必死に脳内でサトリさんに呼びかける。
サトリさーん! サトリさあぁん、オルタンシアです、2度目ましてぇ!
チート能力4玉出したけど、所謂アイテムボックスの使い方がどうしてもわからないオルタンシアですよー!
ギブミー天の助け! プリーズアフターサポート! あなたの街のオルタンシアです!
用件を全力で魂の叫びに乗せてみる。
これでダメなら、猛ダッシュで物理的に捕らえるしかない。
サトリさんはハッとしたように周囲を見回し、そして。
私達に気が付いた。
「よしっ、接触に成功した!」
喜びのあまりアンディラートの手を握り締めたが、彼の表情は硬い。
睨むような目が、私を捉えた。
「呼んでない。なんで、気付く?」
「え? 呼んだよ」
「前は大きな声でも気付かなかった。今回は呼んでない」
呼んだってば…うおぉ、ホントだ、声に出して叫んでない!
不審度MAXじゃないか、しまったあぁ。
しかしながらどうしてもサトリさんとは接触を持ちたい。
アイテムボックスもさることながら。
予知夢についても、どうしても助言を受けたいっ…。
「アンディラート」
唇を引き結ぶ少年の手を、強く握った。
「あとで話す。必ず」
アンディラートの目が見開かれる。
ずっと、ここまで聞かないでいてくれたのだ。
全ては無理でも、引かれるとしても…彼には話そう。
「…よろしいのですか?」
気が付けば、すぐ側にサトリさんが立っていた。
警戒したように、アンディラートが私を庇おうとする。
そっと、それを止めた。
「お久し振りです、サトリさん」
そんな名前ではないでしょうが、あなたの名前を知りませんので。
「ええ。お元気そうで何よりです、オルタンシアさん」
おお、私の名前を。
まぁ、さっき叫んだもんね。前も叫んだもんね。
「場所を移しましょうか。2人きりのほうが良いでしょう」
ぐっとアンディラートが唇を噛んだのが見えた。
「いえ。大丈夫です。彼も一緒で」
よろしいのですか、と。サトリさんはもう一度訊いた。
私は頷いた。
少しだけ道の端によって、無造作に積み上げられている箱の陰に立つ。
街の喧騒が、遠くなったような気がした。
「所謂アイテムボックスの使い方ですね。他は、問題なく?」
「はい。どうしても、それだけが使えません」
サトリさんが私のほうに手を伸ばした。
警戒するアンディラートに「大丈夫よ」と告げる。
顔の辺りまで近付いた手は、しかし触れることなく頬や頭の近くに翳されただけだ。
「…間違いなく定着しています。だとすれば、思考の問題です。…そうですねぇ…」
考え込んだサトリさんは、どこからともなく袋を取り出した。
中身を、手近な箱の上にバラバラと出す。
それは、緑色の。野菜。
…ピーマン。
ピーマンだあぁぁっ! ふおぉぉぉっ!
「よろしいですか。例えばこの袋を…」
ピーマン欲しい、これ、くれないかな。なんてこったー、こんなところにピーマンがぁ。
ああぁ、どこに売ってたんだろう、教えてくれないかなぁっ。
欲しい欲しいっ、どうしても欲しい!
思考がピーマン一色に染まってしまう。
「…オルタンシアさん。あなたは、本当に…」
溜息をつかれて、はっとする。
ごごごめんなさい、でも肉詰めピーマン食べたいよおぉっ。
売ってないんだもん!
市場を舐めるように探したけど、見つからなかったんだもん!
「…良いでしょう。能力を使えるようになったら、ピーマンは差し上げます」
「ホントですか! やったー!」
すごいや、サトリさん! 最高!
満面の笑みでアンディラートの手を取ってクルクルと回る。
わけもわからず振り回されて、アンディラートの目が真ん丸になっている。
アイテムボックスとピーマン両方が手に入るだなんて、今日はなんてツイてるの!?
お肉、お肉買って帰ろうね!
「落ち着いて聞いてください。あなたが能力を使いこなせなかったのは、思考の切り替えがうまく出来なかったためだと思われます」
「…切り替え、ですか?」
アイテムボックス、オープン! とか言うだけじゃダメってこと?
サポート同様に想像力を試される能力だったのだろうか。
だけど、見えない場所にしまうイメージは何度も試したけど、できなかった。
「アイテムボックスを想像される方は、ゲームのイメージを持つ方が大半です。文字でのアイテムリストや簡略化されたアイコン、縦横何マスの所持限界、1種類につき99個。そんな表現を耳にしますが、それが目に見えない状態で持ち物を収納するのは難しい」
そうなんだよね。私もはじめは3マス×6マスのアイテムボックスを想定したんだけど…。
想定したって、見えるわけではないから、そこに物を入れようがない。ウインドウが浮いてるわけじゃないから。
アイテムボックスに入れって念じれば入る、というようなものでもないようだ。
「そうです。命令したって仕方がない、アイテムボックスはただの入れ物であって、自我はありませんから」
じゃあどうすればいいのよ…。
そう考えた私の前に出されたのが、一枚の布袋だ。
「これは、アイテム袋です。袋を手に持った人のアイテムボックス内に繋がります。ここにこのピーマンを収納してください」
アイテム袋なんてあるんだ。便利だな。最初からこっちをくれれば良かったのに。
言われるがままにピーマンを入れると、袋を逆さにして振っても出てこない。
そりゃそうだよね、アイテム袋なんだもん。
「この袋、くれるんですか?」
「いいえ、それはただの布袋ですから、差し上げたところでどうしようもありません」
「え? だってこれは…あっ!? もしかしてっ」
「そう。アイテムボックス自体は常時発動しているのですから、『アイテムボックスに入れる』という想像がうまくできないのならば、入り口だけを現実に設定すればいいのです」
な。
なんてこったーい!?
「ここに入れたものはアイテムボックスに入る、と。私が思えればいいんですね!?」
「その通りです。もう袋は使わなくても出来るでしょう。例えば…」
私の手を取り、指で円を作らせるサトリさん。
アンディラートが少し身じろぎしたが、割って入ることはなかった。すまんね。
えーと、この円から、ピーマンを覗いて…。
「この円に閉じ込めたものはアイテムボックスに入れることが出来ます。さあ、しまってみてください」
ピーマン。収納、っと。
「おおっ」
ピーマンがひとつ、箱の上から消えた。
続けて、出してみてください、とサトリさんが言う。
一度理解できてしまえば、一生懸命探ろうとしなくても、アイテムボックスにピーマンが2個入っていることがわかる。
指で作った円から、箱の上にぽろぽろっとピーマンがふたつ落ちた。
「…でき…た…」
苦節6年。
赤子の時分より挫折し続けてきたアイテムボックスが。ついに、ついに!
「人間には、アイテムボックスに物を入れるための境界線が、わかりやすく必要なのかもしれませんね」
布袋にピーマンを片付け始めたサトリさんに気付いて、私はじっと相手の手元を見つめた。
くれるって言った。ピーマン、くれるって言いましたよね、サトリさんっ。
「…幾つ欲しいのですか」
「全部はダメってことですか」
「そうですね、一応証拠品なのでひとつは持ち帰らねばなりません」
証拠品? ピーマンが?
食べちゃいけないものなのかしら。あと、やっぱり今って仕事中なの?
しかし肉詰めピーマンの魅力には抗えない。
「サトリさんが1個で良いなら、残りの5個みんなください」
「遠慮がないな、オルタンシア…」
ぽつりとアンディラートが呟いたので、私は重々しく頷いておいた。
「どれだけこれが欲しかったと思ってんの。大丈夫よ、アンディラートにも食べさせてあげるからね」
中のタネって植えたら育つのかなぁ。未成熟だからダメかしら。皮が赤くなるまで寝かせてみるとか…。
ああ、でも育つかどうかもわからんタネのために1個無駄に腐らせることなんて出来ない。
「ここにもパプリカはあったでしょうに。それではいけないのですか」
「あんな肉厚でフルーティーで水っぽいヤツの肉詰めなんて! 納得できません!」
似たようなものだとか栄養はピーマンよりあるとか言ってるけど、全然別物だよ。
私にとってはピーマンのほうが上だ。ピーマン、ピーマン!
「では、そろそろ私はおいとまします」
私の脳内のピーマンコールを華麗にスルーしてサトリさんが帰ろうとする。
慌てて引き止めた。
大収穫ではあったが、用事はまだ済んでいない。
「待って。予知夢についても訊きたいんです」
「…どのようなことを?」
「お母様が…」
アンディラートの存在を思い出して、思わず口を噤んだ。
えっと、予知夢で両親が死ぬって見せられてしまったんですが、母の死因がどうしても出てこないんです。
結構何回も見ているのに、いつわかるのかわからない。このままじゃ、防げないんじゃないかって、不安で。
どうしたらいいか、教えてほしいんです。
お母様は一体何が理由で死ぬというの?
「オルタンシアさん。ご説明したように、予知夢はあなたにとって決定的に悪い出来事を事前に教えてくれます」
「はい」
「それ以外は見えないし、意図的に変えることはできない。つまり、そういうことです」
…はい?
「どういう…意味ですか…」
決定的に、悪いことだけ。
急激な不安に、ガタガタと体が震えだす。
お母様。棺に優雅に横たわり、こんな時にさえ眠っているかのようにお美しい。
あれが。あの姿が。変えられない未来だと…?
アンディラートが目を見開いて、震えを押さえようと私の肩を抱いた。
「お母様は、お母様が亡くなるのは、私にとってっ…」
「決定的に悪い出来事ではない、ということになります」
「そっ、そんな! そんなわけない! サトリさん!」
知ってるんでしょう? あなたなら、お母様がどうして死ぬのか!
そうだ、寿命、もし何だったら、私の寿命をお母様に継ぎ足したりとかっ…。
「…オルタンシアさん。ご存知でしょう。私は神ではありません。そのような能力も権限も、ないのです」
「う。でもっ、でも、あなたなら何か方法が…」
「私に出来ることでしたら、叶えて差し上げるのですが…生憎と管轄外です」
そう。サトリさんは…神では、ない。
死者の魂を転生に導く…そういうお役所仕事的な。役人的なものだと、思っていた。知っていた。
それでも、こんな願いをする人は、きっと山のようにいるのだろう。
誰か1人が特別扱いをされることは、ない。
「寿命は、誰が決めるのですか…」
呟く私の声に、力はなかった。
「存じません。神かもしれませんが、私も神を見たことがありません。それから。…本当に私にそのような能力はないのです。心苦しい限りですが」
何だか、力が抜けてしまった。
私を支えるアンディラートは、さぞかし重いことだろう。
彼が手を離せば、多分私は座り込んでしまう。
「申し訳ありません。あの時、頑張れだなんて、無責任に言っておいて」
本当だよ、酷いよ、なんて。
言えたら良かった。
たくさん、言われてきたのだろう。こんな風に勝手に期待されて。
あなたなら知っているんだろう、本当はできるだろう、なんて。
時には詰られたのだろうか。
それでも、静かに諭したのだろうか。
自分には出来ない、と。
力は入らないけど、私は笑う。
これだけは、伝えておかなくてはいけない。
「違うよ。サトリさんが背中を押してくれたから、もう一度頑張ってみようと思ったの。あなたが、頑張れば幸せになれるって、幸せになってって…言ってくれたから」
決して、恨みなどない。
誰にだって、出来ないことは出来ないのだ。
「本当に感謝してるんです。今日だって、お仕事中なんでしょう? 本来ならもう私になんて関わらないはずだったんでしょうに、来てくださって」
転生前の、長い行列を思い出す。あんな人数をひとりひとり見守っているはずがない。
たまたま彼を見つけた私が、無理矢理脳内で呼んだから。
無視したって不都合がないだろうに、それでも気付いて来てくれた。
本当に、感謝しているんです、サトリさん。
酷いことを言って。嫌な思いさせて、ごめんなさい。
「…いいえ。それでは、これで失礼致します」
ぺこりと頭を下げたサトリさんは、今度は引き止める間もなく立ち去ってしまう。
消えたわけでもないのに、止められないほど素早い。
「喧騒が。戻ってきた」
ぽつりと呟いたアンディラートに、私もハッとした。
あんなに喚いたはずなのに。誰も私達を不審な目で見てなどいない。
「オルタンシア、さっきの…どういう…?」
どういうことかって?
…どうもこうもない。
自嘲しようとして、失敗した。
どんな感情であれ、こんなときに、笑い顔が出来るはずがなかった。
ああ、お母様。
あんなに愛してもらったのに。こんなに愛しているのに。
今にも崩れ落ちそうな私を、アンディラートは手近な箱の上に座らせる。
真ん前にしゃがみ込んで。私の目を覗いた。
そこに責める色はない。ただ、心配そうに私の頬に手を触れる。
「…君にも。説明、しなきゃね…。それで…君が側にいてくれなくなったとしても」
ぽろりと涙が零れた。
なんて脆いの。
お父様とお母様は命の危機にさらされていて、アンディラートには嫌われてしまうかもしれない。
あっという間に何にもなくなってしまうんだわ。
それは私がクズだから? 側にいるだけで不利益な人間だから?
「オルタンシア!」
頑張って、幸せになるって。
どうすればいいのかな。
前も、今も。頑張ってきたつもりだったんだけどな。
「アンディラート、私…」
何を言いたいのかわからないけれど、口を開く。
涙で歪んだ視界の向こうで、アンディラートが真っ直ぐに私を見た。
「…いいよ。俺は、今じゃなくていい。お前が話せるときでいい。無理なら話さなくても構わないし、何を聞いたって側にいるよ」
何だよ、もう。
こんな天使が存在して、いいのかよぅ。
「約束するよ。オルタンシア。約束するから」
私を抱き締めたその腕に、助けを求めて縋り付いた。
何とか声を堪えても、あとからあとから溢れる涙が、彼の胸に染みを作る。
大声を上げて泣き叫ばずに済んだのは、彼が背中を撫で続けてくれたからだった。
頭の中がグチャグチャだ。
理解できたのはただひとつ。
…私では、お母様を助けられない…。




