五六 相喰む双蛇
駒込警察署を出るなり、蛇川は午睡明けの猫のようにゆったりと身体を伸ばした。関節を鳴らし、首を回して肘を持ち、いかにも気持ちよさそうに左右の体側を伸ばす蛇川を、立番の警官が薄目で眺めている。
実に清々しい心地だった。気力が総身に満ち満ちているのを感じる。
やはり、知的活動はいい。頭脳労働に没頭しているうちは、感情にかき乱されることもなければ雑念の入り込む余地もない。少女らが木桶で洗濯物をやっつけている屋上と湿っぽい面会室は、あらゆる意味で対極の位置にあるといえよう。
懐中時計の針はまだ十時を指している。
次は千駄木にある東雲邸に向かうとしよう。移動には市電が早い。折よくやって来た本郷方面行きの市電に飛び乗れば、揺られること十分余で――車内に染み付いた鯣と煙草のひどいにおいに耐えねばならなかったが――千駄木停留所に着いた。
谷根千は震災による被害をあまり受けなかったため、千駄木には今なお江戸の世を偲ばせる空気が色濃く漂っている。坂や路地が複雑に入り組んだ地形。坂の上のそこここに残る武家屋敷跡。
道々には木造二階建ての町屋や商家が建ち並び、帝大が近いからだろう、書生らしき青年が本を抱えてその前を駆けて行く。
かと思えば画家好みの瀟酒な洋館があり、しかし路地裏にはせせこましい長屋が軒を連ね、子供の繰る竹馬の音が響いているなど、銀座とはまた異なる混在文化の有り様を呈していた。
道行く人を掴まえて訊けば、東雲邸はすぐ見つかった。
外壁を白い化粧漆喰で波型に塗り固めたその洋館の周りには、遠巻きに建物を眺める野次馬が数人いたが、警察官は見当たらない。花枝を逮捕したことでこの件は落着、ということなのだろう。
電気式の呼び鈴を鳴らすと、五十手前と見られるごま塩頭の男が顔を出した。恐らくこれが武雄だろう。いかにも奉公人上がりといった感じで、愛想よくへつらうような表情を浮かべつつも、その目は素早く蛇川を品定めしている。
少し手間取るかとも思われたが、骨董屋と名乗ると存外簡単に招き入れられた。きっと、東雲急死の報を受け、その蒐集品を買い叩こうと揉み手してやって来た骨董屋がこの数日で何人もいたのだろう。あるいは隙のない蛇川の様相が武雄のお眼鏡にかなったものか。
邸内にはあちこちに美術品が飾られていたが、通された応接間はさらに絢爛たるものだった。
西洋の硝子器、駱駝を象った唐三彩、金箔をあしらった狩野派の屏風に、唐時代のものと見られる石仏の首。金襴のカーテンの下には希臘神話を題材にした青銅の像が揃いの土台に並べられていた。
「見事なものですな」
口先でそう述べているが、内心ではせせら嗤っている。
置かれた物には統一性も、物語性も何もない。優れた美意識のもとに構築された花川戸の屋敷とは大違いだ。花枝が語った「芸術に詳しくない」という東雲の評は正しかったようだ。
部屋の一番目立つ場所には大きな洋画が飾られていた。
描かれているのはなんと裸婦だ。朝の澄んだ光の中で、髪をまとめた西洋女がこちらに背を向けて裸体を晒している。
傍の台に手をつき、どこか物憂げに首を傾げて佇む女の姿には、ずっと見つめていれば動き出しそうなほどの生々しさがあった。
「黒田清輝ですか」
「さすが、お詳しいですなぁ。あたしのような年寄りにゃあさっぱり分かりやせん」
武雄を振り返り、蛇川が簡潔な笑みを浮かべる。
「近くで見ても?」
「もちろん構いやせん。しかし女中はこの絵を嫌がりますよ、あまりに肉肉しいもんだから」
「目のやり場に困ると言うなら、この絵も腰巻で覆ってやればよろしい」
黒田の描く裸体が問題視され、その展示に介入した警察が作品の一部を腰巻で覆ったという『腰巻事件』を皮肉って言った冗句だ。
しかし武雄は曖昧に笑ってはぐらかすに留まった。油断なく反応を窺っていた蛇川は、この下男もまた、美術への知見はないらしいと頭の中に書き付けた。
「……ま、国民性でしょうな。急激な西洋化と日本古来の道徳心とがまさに今せめぎ合っているわけです。しかし、女と蛸がまぐわう春画は喜ぶくせ、清浄な裸婦像は受け入れられぬという感性も僕からすれば不思議ですよ」
「ヘヘ、愉快なお方で」
軽口を叩きながら、蛇川は洋画の隅々にまで目を走らせている。
筆の運び、その息遣い、混色の技法や、光の表現方法まで。事細かに観察し、やがて得心に至ったものか、唇の端に薄く笑みを浮かべた。
他の調度品も見て回りながら、蛇川は武雄と雑談を交わした。
どれも他愛ない会話ばかりだ。寝て起きたら忘れてしまう程度の。まさか、その端々で巧みに情報を吸い取られていただなんて、武雄は夢にも思わなかっただろう。推論が徐々に確信へと近付いていく。
愛想のいい商売人の仮面を被ったまま、蛇川はにこりと品よく笑って見せた。
「さて! 本題に入りましょう。玄関口で申し上げた通り、僕は骨董屋なので、故人の蒐集した骨董品の査定において幾分お役に立てると思う。目録を作りますから、後で……ご長男ですかな、しかるべき方にお渡しいただければ」
「承知しやした。公平のために予めお伝えしやすが、査定は複数名に依頼してござんすので悪しからず」
「当然ですな。では、仕事に取り掛かる前にちょっと一服……あっと。これはまずい」
懐を探り、ハタハタと上衣を叩いていた蛇川だったが、眉を下げると少しはにかんだ様子で武雄を見上げた。
「肝心の火を忘れたらしい。マッチをお持ちだと嬉しいのですが」
「ああ! 分かりやした。生憎手元にゃありませんが、すぐに探して来ましょう」
「やあ、手間をかけます」
すまなそうな顔をしているが、その実、武雄に喫煙習慣がないことを衣服や指先から読み取ったうえで言っているのだ。
いかにも知的で品のいい青年のささやかな失敗は、武雄の目にむしろ好ましく映ったらしい。
しゃきしゃきと応接室を出ていく武雄をにこやかに見送っていた蛇川だったが、ドアが閉められるなり笑顔を消した。音も立てずに室を横切ってドアに取り付くと、外の様子に耳を集中させる。
やがて、武雄の足音が階段を降りていくのを確認するなり細くドアを開け、他に使用人のいないことを確かめてから、静かに廊下へと滑り出た。左右に素早く目を配り、お目当ての部屋――東雲の書斎へと足を急がせる。
ドアが施錠されている可能性を心配していたが、しかしそれは杞憂に終わった。真鍮のドアノブは求めに応じて軽やかに動き、蛇川を書斎へと招き入れる。まるで、真相を暴く賢人の訪れを歓迎しているかのようだ。
蛇川の鋭敏な嗅覚はかすかに残された吐瀉物の臭いを嗅ぎ取ったが、それ以外には特筆すべきところもない、程よく整理されたただの書斎だ。デスクへと大股に歩み寄ると、果たして目録はそこにあった。
表紙を捲れば、どの頁にも、蒐集品の名称や来歴などが筆でズラリと書き付けられている。一読の価値はありそうな目録だったが、しかし時間がない。今見るべきは内容ではなく頁そのものだ。
予想通り、どの頁も右隅がわずかにこわばっているのを認め、蛇川は小さく歓喜の声を上げた。
「……Eureka!」
我、発見せり。こわばりの部分を指で撫でると、よくよく注意しなければ気付かないほど微かに、だが確かに白っぽい粉が薄く舞った。
まず間違いなく、これこそが東雲を死に至らしめたものだ。
ひと舐めするだけで身体を蝕む激毒。しかし、蛇川の顔には宝物を見つけた子供のように無邪気な笑顔が浮かんでいた。
マッチを持って武雄が戻ると、麗しの骨董屋は応接間から忽然と姿を消していた。
出来のいい下男はすぐに物盗りの可能性を考えて応接間中の美術品・貴重品の類を確認して回ったが、何も持ち去られた痕跡はない(その間に、書斎に潜んでいた蛇川は堂々と表玄関から東雲邸を辞していたのだが)。
首を捻りつつ、念のため他の部屋の美術品類も見て回ったが、やはり盗られた物はひとつもなかった。物盗りの類いではないらしい。
きっと、あまりに高価な品々を前にして、己の手には余ると尻込みして逃げ出したのだろう。そうした手合いは何も彼が初めてではない。
そう結論づけ、警察に報せることもせずうっちゃっておいたのだが、書斎に置かれた蒐集品目録の頁の端が二、三片ほどちぎり取られていることにはついぞ気付かなかった。




