表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
骨董屋あらため  作者: 山路こいし
第一章 銀座綺譚
55/58

五五 相喰む双蛇




「単刀直入に申し上げる。奥さん、僕はこの事件の真相を知りたい。別に親切心でやるわけじゃないが、多分、僕の働きはあなたの利益にも繋がるでしょう。だから隠し事はせず、全て正直に答えてほしい。いいですね?」


 早口で(まく)し立てる蛇川に、花枝はまごついた。当然の反応だろう。


「あの、えっと……山岡さん?」


「蛇川だ。偽名を使わせてもらいました」


「蛇川……さん。珍しいお名前。骨董屋さんというのも嘘なのかしら」


 状況を呑み込めないせいもあるだろうが、あまりに暢気な花枝の反応に蛇川は呆れてため息をついた。

 確か、彼女は巨大運送業者の役員の娘、つまりは金持ちの世間知らずだ。普段の蛇川ならばすぐさま怒鳴りつけていただろうが、怯えさせて話を聞き出せなくなっては困る。ここは堪えどころだ。


「奥さん、とにかく時間がない。無駄話をしている余裕はありません。面会時間はたったの一五分、一般面会は一日一組と決められている。今回は運良く()()の効く巡査が付き添いでしたが……」


 蛇川はチラとドアに視線を向けた。覗き窓から、窓を隠すようにして廊下に立つ巡査の後頭部が見えている。面会室に通される際に握らせた二〇円札の効力は抜群だ。


「毎度うまくいくとは限らない。警察官も全員が全員腐り切っているわけじゃあありませんからな。だからこの時間はとても貴重なわけです。

 最初に確認しておきますが、あなた、本当に東雲(しののめ)氏を殺しちゃいないんですな?」


 蛇川の語気に圧されたか、花枝はしばらく目を白黒させていたが、やがておずおずと首肯(うなず)いた。


「……ひとまず信じましょう。新聞には長年にわたる夫の肉体的、精神的暴力に耐えかねての犯行とありましたが、その支配自体は事実ですか?」


「あのぅ……」


 目を伏せ、苛立ちを押し留めるように顔の前で人差し指を立てて、蛇川は花枝の戸惑いを遮った。


「家の恥や体面など、もはや考えなくてよろしい。主人(あるじ)が殺され、その妻が容疑者として捕らえられる以上の悪名がありますか。重要なのは事実だ。支配はあったのか、なかったのか」


「……はい。夫は大変気難しい人で……その……(わたくし)がこんな性格なのがいけないんでしょうけれど」


「反省の弁は後日ご随意に。時間ならたっぷりあるでしょうから。あなたは猛毒の昇汞(しょうこう)を所持していた。なぜです?」


「ほ、本郷の家には百足がたくさん出るんです。私、あの生き物がどうしても苦手で……足がありすぎるのも、まるでないのも不気味でしょう。生き物の(ことわり)から外れているようで」


「僕と相性が悪いわけです」


 ()川は鼻を鳴らして嗤った。


「虫の駆除など下男に任せりゃいいでしょう。なのになぜ、わざわざあなた自身が昇汞を? 警察もそこを不審がったでしょうに」


「ええと……その、下男の武雄(たけお)は元々東雲の家に仕えてきた者ですから。夫に言いつけられた用事が最優先なんです。近しい男手は彼ぐらいのもので……かといって女中は虫を怖がって近付きませんし……いっそ自分で、と。へ、変でしょうか」


「変ですな。町娘ならともかく、深層のご令嬢が自ら害虫を駆除しようだなんて、普通思わない。あなた、機会さえあれば()()()()で使う気でいたんじゃないか?」


 花枝の白い指が惑うように帯の縁をまさぐった。

 分かりやすい女だ。それに、妙に加虐心をくすぐる。


「……ま、今はよろしい。あなたを苛めている暇などありませんからな。

 もうひとつ、あなたが此処にぶち込まれる羽目になった決定的な証拠に話を移しましょう。東雲氏の遺書です。もし自分の身に何かあれば、それは妻の仕業であると――健全な夫婦の間に遺された遺書にしては、まあ、少々剣呑ですな。遺書は抽斗(ひきだし)の裏に隠されていたそうですが、そんな言葉を遺される心当たりは?」


 蛇川の言葉に、花枝はワッと声を上げて長机に突っ伏した。涙や洟水を飛ばされてはかなわんと、蛇川が軽く仰け反って距離を取る。


「ありません! 私……ずっとずっとあの人に尽くしてきました。ぬかり者なので大してお役には立てませんでしたが、それでも、一八の頃からずっと……」


「はあ、一八で。となると今年は銀婚式ですか」


「はい。秋には帝国ホテルで銀婚式をやる予定でおりました。私は小石川植物園が良かったのですが……初めてあの人と歩いた思い出の場所ですから。でも、そんなしみったれた所で出来るものか、と一笑に付されてしまいましたわ」


 花枝夫人は少し悲しそうに微笑んで見せた。四十三という年齢にしては若く見えるが、目元には(かげ)が憩っている。


「よく分かりました。しかし、筆跡鑑定人は『十中八九東雲氏の手蹟()である』と結論を出したそうですな。実に興味深い。

 では、事件当日……東雲氏が亡くなった日の事を話していただけますか。正確に、思い出せる限り細かく。瑣末に思えることであっても、あなたの判断で勝手に省略せぬようお願いしますよ」


 蛇川の求めに応じて花枝が語るところによると、その日は一日雨だったという。



 ◆ ◆



 日がな藤の雨が降っておりました。

 本郷の家には藤棚があって、今の季節は野田藤が見頃なのですが、雨で花弁が散ってしまいやしないかと心配したことを覚えております。


 あの人は朝から新橋にある東京美術倶楽部に出掛けておりました。西洋画の競りがあるとかで。

 いつもは寺島という馴染みの画商と連れ立って行くのですが……なにせ主人は蒐集が趣味なだけで芸術に詳しいわけではありませんから……でも、寺島さんは巴里(パリ)にいたため珍しく一人で出掛けました。ええ、巴里です。現地で絵画をたくさん買い付けて、それを国内の蒐集家に売って回るのです。


 夕方になってから帰宅した主人は、お酒を召し上がって随分と上機嫌でした。蒐集家仲間の一人がついに逮捕されたぞ、あの愚か者め、ついにやりやがったと大笑いなさってらして。


 春先でしたでしょうか。贋作騒動があったのですよ。逮捕された方というのは、その騒動の被害者でした。

 大金で競り落とした絵画が贋作であると分かり、酷く気落ちなさってらした方で。会にもめっきり顔を出さなくなってしまったそうなんですが、長い無気力を経て怒りがついに溢れ出したのでしょうか。突然狂ったように喚き散らして……日本刀を振り回し、止めに入った知人と下男を斬り殺してしまったそうですの。


 競りの後で行われた茶会はその話題で持ちきりだったそうですわ。同情や哀れみを向けるわけでも、人を殺めたことに怒るわけでもなく、単なる嗤い話として。贋作を掴まされるのは蒐集家の恥であると。そのうえ人を殺して捕まるとは何事か、と。

 私……そんな恐ろしい話を滑稽そうに語るあの人が怖かった。


 ただ、このところ主人はひどく具合が悪かったので、元気そうな姿を見て少しばかり安心しました。え? ……ええと、半月ほどでしょうか。胃の調子が悪いだとか、口の中が痛むだとかで、食欲もほとんど。

 でもお酒だけはしっかり飲むんです。大酒飲みなんですの。東雲商会は俺の飲みっぷりででかくなったんだ、と言うのがあの人お決まりの笑い話でした。だから死ぬまで辞めないんだと。最近はなんだかお顔も黄ばんで見えたので、いよいよ良くないとお医者先生にもお酒を控えるよう勧められていたのですが……


 その後主人は書斎に篭もりました。いつものことです。蒐集品の目録を眺めるのが日課なんですの。その日はいつもよりずっと長く篭もっているようでした。競りの興奮が残っていたのかもしれません。


 夜の八時頃になって、いつものように、舶来ウヰスキーとアスピリンを載せた盆を書斎に運びました。ええ、私が。一八で嫁入りした時からそうしております。若い頃、あの人はとにかく忙しく飛び回ってらしたから、せめて、盆を運んで行ったひと時だけは夫婦でゆっくり言葉を交わそうと……

 あの人が言い出したんですよ。すごく嬉しかった。あの人はもう、すっかり忘れちゃったでしょうけれど。


 あの人はウヰスキーでアスピリンをグイと流し込んで、寺島は次いつ帰る、と(たず)ねました。私は、さあ、いつもの調子なら二月(ふたつき)は巴里じゃないですかと、確かそのように答えました。なんだか様子がおかしかったので、どうかなさいましたか?とも訊ねました。女には関係ないことだ、と突っぱねられてしまいましたけれど。

 前に寺島さんがいらした時期ですか? 一ヶ月は前じゃないかしら。その後すぐに船でお発ちになられたかと。帝都にいる間は五日と置かずに訪ねて来ますが、さすがに巴里にいらしては、ねえ。


 そこから書斎には近付いておりません。途中、武雄が何度か書斎に入ったようですが、きっとウヰスキーのお代わりを頼まれたのでしょう。


 夜の一〇時を過ぎた頃でしょうか。床に入る前の身支度を済ませていた時に、書斎から大きな音がしたんです。何か重たい物が倒れたような……。

 ノックしたんですが返事がなくて、それで、ドアを開けてみたら……主人が床に倒れて(もが)いていたんです。隣に椅子が倒れて、その脇にウヰスキーのグラスが転がっておりました。硝子が厚いグラスだったので割れてはおりませんでした。


 私、何かを喉に詰まらせたんだと思って……でもどうすればいいか分からなくって……ただただ大声で叫んでおりましたら、武雄が駆け付けてくれました。

 あれはしっかりした男ですので、すぐに女中達を叩き起こしてお医者先生を呼びに走らせまして、そのうち、苦しみ方が尋常じゃないとのことで近くの派出所にも人を遣りました。


 私はぼんやり見ていることしかできなかった。

 ただ、あの人はもう助からないだろうって……非道い女ね、私。どこか冷めた気持ちで考えておりました。あの人の顎が、吐いたものでテラテラと光っていて……



 ◆ ◆



「……思い出せるのはこんな所です。警察の人は、私がアスピリンに昇汞を混ぜて飲ませたに違いないと思っておられるようで、怒鳴ったり、猫撫で声を出したりして認めさせようとなさっていますが、私は決してそんなことをしておりません。実際、私は昇汞を買い求めはしましたが、封を開けてもいないのですから。

 でも、警察の人は、封を破ってないように見せかけて少量だけ取り出したんだ、なにせひと舐めで十分事足りるんだから、と言って取り合ってくれないんです」


 蛇川は薄く目蓋を伏せて聞き入っていたが、ツイと顎を上げると満面に笑みを浮かべた。

 なんと恐るべき破壊力を持った笑顔だろう。湿った木のにおいが、蛇川の纏う白檀の香りで神々しく上書きされていくようだ。見惚れている場合じゃないと分かりつつも、花枝はたまらず胸を押さえた。


「結構! あなたは僕の予想よりずっといい観察眼をお持ちのようだ。これは嬉しい誤算だった。お蔭で随分と助かりましたよ。他に何か思い出せること、いつもと違ったことはありましたか?」


「いつもと違う……あっ」


 蛇川が目だけで先を促す。


「あの、どうでもいいことかもしれませんが」


「一見そう思われがちな事こそ肝要です。どうぞ」


「アスピリンと一緒に軟膏を持って行きました。相馬という薬売りが置いていった健栄軟膏です。このところ、どうも指先が荒れてかなわんからと」


「荒れた指は両手? ははぁ、右手だけ。親指と人差し指がことさら酷かったと。なるほど。それは実に示唆的だ!」


 蛇川は興奮したように立ち上がると、革手袋の両手を口元で擦り合わせながら、狭い面会室の中を行ったり来たりし始めた。なにせ脚が長いので、大きく三、四歩も進めばすぐに壁に打つかるのに、器用に方向を変えて歩き続けている。

 やがて手をパチンと叩くと、また恐るべき早口で捲し立て始めた。そのため、花枝は大急ぎで首を縦に振るか横に振るかして質問に答えねばならなかった。


「指が荒れ始めたのはこの一ヶ月のうちですか? よろしい。ご主人は読書家ですか? 違う。日記を書く習慣は――それもない。なるほど。だったら目録である可能性が高いな。奴もそれを好みそうだ。

 ご存知であればで構わないが、目録は押収されましたか? ……されてない! それは僥倖だ! ハハハ、なんと無能な警察だろう! ハハハハ! 僕にとってはありがたいが、世間にとっちゃ不幸だな。


 いや失敬。では最後にもうひとつ。これは僕の推測だが、東雲氏には(ページ)を繰る時に指を舐める悪癖がありますね?」


 半ば呆けながら、花枝はコクコクと首肯いた。


 蛇川は手早く荷物を纏めてしまうと右手をスッと差し出した。おっかなびっくり花枝がその手を取ると、女性に対するには少し強すぎる力で握り返された。


「いい時間でした。どうもありがとう。うまく運べば、もう二度と顔を合わせることはないでしょう」


 無遠慮な握手だった。きっと、彼の頭の中では目まぐるしく知性の爆発が起きており、その快感が彼から配慮の余地を奪い去っているのだろう。


「御礼代わりにひとつアドヴァイス。警察の追及は日毎苛烈になるでしょうが、やってないのなら決して認めぬことです。たとえ無理強いされたものであれ、自白は間違いなくあなたの足を絞架(こうか)の一段目に運ぶことになる。


 しかし、僕には少々厄介な性質がありましてね」と蛇川が言葉を繋ぐ。


「気になったことは、どうしても確かめねば気が済まないのだ。

 それでいくと、奥さん。あなたがわざわざ買い求めた昇汞が、()()()()()()()()保管されてるというのが、僕にはどうも不思議でならんのですよ」


 晩春から初夏にかけては百足の産卵期です。握ったままの花枝の手をグイと引き寄せ、耳元で囁くように蛇川は続けた。

 湿った吐息が耳朶をくすぐる。その語る内容は花枝の肝を冷えさせるのに、甘い蜜のような声が、上質な酔いをもたらす酒精にも似た吐息が、花枝の脳を痺れさせる。


「昇汞は百足を駆除するために買い求めたのでしょう? なのになぜ、もっとも百足が活発に這い回るこの時期に……あなたは封を開けようともせず、後生大事に昇汞を取っておられたのか」


 その時、面会室のドアが前触れもなく開けられ、付き添いの巡査が「時間だ」とぶっきらぼうに告げた。


 サッと右手を離した蛇川は、背広のボタンを留めながら小ざっぱりとした笑顔を見せた。


「どうやらここまでのようです。奥さんにとっちゃエウアンゲリオン(福音)だったかもしれませんな。ではご機嫌よう」



 

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ