五四 相喰む双蛇
その後、蛇川は再び気怠い眠りの中に落ちた。
次に目覚めた時には、身体も頭も随分軽くなっていた。
水をたっぷり飲んだおかげだろうか。あるいは、ずっと心の奥底に澱んでいたものを初めて人に打ち明けたためか。
吾妻の姿は既になかった。あの男の懐の広さは、時に後悔の種になる。
ソファに横たえた身体には広げた絣が掛けられていて、仄かに太陽の匂いがする。寝ている間にりつ子が来たのだろう。意外にも、その柔らかな匂いは今の蛇川には確かな慰めとなった。
卓子には木の岡持ちが置かれている。いつもは『いわた』で余った惣菜を届ける時に用いられるものだが、丸蓋を取ると、柔らかく炊いた米に梅干し、胡瓜の漬物と、しじみの味噌汁が入っていた。
ありがたい。どれもすっかり冷え切っていたが、しかし朝から何も食っていない腹に優しく沁みわたる美味さだった。
少し、喋りすぎたかもしれない。
漬物を齧りながら、蛇川は苦々しげに顔を歪めた。
真澄のことは、いずれ自分の手で決着をつけたい思いがあった。それで吾妻を牽制する目的もあって話したのだが、まさか弱音を吐いてしまうとは。
吾妻のことだ、蟒蛇様の正体を口外するような無作法はしないだろうが、もし気遣わしげな素振りでも見せようものなら今度こそ本当に尻を蹴り飛ばしてやる。
柱時計の針は二時過ぎを指していた。深夜だ。くず子も街も、深い眠りに就いている。
しかしもう動き出さねばなるまい。なにせ期限は三日後だ。すでに半日を酒で不意にしている。
「……よしっ」
勢いよく両頬をはたくと、手始めに、蛇川は真澄から送り付けられてきた新聞記事を手に取った。
千駄木に毒禍 東雲商會社長急逝
夫人發見 警視廳困惑す
一六日夜一〇時頃、東京市本鄕區千駄木町に居を構へたる東雲商會社長、東雲忠一郞氏(五十二) が、自邸書斎に於いて急死してゐるのを妻花枝(四十三) が發見、驚き慄いて寢てゐた下男を叩き起こし、駒込署に急報させるも、氏は既に事切れてゐたといふ。
檢視の結果、氏の體内より毒物らしき反應を認め、警視廳は他殺・自殺兩樣の線より搜査を進めゐるも、屋敷內に爭ひの蹟なく、また服毒に用ひられた容器も未だ見當たらざることから、事件の眞相は杳として知れず。
東雲商會は纖維貿易にて知られ、氏は商界に重きを成す人物であり、近年は海外取引にも力を注ぎつゝあるをりのことで、……
他に購読している四紙を確かめてもみたが、内容はどれもほとんど同じだった。
その後も東雲社長の変死はさまざまな憶測と共に紙面を賑わせていたが、二日前の続報で事態は急転を迎える。用いられた毒物が昇汞(塩化第二水銀)であることが判明し、それを所持していた妻の花枝が逮捕されたのだ。
花枝は殺虫剤として昇汞を購入したと供述したが、警察には苦し紛れの戯言にしか聞こえなかった。警察はとうに確たる証拠を掴んでいたからだ。
それは、殺された東雲の書斎に隠された一枚の便箋――『若シ我、不審ノ死ヲ遂グルコトアラバ、其ノ元凶ハ必ズヤ花枝ニ相違ナシ』と書き付けられた、東雲の手蹟による遺書である。
花枝は即日逮捕され、駒込警察署に勾留されて厳しい取り調べを受けることとなった。
記事には、事件を指揮する某警部補の「自白は時間の問題である、類い稀なる凶行であったが、よく訓練された我々の目を欺くことは不可能だ」との力強い言葉も添えられていた。その字面からも、早期解決を果たして得意満面な荒い鼻息が感じられるようだ。
蛇川は冷笑を浮かべて新聞を折り畳んだ。
真澄がこの事件を、それもわざわざ続報が出るのを待って指定してきたということは、この警部補殿は見事に欺かれているということに他ならない。
空になった丼を岡持ちにしまい、蛇川は『毒物大全』と書かれた厚い背表紙の本を取り出した。洋燈を引き寄せ、「昇汞」の欄を当たる。
昇汞、または塩化第二水銀。化学式はHgCl2。
水溶性の無色または白色の針状結晶であり、昇華しやすい性質を有する。猛毒。
殺虫剤や消毒液、またキャメラの現像液としても用いられるが、強力な腐食性、蛋白質の変性作用を有するため取り扱いには厳重に注意すべし。昇汞を溶かした昇汞水にも強い毒性があり、一滴飲むだけで生命に関わる。云々。
蛇川は手を休めない。
続いては東雲家への取り入り方だ。吾妻に助力を請えば、彼の"お友達"が警察署へでも事件現場の自宅へでも手引きしてくれただろうが、今回に関しては蛇川の手で解決せねばならない。真澄から指定されたわけではないが、ケジメとしてそうしたかった。
東雲商会ほど名の売れた大企業の社長であれば、存命中、社会面にも何度か登場したはずだ。そこに何か取っ掛かりがあるやもしれぬ。
目と指を素早く紙面中に走らせ、驚くべき速度で新聞の山を築き上げていた蛇川だったが、ある記事に目を留めると唇を歪めた。
「……舐めやがって」
そこには、ミレエの油彩画を前に頬を紅潮させて(写真は白黒だが、明らかにそうだ)立つ東雲忠一郎の写真と共に、『ミレエの農民畫 東雲氏落札 お値段ナント二萬圓』との見出しが踊っていた。詳細を読めば、東雲は美術品や骨董品の熱心な蒐集家というではないか。
◆ ◆
駒込署二階の面会室に現れた花枝は、夫の喪に服しているところを引っ張ってこられたのだろう、黒無地の着物に鼠の羽織という出立ちでいた。しかし帯紐や簪は自傷を防ぐべく全て押収されており、衣服には皺と汗染みが目立っている。きっと、二日前の拘留から着替えも許されていないのだろう。顔に塗った白粉はよれて崩れ、頬には涙の跡が見えた。
腰縄を許されているのは、大商会の社長夫人という身分を考慮してのことか。しかし、その窶れた姿は十分すぎるほどに哀れだった。
「やあ、奥さん! いや、朝一番にすみませんね。いろいろと大変でしょうが、こちらも目録を確認せにゃ主人にドヤされる身でして、まったく」
六畳ほどしかない板張りの面会室に足を踏み入れ、木椅子におずおずと座りながら、花枝は面食らったように目の前の男を見つめた。
なんと美しい男だろう。間違いなく、黴びた木と消毒液のにおいが漂う面会室には不釣り合いだ。
しかし面識はない。愛想のいい笑みで親しげに話しかけてきてはいるが、花枝はこの男に一切見覚えがなかった。面会簿には「山岡」と記されているが……
いつもなら花枝を連れてきたまま面会室内で控えているはずの巡査が、俯向きがちに部屋を出て、ドアの覗き窓を隠すようにして廊下に立ったことで、花枝はいっそう困惑を深めた。
「あの、骨董屋さんとお伺いしましたが、生憎、私は主人の蒐集品には詳しくありませんで……」
「ああ、構いませんよ! あなたに確認いただきたいのはこの一点だけでしてね」
そう言って、男が長机に置いた帳簿を開いた。そこには真紅の封筒が挟まれていた。
封筒を見つめる花枝を、蛇川の灰褐色の瞳が凝と観察する。その目はどんなわずかな変化も見逃さない。瞳孔の開き、小鼻の膨らみ、呼吸の変化に、発汗の有無まで。
動揺は――ない。ただ戸惑いがあるばかりだ。
「あの……この封筒が何か?」
途端に、蛇川は愛想のいい商売人の仮面を脱ぎ捨てた。
「よろしい! 真実知らないようだ。となると奥さん、あなた、まんまと嵌められましたな」




