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骨董屋あらため  作者: 山路こいし
第一章 銀座綺譚
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五二 相喰む双蛇




 女が濡れ縁に座っている。

 その目は一本の百日紅(さるすべり)以外には見所もない侘しい庭を向いているが、風に揺れる葉を愛でるでもなく、ただ腹に手を添えたまま、焦点を結ばぬ瞳でどこか遠くを見つめていた。


 くすんだ洗柿(あらいがき)色の単衣を着ているせいだろうか、あるいは女の心がここにないためか。その輪郭は陽炎のように頼りなく揺らめいて見えた。まるで、此の世と()の世の境目を揺蕩(たゆた)っているかのごとくあえかな……


 今にも陽光に溶けて滲んでしまいそうな、風が吹けばかき消えてしまいそうなほどに痩せ細った肩を、小さな手が優しく揺する。


 ――(かか)様。


 しかし女からの反応はない。ただ、乾いて割れた唇を小さく動かして何かを繰り返し呟いている。


 ――ますみ。可愛いますみ。


 その名を呼ばわる時だけ、女の顔がかすかに微笑みの形を作った。


 ――早く会いたいね、ますみ。(とと)様は男児以外認めぬとおっしゃるけれど……


 そう呟きながら愛おしげに腹に手を這わせているが、その腹は少しも膨らんでいない。


 ――どんな子だっていいんだよ。ただ元気に産声を上げてくれさえすれば。だから安心して産まれておいで、ねえ、ますみ。


 平坦な腹を、何も宿ってはいない腹を、しかし女は何度も優しく撫でさすった。細く枯れた手で、何度も、何度も。幼子の湿った手が肩に添えられていることなど、まるで意にも介していないようだ。


 ――母様、ますみはここですよ。ここにおりますよ。


 あどけない声が震え、小さな手に涙の粒が落ちる。しかし女は視線もくれない。女の愛は(から)の腹にのみ向けられている。


 ――母様、こっちを向いて……僕を見てよ、ねえ。


 俯向き、ポロポロと涙をこぼしながら母親を揺する。だが、女の細い身体は無抵抗に揺れるばかりだ。


 いつもこうだ。母の温かな眼差しが自分に向けられたことなど一度もない。母の目はいつだって自分ではなく過去を見つめ、母の手は自分ではなく空となった腹をさする。


 その手は、眼差しは、言葉は、どれほどに柔らかく、甘やかなことだろう。

 ほしい。母の愛を、一度でいいから全身に浴びてみたい。あの温かさに触れてみたい……


 無駄と知りながら、それでも、揺する以外に己の存在を伝える術を知らない幼子だったが。

 不意に、いつもと違う手応えを感じて顔を上げた。汚れを知らない涙の粒が、続けてふた粒、丸みを帯びた顎から零れ落ちる。


 母親が、こちらを見つめている。


 愛らしい唇が、母様、と希望に満ちた声で母を呼んだ。

 窪んだ昏い目には光が灯っていなかったが、母が見せた初めての反応だった。ついに、ついに自分の声が母に届いたのだ。


 しかし、力なく開けられた母の口から漏れ出たのは、ゾッとするほど低く、軋み、掠れきった怨嗟の声……



 ――お前など要らない。忌まわしい、畜生の子め。



 ◆ ◆



 見慣れた格子梁が目に飛び込んできて、蛇川はソファの上で安堵の息をついた。無意識に爪を立てていた左胸の奥で、心臓が暴れ狂っている。


 どうやら帰巣本能が働いたらしい。

 一度、客だったか女給だったか、とにかく、バーで声をかけてきた女に半ば無理やり連れ込まれた湿っぽい部屋で請われるまま乱暴に女を抱き、そのまま眠ってしまった事があったが、あれは最低な経験だった。なぜ抱いたかも定かでない女が、はだけた浴衣からこぼれた乳房を己の腕に押し付け、だらしなく(いびき)をかいているのに気付いた時の嫌悪感たるや……


 鈍い頭痛に顔を顰めながら首を巡らせると、卓子(テエブル)の上に水の入ったグラスと水差しが置かれてあった。くず子だろうか。みっともない姿を見せてしまった。後で詫びねばなるまい。


「やっと起きたか。二度ほど諦めようかと思ったが」


 水で喉を潤していると、聞き慣れた声が降ってきた。吾妻だ。女物の長着を身に纏ってはいるが、他に人もいないため()が出ている。


「命拾いしたな。あまりにいい顔で寝てるもんだから、写真屋を呼んで記念に一枚撮ってもらうか、顔に落書きでもしてやろうって、くず子ちゃんと話してたとこだったんだ」


「……くず子さんは?」


「奥にいかせたよ。子供にゃ聞かせたくない話だもんで」


 言いながら、吾妻が紅い封筒を差し出す。チラと目を向けた蛇川が鼻に皺を寄せた。


「盗ったな」


「俺ァ先生を信頼してるからよ、勝手に中を見るような真似はしちゃいねえ。先生の口から説明してほしい」


「見ての通り、趣味の悪い封筒さ」


「とぼける気かい、そりゃお勧めしないぜ。こいつは『蟒蛇(うわばみ)様』の封筒だろう。お前さん、蟒蛇様と繋がりがあったのか?」


 目に剣呑な光を宿す吾妻をよそに、蛇川は手を打って喜んだ。


「『蟒蛇様』! ハハハ! そう呼ばれているのか、ハァ……うっぷ。蟒蛇様ねえ。そりゃ傑作」


「参ったなあ。先生、俺ァふざけてる訳じゃないんだぜ。その調子でやられちゃ困るよ」


 くつくつと喉を鳴らす蛇川に、吾妻は額に手を当てた。


 どうにも様子がおかしい。酒のせいもあるだろうが、妙に気が昂ぶっているように感じる。

 激情家の蛇川だ、笑いながら怒鳴り散らすことなど珍しくもないが、今日の蛇川の顔にはあまりに多様な感情が渦巻いていた。怒り、嘲笑、苛立ち、嫌悪に自責、それに……これは、もしかして怯えだろうか?


 これ以上蛇川を刺激せぬよう、吾妻はつとめて静かな声で続けた。


「蟒蛇様は帝都に混乱を招きかねん存在だ。繋がりがあるならお前さんだって知ってるんだろ、殺しの手解きをしてるって話じゃねえか。俺だって清廉潔白とはとても言えた身じゃねえが、とはいえ、あまり暴力を愉快がるのもどうかと思うわけよ。

 だがいくら調べても尻尾すら掴めねえ。この封筒が蟒蛇様の象徴だってこと以外、その連絡手段も、どこを根城にしているのかも……」


「花川戸だ。花川戸に住む僕の弟だ」


「はぁ。先生の弟」


 吾妻は大きな拳を口に押し当てたまま黙り込んだ。緩慢な動きでグラスに手を伸ばしながら、欠伸混じりに蛇川がぼやく。


「あ。言うと余計に面倒だったやもしれん。いかんな、まだ酔ってる」


 そのまま、蛇川がグラスを空にし、優雅な手付きで水差しから水を注ぎ、手持ち無沙汰にクルクルとグラスを回して、仕方なくもうひと口水を飲むまで身動ぎもせずに固まっていた吾妻だった。が、


「弟ォ!?」


「莫迦ッ、大きな声を出すな! 頭に響く」


「弟ってあんた……弟だと!?」


 だからそう言っただろ。口をパクパクと動かして言葉を探す吾妻と対照的に、どこまでもぶっきらぼうに蛇川が吐き捨てる。

 いつもの酷薄さを取り戻した蛇川の顔を見つめ、口元を引き攣らせていた吾妻だったが、やがてようよう言葉を紡いだ。


「弟……そうか、弟ね。あまりに唐突だもんで面食らっちまったが、そりゃ、先生にも家族がいらあな。うん、そりゃそうだ。弟がいたっておかしくない」


「人を木の股から産まれでもしたかのように言いやがって。忘れてもらって構いませんよ」


「いやいやいや。しかし意外だなあ。弟かい。つまりあなた、兄さんなわけ。へえ。ふうん。いや、想像もできんが……ああそう。ふうん。『蛇』の弟が『蟒蛇様』たぁ、なるほど確かに傑作……」


 少し強張った笑みを浮かべ、半ば無意識に煙草入れを取り出した吾妻だったが(『がらん堂』での喫煙は固く禁じられている)、半端に腕を上げたまま再び硬直してしまった。その手から桐のマッチ入れが滑り落ちたが見向きもしない。


 ぜんまいばねの錆びた絡繰(からくり)人形でも見ているかのようだ。ため息をつき、グラスを卓子に戻した蛇川は、ソファに仰向けになると両耳を塞いで()()()に備えた。


 たっぷりの間を置いてから、吾妻の尖った喉仏がゴクリと一度上下する。

 かと思うと、鍛え抜かれた厚い胸板が音を立てて大きく膨らんだ。


「蟒蛇様が、先生の弟だとォッ!?」


五月蝿(うるさ)いッッ!」



 

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