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骨董屋あらため  作者: 山路こいし
第一章 銀座綺譚
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五八 相喰む双蛇




 目蓋を伏せ、わずかに唇を開けて、真澄(ますみ)は蛇川の語る言葉に聞き入っていた。


 目は潤み、頬は紅潮し。こうしてないと飛び出してしまう、とばかりに心臓のあたりをゆるく抑えて、悩ましげな喜びに身を震わせている。

 その姿は、彼が車椅子に座った不具者であるというただ一点を除けば、稀代の花形奏者のリサイタルに詰めかけた聴衆とまるで同じだった。極上の音色を一音も聴き漏らすまいと、全身を耳にしているのだ。


 その語りが終わっても、しばらくの間そうして余韻に浸っていた真澄だったが、やがて、仄かな熱を滲ませたまま蛇川を見つめた。


「……素晴らしい。兄さんの語りは、ハイフェッツのように鋭く正確無比でありながら、エルマンの奏でるチャイコフスキイよりも甘美に聴こえる。なんて贅沢なリサイタルだろう!

 ああ、でも、人の欲は尽きない。兄さんが駆け回る姿を、間近で見られたらもっといいのに」


 二対の冷えた灰褐色の瞳が互いを見つめる。

 一方は微笑みに縁取られているが、しかしもう一方は不機嫌を隠そうともせず顔を(しか)めている。この張り詰めた視線上に身を置きたいと願う者などいないだろう。


「よく訓練された猟犬が、脇目も振らず、獲物に向かって一直線に駆けてゆく様は実に……実に美しい。春雷のようなその足取りだけが、僕に唯一、(せい)の喜びを感じさせてくれる……」


 うっとりと、夢の中に心を遊ばせでもしているかのように不確かな声で真澄が呟く。その吐息から桔梗湯の匂いを感じ取って、蛇川の腹の底がざわついた。


 嫌な気分だった。心底嫌な気分だ。


 真澄と対峙するといつもこうだ。真澄の肉体的な弱々しさを目の当たりにするたび、胸を掻きむしりたくなるような焦りを覚える。死の気配が蛇川を怯ませる。鬼の気配などないはずなのに、右腕がチリチリと焼けるような痛みを訴えてくる。まるで蛇川の戸惑いを嘲笑うかのように。


 いつだって己の力で道を切り拓いてきた男が、手出しもできず、かといって見捨てることもできずにいるのがこの、同じ顔と名を有する弟だった。

 その(まま)ならなさ。透明な檻に囚われているかのようなもどかしさが、蛇川をひどく(さいな)むのだ。


 形容しがたい感情で蛇川の顔が歪めば歪むほど、真澄の微笑みはいっそう満足気に色付いた。


「今度の謎も、楽しんでいただけましたか?」


「……それなりに。だが愉快ではないな」


「どうして?」


「人が死んでいる。当然だろう。お前のしていることはいたずらに社会を混乱させ、不安を煽る」


 虚をつかれたように、真澄が目を丸くした。


「もしかして、怒ってます? なぜ? 東雲(しののめ)忠一郎は、兄さんと何の関わりもない俗物じゃないですか。彼の死があなたを苦しめる理由などないはずだ」


「確かに、奴は僕にとって腐った葡萄一粒ほどの価値もない。だが関係はある。人間が社会(ポリス)的動物である以上、僕も東雲も社会の一部なのだ。この世に起こる全てにおいて無関係ではいられない。

 僕は決して法の擁護者ではないし、義侠心も持ち合わせちゃいないが、しかしそれでも、ポリス的動物としてお前の所業を止めねばならん」


「ならば僕を殺せばいい」


 彫像のように静かに控えていた付き人が、白くなった眉を持ち上げて主人(ますみ)を見遣った。が、口は挟まない。立場をわきまえているのだ。


 蛇川はますます目を険しくして鋭く真澄を睨みつけた。その苛立ちを煽るように、真澄がゆったりと腕を開いて見せる。


「簡単ですよ。なにせ、僕の肉体は、既にほとんど死んでいるんだから。僕としても、このまま安楽椅子の上でゆるやかに腐ってゆくのを待つより、兄さんの手にかかって死ぬ方がよほどいい。そうすれば、きっと、僕の存在をより深くあなたの心に刻み付けることができるわけだし」


「ぞっとしないな。求愛の文句としては最低だ」


「あははは! そうですね、確かに求愛だ……ははっ」


 笑い声が喉に引っかかったものか、真澄がひどく咳き込み始めた。

 付き人が慌てて差し出したハンケチを口に押し当て、メラレウカの香りで呼吸を整えながらも、可笑しそうにくつくつとまだ喉を鳴らしている。


 真澄の卓越した海馬には、あらゆる記憶が刻み付けられている――母の胎内にいた記憶さえも。


 人はそれを空想と言うかもしれない。

 だが真澄にとっては紛れもなく事実だった。


 その中に、宝物のように大切な記憶がいくつかあった。

 暗くて温かい場所で、ずっと、抱き合うようにして互いを守ってきたもう一人の自分。()よりも薄い肌から感じられる血の巡り、そこから伝わる彼の生命力。少し手を伸ばせばいつでも触れられる人がいた、あの愛しさと安心感。

 自分は一人ではない。この人がいれば、この人さえいれば、自分は決して孤独ではない……


 あの時間は特別だった。

 苦痛まみれの生の中で、唯一満たされたひと時だった。


 突然、細く狭い道に頭を捩じ込む羽目になったこと。初めて感じた強烈なまでの眩しさ、そして……


「そう、僕はずっと、熱烈にあなたを求めてきた」


 真澄の中に、もっとも鮮烈に残る記憶。


 それは、外の明るさに驚く余裕もないまま、荒々しく落とされた熱湯の抉るような痛みではない。大量に流れ込んできた煮え湯が喉を焼く苦しみでもない。


 跳ね散る飛沫と、甲高い悲鳴が入り混じる向こうに見た、神々しいまでの『もう一人の自分』。

 白く清浄な布に包まれ、宙に向かって無邪気に手を伸ばす兄の姿……その気高さ、美しさ……


 ――自分もあのように在りたい。


 長じてから思い返してみると、あの時、自分が兄の姿に感じたのは、強烈なまでの憧憬(しょうけい)だった。羨望であり、渇望であった。


 煮え湯の中から見つめた、強く焦がれた灰褐色の瞳が、今、真正面から自分を睨み付けている。複雑な感情を孕んだ視線、それを独り占めしている事実に、産まれてすぐ不能にされたはずの真澄の()()がじわりと熱を帯びる。

 ああ、今、あの強く美しい人の心の中心にいるのは僕なのだ!


「あなたの瞳に僕を映す時間は無上の喜びだ。あなたが僕に向ける、全ての感情が愛おしい。怒りも、憐れみも、冷え切った侮蔑でさえも!」


「……狂っていやがる」


(おの)が半身を求める心のどこが不思議なんです。僕達は本来一つだったんですよ、兄さん」


「いいや、狂ってるよ。確かに僕らはかつて一つだったかもしれんが、今は違う。僕はお前ではないし、お前も僕ではない」


 苦々しげに蛇川が吐き捨てる。


「悪いが、お前の絵図通りに踊ってやる気は僕にはない。

 いずれお前を永久に閉じ込める者が、手錠を煌めかせてこの(やかた)を訪れるだろう。しかしそれは僕ではなく司法の番人だ。お前が招いた混乱の、その犠牲となった者の怒りの代弁者が、法を従えてお前を捕まえにくる。言っておくが、拘置所の寝心地は最悪だぞ。しかも不衛生だ。今のうちからせいぜい身体を気遣っておけ」


「さあ、どうでしょう。僕を守る繭は存外強固ですよ」


 フン、と蛇川が鼻を鳴らした。

 「蟒蛇(うわばみ)様」は極めて入り組んだ権力に守られている。いかに蛇川とて、身一つで当たって打ち勝てる敵ではない。


 そもそも、殺人という明らかな"成果"がある犯罪とは異なり、それを(そそのか)し、実行させた教唆の罪は立証からして難しいのだ。当然、真澄もそれを心得ている。


「第一、僕が届ける封筒の中身はちょっとした小説なんです。殺人の指示書じゃない。熱心な読者がそれに感化されて()()を仕出かしたとて、著者が責められる(いわ)れはないでしょうに。

 たとえその小説がいかに愉快で刺激的だったとしても……『四つの署名』に傾倒するあまり土人の毒矢を試した男がいたとして、警察がドイルを逮捕しますか」


「ハ! 苦しい詭弁だな。大衆向けの娯楽小説と、特定の人間に向けた極めて個人的な小説を同列に語れるはずがない……おいあんた、桔梗湯を渡してやんなさい。声が掠れてきてるぞ」


 他所の家の使用人を顎で使い、蛇川が立ち上がる。これ以上言い争う気力はなかった。真澄とやり合うとドッと疲れるのだ。


「兄さんの推理は今度も完璧だったけど」


 独り言のように真澄が呟く。


「残念。ひとつ、見逃しましたね。あるいは、あえて言わずにいるのかな」


 それは、兄を引き留めるにはこの上なく効果的なひと言だった。

 絶対の自信を置く分野において不足を指摘されれば、反射的に(ばく)したくなってしまうのが人の(さが)だ。蛇川のような人間にとってはなおさら。


「……花枝夫人が所持していた昇汞(しょうこう)の使い(みち)か」


 荒々しくも再びソファに腰を下ろした蛇川を見て、真澄は満足気に桔梗湯を喉に流し込んだ。目線だけで静かに先を促す。


「だが彼女はそれを用いなかった、少なくとも今回は。お前が用意したこの悪趣味な舞台において、彼女に与えられた役割はただのスケエプ・ゴオトだ」


「やはり気付いてましたか! そう、彼女は夫に対して静かな害意を抱いていた」


 真澄が桔梗湯の入ったグラスを目の高さに持ち上げる。琥珀色の薬湯越しに見える灰褐色の瞳には、炎のような妖しい揺らぎが宿って見えた。液体の反射が見せた幻だろうか。


「痛快ですよね。凡庸な善人でさえ、一枚皮を()げば悪意の塊だ」


 ――あなた、機会さえあれば別の用途で使う気でいたんじゃないか?


 面会室で言った自分の科白(セリフ)が蘇る。


 花枝は猛毒の昇汞を隠し持っていた。百足(ムカデ)を殺すためだと言い張っていたが、一年でもっとも百足が精力的に這い回るこの時期に、使う気配も見せず未開封のまま所持しているのだ。真実殺虫剤として買い求めたとはとても思えない。


 だが、と蛇川は思う。


 花枝が東雲に昇汞を盛ることは、きっとこの先もなかっただろう。

 人は弱い。特に女は立場も弱い。その弱さを補うために、悲壮な覚悟で武装せねばならない時もあった。花枝にとっての昇汞は、かつて武家の女が胸に忍ばせていた懐剣と同じだ。万一に備えた覚悟。苦境を生き抜くための勇気を与えてくれる御守り。


 しかし、真澄はそこに別の意味を見出したようだった。


「人の悪意に触れると、嬉しくなりますよ。僕だけでなく、世界もまた、どうしようもなく歪んでいると分かって安心する」


「歪んでいるのではなく、多面的なのだ。『一人の人間の心の中には、虎、豚、驢馬、そしてナイチンゲエルが住んでいる』――ビアスはその謎めいた最期のために少々過剰評価されているように僕は思うが、しかし彼の遺したこの言葉は真実だ」


「多面的だから苦しむのですよ」


 真澄の瞳の中の炎が、一際(ひときわ)強く揺らめいた。


「兄さんだってそうだ。僕に怒り狂う一方で、僕の供する謎解きを楽しむ心を抑えられない。ポリス的動物だと(うそぶ)くのなら今すぐ僕を殺せばいいのに、情に惑わされてそれもできない。

 合理性を愛する自分と、それを貫けずにいる自分。多面性がもたらす矛盾に、あなたは今、ひどく苦しんでいるじゃありませんか」


 歯を噛み鳴らして蛇川が顔を歪める。

 その通りだ。あまり直視したくない事実だった。


 珍しく、すぐには返す言葉も見つけられずにいる蛇川に、慈愛の微笑みを浮かべた真澄が甘やかな息を漏らした。自分の言葉が兄を惑わせていることが嬉しくて仕方ないのだ。


 強く、気高く、美しい兄が。

 心の底から憧れた兄が、ろくに動けもしない己の言葉に心を揺らしている。


 そのまま堕ちてくればいい。

 堕ちてくれば、また触れられる。また二人寄り添って抱きしめ合い、幸せだったあの暗闇に戻れる……


 真澄の笑みが一層深まり、蠱惑的な色を浮かべた。


「兄さんの怒りが、ポリス的動物としての道義的責任からきているのなら……この事実が慰めになるんじゃないかしら。

 僕は、決して、善良な人を悪の道に唆しているわけじゃない。紅い封筒は、殺人を固く決意した者の元にのみ届けられる。寺島には届き、しかし花枝夫人には届かなかった。これが事実ですよ。僕が手を出そうが出すまいが、彼は早晩(そうばん)、事をなしていたはずなのです。僕はただ、その手筈を美しく整え、物語性を与えてやったにすぎない」


 片手で顔を覆った蛇川が、革手袋の隙間から真澄を睨み付ける。


「……だから僕が気に病む必要などない、と?」


「楽しく遊びましょうよ、ただ純粋に、兄弟二人で。僕の組み立てた謎は、兄さんに無上の喜びを感じさせるでしょう。あなたはそれを否定できないはずだ。優れた猟犬は、優れた獲物を追うことによって初めて、その優秀さを遺憾なく発揮できる。純血種の猟犬が仔ウサギを追う日々に満足できるはずがないんだ。

 兄さん、僕達は、知的探究でしか己を癒せない生き物なんですよ」


 ふと、真澄の言葉が蛇川の心のどこかを引っ掻いた。


 ――果たしてそうだろうか。


 真っ先に頭をよぎったのは、闘球盤(クロキノオル)の盤面に被さるように立つくず子の姿だった。りつ子が入れる茶々に身振り手振りで抗議し、二人で楽しげに笑っている。

 あの人が笑うと、綻び始めた桜の蕾の内に柔らかな薄桃色を見つけたような心地になる。胸の奥で、何か大切なものが息を吹き返したような心地になる。


 垂れた目を細めて蛇川の暴れぶりを面白がる吾妻。

 納豆を奪われてしおしおと肩を落とす山岡。

 時に醜い言い争いをして蛇川を怒らせる女達。

 鰹出汁の香り。心地いい活気に満ちた店内。

 小気味いい音を立てながら包丁を()る寡黙な店主、それに……


 ――最ッ低!


 真っ赤な顔で元気いっぱいに噛み付いてくる、小憎たらしいりつ子の可笑しさときたら。


 『いわた』での平穏で退屈な日々を思い返すと、蛇川の顔に皮肉めいた笑みが戻った。真澄の目蓋がピクリと反応する。


「……物事の一側面だけを見て、全てを知ったような気になるなよ、真澄。多面的で大いに結構。それは歪みでも弱さでもない。生き様そのものだ。箱の中に閉じ籠ってばかりいるお前には分からんだろうがね」


 悠然とソファから立ち上がり、両手をポケツに入れた蛇川が真澄を見下ろす。その目は冷ややかで侮蔑的だ。到底好ましいものではない。

 これこそが蛇川真純(ますみ)だ。いつもの彼が戻ってきた。『いわた』の常連客らを震え上がらせる、銀座の凶王のご帰還だ。


「考えてもしようのないことばかり考えるのはもう辞めだ、僕の性に合わん。時には欲に忠実にならねばな。そのためにもまず、お前にはもう少し身体を強くしてもらわねばならん。

 そうだな……散歩でもしなさい。そいつに頼めば喜んで車椅子を押してくれるだろうさ。市井の息吹に触れ、お前がこれまで遊び半分で踏み付けてきた雑草全てに名があったことを知れ。そこに憩う虫がいたことを知るがいい」


 真澄の目が抑え切れない好奇に光る。


「それで、兄さんはどうしたいんです?」


「胸糞の悪いその顔を、思い切りぶん殴ってやる」


「あはっ」


 真澄は手を打って喜んだ。その時にはもう、蛇川は背を向けて歩き出している。


「それは、ポリス的動物としての責務ですか?」


「いいや?」


 応接間の入り口まで来ていた蛇川は、舞台俳優のように優雅な動作で振り返った。冷ややかさと激情を宿した灰褐色の目を細め、薄い唇を歪めて見せる。


「兄としてだよ。莫迦な弟を殴って(いさ)めてやるのは兄の責務だろう」


 それからはもう、後ろを省みようとはしなかった。決然とした足取りで忌まわしい箱庭を去り、彼の生きる場所へと帰っていく。


 迷いを捨てた足音が次第に小さくなっていき……diminuendo(ディミヌエンド)だ。やがて消え切る寸前に玄関扉がsforzando(スフォルツァンド)で強終止の一打を響かせた。リサイタルの劇的な幕切れであった。




 その残響がすっかり消えてしまってからようやく、真澄はゆっくりと背凭れに身体を預けた。知らず、前のめりになっていたのだ。

 笑顔のままゆるゆると息を吐き出し、いまだ止まぬ興奮に瞳を煌めかせながら真澄が呟く。


「……残念。もう少しで手が届くと思ったのに」


「嬉しそうにも見えますが」


 車椅子のハンドルに手を掛け、優しく車を押し始めた付き人を見上げ、真澄は困ったように笑った。


「そう苛めてくれるなよ、(そろい)。兄さんに堕ちてほしいと願う一方で、力強く羽ばたく姿を見たいとも願ってしまうんだ。僕もどうやら随分と多面的らしいね」


「そのようで。さあ、少々お喋りし過ぎましたな。軟膏を塗り直しに参りましょう」


 キィキィと金属音を鳴らしながら、真澄らも応接間を去っていく。

 兄と向き合う甘美な時間は、しかし真澄の弱い肉体にとっては拷問に等しい。なにせ相手はあの蛇川なのだ。持てる知力と気力、集中力を総動員して常に思考を巡らせておかねば、たちまち喉笛に噛み付かれてしまう。彼の灰褐色の瞳は、明敏な頭脳は、どんなわずかな綻びも見逃さない。


 しばらくはまた、身体の静養に専念しなければならないだろう。楽しいお遊びはしばしお預け。


「……でも、いつかきっと、兄さんは堕ちてくるよ」


 真澄が不吉な予言を口にする。


「僕達はどうしようもなく欠けているんだ。あの人を理解してあげられるのはこの世界に僕ただ一人……兄さんもいずれ気付くはずだ。気付いて、絶望して、僕の腕の中に堕ちてくればいい」




 薄暗い部屋で、真澄がうっとりと目尻を(とろ)けさせている頃。

 蛇川は魚屋の前で腰を折って店先を物色していた。


 やがて何かを買い求めると、水の滴るそれを手に掴んだまま銀座通りをズンズン進み、荒々しく『いわた』の障子戸を引き開けた。


「亭主! これで肴を作ってくれ」


 その言葉と共に突き出された右手に、『いわた』の面々の視線が集まる。「ぎゃっ」と可愛くない悲鳴を上げたのはりつ子だ。


「蛸じゃない! よくそんなものを素手で……」


「はて。君にはこの手袋が見えんのかね」


「あのねえ。そういう生臭(なまぐさ)は、普通経木(きょうぎ)や新聞紙に包んでもらうものなんですよ……って、ちょっと、近付けないでよ!」


 りつ子のような「揶揄いがいのある玩具(おもちゃ)」を前にすると、蛇川の精神性はたちまち鼻垂れ小僧のそれになる。つい先程まで真澄と高尚な議論を戦わせていた男とは到底思えない。


 嫌がるりつ子の鼻先にしつこく蛸を突き付けながら、蛇川は幼稚な笑い声を上げた。


「なぜ逃げる、似た者同士じゃないか。何も考えてなさそうなどんよりとした目、文句ばかり垂れる尖った口、やたら頑固なのは吸盤で吸い付いていやがるからじゃないか? ハハ! おまけに茹だると真っ赤になって怒りやがる」


 その言葉通り茹で蛸のようになったりつ子は、さっと丸盆を取り上げると蛇川の上腕をバシリと叩いた。この帝都で気兼ねなく蛇川を打てる女など、りつ子以外にいるまい。


「最ッ低!」


「ハハハ、それだ! それを聞きたかった」


 満足したらしい蛇川は、ベシャリと蛸を上げ台に置いた。どっかとカウンターの定位置に腰を下ろした蛇川に、眉を垂らした吾妻が囁く。


「あんまり若い()を苛めちゃダメよ」


「仔ウサギと少々戯れ合っただけさ」


 宥める気持ち半分、やらしさ半分でりつ子の尻に手を伸ばした山岡が、その手を痛烈に叩き落とされるのを見て、蛇川はくつくつと愉快そうに喉を鳴らした。


「見たまえ、凄まじい女傑だ。僕も警官もあいつの前じゃ形無しさ。おたくの組で囲ったらどうだね」


「やだぁ、勘弁してよ」


 今度は吾妻が、りつ子が叩いたのとは反対側の上腕を指の先でパシリと(はた)いた。


 今日は好い酒が飲めそうだ。




〈 相喰む双蛇 了 〉

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