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骨董屋あらため  作者: 山路こいし
第一章 銀座綺譚
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五七 相喰む双蛇




「『いわた』は実にいい定食屋だな」


 恐ろしく精力的な半日を終え、少し寄り道をしてから銀座に戻った蛇川は、『がらん堂』で小さな竹籠と向き合っていた。面白がってついてきた吾妻が、目線でその言葉の真意を訊ねる。


「飯は美味いし店は清潔だし、女給以外は(やかま)しくない。それに鼠も手に入る」


「飯処に鼠が出て喜ぶ奴ァ、帝都広しといえども先生ぐらいのもんだよ」


 竹籠の中では、薄汚れた二十日鼠(ハツカネズミ)が鼻を突き上げて周囲を警戒している。数日前、出掛けに『いわた』に顔を出し、亭主に頼んで捕まえておいてもらったものだ。


「しかし、先生に小さき物を愛でる心があったとは」


「愛でる、愛でる。僕ほど小さき物を愛でる男が他にいるかね。こんな馳走も用意したくらいだ」


 適当に相槌を打ちながら、蛇川が箸で(ほぐ)しているのは甘辛く煮た魚の欠片である。サワラだ。これも『いわた』で分けてもらった。

 小皿の上ですっかり細かくしてしまうと、蛇川は懐からハンケチを取り出した。中に包んでいた小さな紙片を布越しに摘んで細かく砕き、粉状にすると、魚の肉に混ぜ込んでしまう。言うまでもなく、東雲(しののめ)邸から持ち帰った目録の切れ端だ。


 鹿皮の革手袋をハンケチの裏面で丁寧に拭い、なお念を入れて裏の水場で洗い清めてしまってから、蛇川は竹籠の蓋を開けて小皿を中に入れ込んだ。鼠がいっそう盛んに鼻をひくつかせる。

 やがて鼠が勢いよく魚を(むさぼ)り始めると、蛇川は玩具を手にした子供のように目を輝かせてその様を見守った。


 反応はすぐに現れた。

 夢中で鼻先を魚に(うず)めていた鼠が、前足でしきりに口元を掻くような仕草を見せだしたのだ。鼻や口が泡立った涎で汚れている。

 そのうちに、小さな体がビクビクと痙攣し始めた。横ざまに倒れ、苦しげに目を瞑って、四本の足をてんでバラバラに動かして踠いている。鼠はしばらく仰け反ったり、縮こまったりを繰り返していたが、ひときわ強く痙攣したのを境に急激に脱力していった。


「……死んじまった、のか?」


「ああ」


「さっき魚に混ぜたのは毒かい」


「ああ」


 天井を仰ぎ、ハァ……と蛇川が甘やかな息をついた。目を興奮に潤ませ、(まなじり)を赤く仄かに染めて、整然と並んだ睫毛を歓喜に震わせている。弛んだ唇の朱と、そこから覗く歯の白さとのゾッとするような対比。

 いっそ凄まじいまでの色香だ。これで無自覚なのだから嫌になる。


Quod Erat (クオド・エラト・ )Demonデモンstrandumストランダム


「なに?」吾妻がハッと我に返る。


「『かく示された』。証明終了だ。僕は寝る」


「なにぃ?!」


 言うが早いか、蛇川は卓子(テエブル)上の惨状からすっかり興味が失せたらしく、竹籠をそのままにして、ソファに長々と横になった。奥に自室があるのに、いつもここで眠るのだ。布団を敷くのが面倒くさいらしい。


 吾妻が呆れている間に、蛇川はもう早々と寝息を立てている。こうと決めると迷わず突き進む男であるし、そもそも、よほど疲れていたのだろう。あるいは、己の推理が間違いなく証明されたことに満足したものか。


 それにしても、だ。


「……猫だってここまで気儘にゃ振る舞わんぜ」


 鼠の死骸と、食い散らかされた毒餌を前に、吾妻は力なく肩を落とした。これ、俺が片付けないといけないわけ?



 ◆ ◆



 ――腹立たしいが、なかなかに充実した探索であったと認めざるを得ない。


 僕はまず駒込警察署を起点と定めた。

 花枝夫人は想像していた通りの世間知らずで正直者、そして想像よりも物事をよく観察する女だった。どちらも僕にとっては好都合に働いたよ。


 シケた面会室で、僕は最初に、花枝夫人が犯人でないことを確かめた。

 お前の寄越した悪趣味な封筒を試験紙的に用いたのだが、もし万が一、彼女の見せたあの戸惑いが芝居であったとしたら、僕は惜しみなく称賛の拍手をもって己の敗北を認めよう。本当にそうなら彼女は間違いなく帝都一の大女優だ。だがそうではないと確信している。


 彼女の証言から、東雲(しののめ)は半月ほど前から体調をひどく崩していたことが分かった。胃腸の不調、口中の(ただ)れはどちらも昇汞(しょうこう)が持つ蛋白質の変性作用による症状とみて矛盾はない。


 これにより、東雲を死に至らしめた毒が、あの夜一度に与えられたのではなく、本人の気付かぬところで少しずつ与えられ、徐々に体内に蓄積されていったものである可能性が浮上した。

 つまり、東雲が口に入れるあらゆる物に触れられる者全員が容疑者となったわけだ。警察がこの事実に辿り着いていれば、捜査はもっと複雑で困難なものとなっただろう。


 だが、僕はむしろこの可能性を合理的観点から歓迎した。一度にまとめて致死量の昇汞を与えることの無謀さを理解していたからだ。


 なにせ昇汞の即効性は極めて高い。一定量を飲んでしまえばすぐに死ぬ。つまり、被害者が毒物をいつ飲んだか、何に混入されていたかが容易に特定できてしまうわけだ。それを喜ぶ犯人はまずいまい。

 牛脂の塊に埋めでもすれば、効力を発揮するまで多少猶予を設けられるだろうが、食欲の失せた病人に脂の塊などはそれこそ毒だ。第一、塊ごと丸呑みせねば意味がないのだから、相手に気取られず飲ませることなど不可能だ。


 ならば、微量の毒を、毎日絶え間なく与え続けるためにはどうすればいい?


 もっとも単純なのは、食事や飲み物への継続的な混入だ。東雲家の炊事に関わる使用人ならば可能だろう。しかし、常に人の出入りがある台所で毒物を扱う危険性には留意せねばなるまいな。

 東雲家の主人が死に、その妻が第一級の容疑者として捕まることで、この家の使用人が得られる利益がほとんどない点にも言及しておきたい。浅薄(せんぱく)だが金払いはいい主人と、凡愚だが人が好く扱いやすい妻というのは、雇い主としては申し分ないのだから。


 それに、お前の思考をなぞるのは癪だが、わざわざこの事件を指定してきたお前がそんな単純な筋を用意するとも思えなかった。この一点だけを取っても、毒の混入場所は炊事場ではないと言い切っていいだろう。


 となると、使用人以外に触れる機会があり。

 かつ、なるたけ毎日東雲が手にする物こそ毒壺であったに違いないと僕は考えた。



 ここまでの思考は電流のような素早さで僕の脳内に走ったので、実際、ほとんど瞬間的にこう結論付けたのだが、僕は花枝夫人が話している間中、ずっとこのように思考を巡らせていたのだ。


 幾つもの可能性が現れては打ち消され、次第に物事が"これ以外にはあり得ない"という――つまり正しい道筋を明らかにしていく。これこそが推理だ。

 その作業は、小石だらけの砂浜が波に洗われ、本来の白く美しい姿を取り戻していく様にどこか似ている。頭脳労働の興味深い点はまさしくここだ。脳内の作業が合理的であればあるほど、その作業は自然の有り様と重なって感じられるのだ。


 とにかく、僕は常々こうした作業を反復して行っているので、情報を得るなり結論へと行き着いてしまう。

 その過程には必ずこうした思考があったはずなのだが、それに気を留めることは滅多にない。こんな風に改めて言葉で説明するのはなんとも寒々しい心地がするよ。



 さて、毒の混入経路だったな。


 新聞、本、日記、筆記用具、ドアノブなどがまず候補として考えられたが、僕は奴の蒐集品目録こそがそれだと直感した。目録は奴と、それを書く役目の者しか触り得ないし、東雲は目録を眺めて過ごすのが日課だという。実に都合が良いではないか。

 加えて、奴の右手指は身体の不調とほとんど同時期に荒れ始めたという。これ以上に示唆的な事実があるか?


 目録の頁に昇汞を薄く溶かした水を塗り付け、よく乾かす。乾けば昇汞は再び小さく結晶化してほとんど目立たない。

 あとは、何食わぬ顔で目録を東雲に渡し、奴の好きにさせておけばよい。


 愚かな東雲は、密かに仕込まれた悪意にも気付くことなく、毎夜蒐集品の来歴を眺めては悦に浸る。

 頁を繰るたび劇毒に触れて右手指が荒れる。

 荒れて乾いた指先ではうまく頁を繰ることができず、湿り気を与えようと指先を舐める――いや、奴には元々頁を繰る前に指を舐める悪癖があったそうだが、とにかく――


 これで、遠く離れた場所にいても……たとえば巴里(パリ)に遊んでいても、自動的に標的が弱り死んでいく殺人装置が完成したというわけだ。

 

 まんまと花枝夫人に罪をなすりつけて、画商の寺島とやらは、きっと今頃モンマルトルの(ふもと)三鞭酒(シャンパン)片手に高笑いしていることだろうよ。



 ここまで進めておいてなんだが、次は少々遡及的(そきゅうてき)に考えねばならない。


 先に方法が明らかになった。なら次は動機だ。

 長く付き合いのあった画商が、なぜ東雲を葬り去らねばならなくなったのかに思考を移そう。


 だが、答えはもう皿に乗せられているようなものだな。

 金で繋がった縁は金によって容易く切れる。

 つまり画商は、東雲に多額の金を支払わねばならぬ窮地に立たされていたはずなのだ。


 逆はあり得ない。東雲商会の事業は極めて堅調で、東雲が画商に支払いを渋る理由がどこにもないからだ。たとえ一時的に未払いが生じたとしても、東雲商会の業績と東雲自身の社会的地位を考えれば、この先も長く付き合った方が確実に実入りがいいと断言できる。

 つまり、支払いに窮していたのは画商の側でなければ筋が通らないのだ。


 だが、普通、金は東雲ら顧客から画商の側に流れる。

 これが逆流する可能性は極めて限定的――返金、あるいは賠償だ。


 画商の紹介だからと信頼して買った品物が、まるで価値のない三流品や贋作であった場合に、顧客が画商に返金を求めることは大して不思議ではない。画商の側に明確な悪意があったと分かれば刑事罰に問われる可能性もある。

 東雲と寺島の間にもこの騒ぎが起こった、あるいは近日中に起ころうとしていたことは想像に難くない。


 ここまでの思考に誤りがないのなら、東雲邸には必ず贋作があるはずだ。風が梔子(クチナシ)の香りを運んできたなら、その風上には必ず梔子の木がなくてはならぬ。

 この遡及的思考が正しいかどうかを確認すべく、僕は続けて東雲邸に足を運んだ。



 贋作はすぐに見つかったよ。

 あまりに堂々と応接間に飾られていたので笑いを堪えるのが大変だった。今回の探索でもっとも苦労した点がこれだな。


 黒田清輝の筆だと東雲は信じていたようだが、外光派初期の習作だったにせよ、あの絵の調色は明らかにまずかった。黒田があんな稚拙な色を画面に置くはずがないのだ。

 生のものから見出した色と、既存の色をただ真似ただけの色では、たとえ表面上は同じに見えても、その深みには天地の差がある。なぜなら後者には過程がないからだ。うん、今のはなかなかの金言だな。


 当然ながら、目録も確認した。

 書斎が施錠されていることを懸念して()()を懐に忍ばせて行ったが不要だったよ。まったく、警察も莫迦なら使用人も莫迦だ。あまりに不用心だ。あれほど確実な証拠もないのに……無能な警察め、押収もせず書斎に残したままとは情けない話だが、とにかく僕には好都合だった。


 書斎に忍び入って目録を見れば、果たして頁の隅には一度濡れて乾いた跡があった。軽く触れれば結晶状の粒も落ちてきた。

 この粒が間違いなく昇汞であることは、運の悪い二十日鼠が証明してくれたよ。



 贋作以外の可能性もいくつか頭に留めてはいたが、とにかくこれで、僕の推理は疑いようもなく固まった。


 美術に疎い東雲に高値で贋作を売り付け、不当に富を得ていた画商の寺島が、発覚の時が近いことを恐れて東雲を毒殺したのだ。


 蒐集家と画商の間に起きた裏切りと破滅。その装置として目録を選んだ物語性はなかなか憎いね。



 もしかすると、寺島は過去にも幾つか贋作を売り付けていたのやもしれんな。

 だいたい、世にあるどんな悪事も水端(みずはな)は実にささやかなものだと相場が決まっている。快楽殺人者も、人を殺す前には必ず犬猫を、そしてさらにその前には鳥や虫を殺して犯罪欲求を慰めているものだ。


 しかし悪意は時と共に膨らみ、より悪質に、大胆になっていく。

 最初は小金稼ぎで満足していたものが、数万円もの大作、いや大贋作を売り付けて一山当ててやろうという気になってくる。


 まさか、それが華々しく応接間に飾られることになるとは寺島も思わなかったのだろう。

 なにせその贋作は裸婦画なのだ。客を迎える場に裸の女の絵を飾るというのは、日本人的倫理観からは少々外れているからな。


 東雲家の者は主人から下男まで揃いも揃って美術(めくら)ときているが、客の中には正しい審美眼を備えた者もいよう。例の贋作が広く客の目に触れることとなって、寺島はさぞかし慌てただろうよ。

 加えて、東雲の周辺ではつい最近贋作騒動が起こったばかりだ。いつ東雲が贋作に気付くか、あるいは客の誰かがそれと注進するか知れたもんじゃない。画商の首には既に絞縄(こうじょう)が食い込みつつあったのだ。


 そうそう。

 贋作を売り付けるには、当然、それなりに腕のいい贋作家が仲間におらねばならぬ。


 お前はこの贋作家もうまく脚本に組み込んだな。ただでさえ無能な警察の目をさらに一層曇らせるために、東雲の手蹟()を真似た遺書を――花枝夫人に疑いの目を向けさせる贋物の遺書を、贋作家に作らせたのだ。

 果然、警察は喜び勇んで誤った道に進んでいったよ。日頃から東雲に苛烈な支配を受けており、東雲を憎む動機を有していた花枝夫人は"贖罪(しょくざい)の山羊"として実に都合が良かったわけだ。


 もし、警察がその怠けぶりを遺憾なく発揮し、遺書を見つけ得ぬまま捜査を終えたとしても、花枝夫人が昇汞を所持していたというその一点だけで、奴らは彼女を絞首台に立たせていたことだろう。



 だが、僕はあの善良で哀れな女を救ってやるつもりでいるよ。

 すぐに釈放してしまって画商の警戒心を呼び起こしてはならんので――巴里帰りの足でそのまま行方を眩ませられちゃあ困るからな、二ヶ月ほどは臭い飯を食ってもらうことになるが、(いわ)れなき罪で首を括られるよりはマシだろう。


 とにかく、僕のこの推理と、それを裏付ける明確な証拠……黒田の贋作と、昇汞水が染み込んだ例の目録とを持ち込んでやれば、愚鈍な警察もさすがに真実に気付くであろう。妻こそが犯人であると声高々に言ってしまった手前、すぐには過ちを認めようとせんかもしれんが、乗りかかった船だ、その時は存分に戦ってやろうではないか。僕という男を悪夢として彼奴等(きゃつら)の臓腑に刻み付けてやる。

 万一、奴の協力者が――(くだん)の贋作家などが目録を処分してしまっては少々面倒なので、あれは先に確保しておいた方がいいだろうな。



 以上。これが僕の一連の働きの成果だ。


 どうだ、真澄(ますみ)。これでお前は満足か?



 

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