五一 相喰む双蛇
数刻後、定食屋『いわた』の障子戸にぶつかりながら派手に入店した蛇川は、へべれけで足元も覚束ない様相だった。血の気の失せた顔は白というより青に近い。
「酒だ! 冷やをくれ」
心得た様子で、亭主がカウンターにぐい呑みを置く。
並々と注がれているのは少量の酒粕を溶いただけの水だ。しかし一息に飲み干した蛇川はそれにも気付かぬ様子で、「お代わり!」と喚いた。亭主がまた静かに水を注いでやる。
蛇川が時々こんなふうに悪酔いをして帰ってくることは、『いわた』亭主もりつ子も、常連客である吾妻も知っていた。
きっと、今回も浅草の神谷バーでしこたま電気ブランを煽ってきたに違いない。煽情的に乱れたシャツの襟元から、熱気と共に薬草のような独特の匂いがプンと漂っている。
度数の高い酒のため、合間に麦酒を挟んで酔いの回りを抑えるのが定石だが、蛇川はひたすら電気ブランのグラスばかりを空にし続けた。酔いたかったからだ。酔いの酩酊で、この、胸を掻きむしりたくなるような、とても言葉に表せられない感情を散らしてしまいたかった。
平素から身嗜みにはそれなりに気を配る男だ。その蛇川が、髪も衣服も振り乱し、目を鈍く光らせたままだらしなくカウンターにしなだれかかる様子を見て、吾妻はやれやれと肩を落とした。よほど荒れているらしい。
「存在が破廉恥すぎて、いっそ目に毒だわ。危ないからりっちゃんは近寄っちゃダメよ」
「怒れる獅子に近付く趣味はありません」
声を潜めて会話しながらりつ子が手早く十字を切る。すると、近付いてもないのに獅子の方から噛み付いてきた。
「バあッ!(莫迦、と言ったらしい)十字ってぇのはまず縦に切るんらッ。おおかた西洋の活動写真に感化されれもしたんらろーが、意味も分からぬまま形らけのぉ猿真似をやるからそんな……浅はかな……」
ふと蛇川が口をつぐむ。と見るや、青白い額にたちまち脂汗が浮いてきた。
すわ、と亭主が行平鍋を、りつ子が丼を、吾妻が湯呑みを差し出して事態に備える。蛇川はしばらく唇を引き結んだまま目を一点に据えていたが、やがて小さく喉を引き攣らせた。ただのしゃっくりだったのだ。様子を見守っていた三人が、それぞれ深くため息をつく。
「ねえ、蛇川ちゃん。何があったかは聞かないけど、その飲み方は絶対に良くないわよ。いつか本当に身体がダメになっちゃう」
「ハ! アハハハ、ダメか! それれも、あいつよりぁ幾分マシだろうよ」
「あいつ?」
「胸糞の悪い……」
そのままカウンターに突っ伏してしまった蛇川に、気遣わしげな視線を向けていた吾妻だったが、その胸元からはみ出たものを見るなり目の色を変えた。真澄から送られてきた真紅の封筒である。
「蛇川ちゃん、それ! その封筒……」
「ああン?」
「失礼。ちょっと見せて」
言うが早いか、蛇川の上衣に手を伸ばし、胸ポケツから封筒を抜き取る。裏返し、二匹の蛇が象られた金の封蝋を認めると、吾妻が大きく息を呑んだ。
「やっぱり! 『蟒蛇様』の刻印じゃない!」
「なになに? 恋文?」
興味を持ったりつ子が無邪気に覗き込んでくる。その視線から隠すように封筒を袂にしまい、吾妻は「オホホ」と笑いで無理やり誤魔化した。婦女子に聞かせていい話題ではない。
「ねえ吾妻さん、恋文なの?」
「同じくらい性質が悪いわ。でも恋文じゃないから安心して」
「やだッ、安心って、別にそんな」
モゴモゴと言葉を濁すりつ子を可笑しがりながら、吾妻は蛇川の脇に肩を入れて立ち上がらせた。半ば眠っていた蛇川が「ウッ」と呻く。
もし吾妻の予想が当たっているなら、昼日中の定食屋でこれ以上話を進めるのは危険だ。どこで誰が聞いているか分からない。
「この人、上で寝かせてくるわね」
「あ、じゃあ、お水と盥持って行きます。おしぼりもいるかな」
「平気、平気! りっちゃんは本当に優しいね。でも、この人の悪酔いは自業自得なんだから。もう二度と痛飲しないって誓いたくなるぐらい、しっかり苦しんでもらうわ」
じゃあね、と蛇川を引き摺りながらにこやかに暖簾を潜った吾妻だったが、障子戸を閉め、ビルヂングの二階に続く階段口に差し掛かった頃にはすっかり難しい顔になっている。
蟒蛇様。
極めて一部の者しかその存在を知らないが、必要とする者にはなぜか不思議と向こうから手が差し伸べられてくるという。噂。与太話。しかし恐らくは事実。
常人では対処しかねる困り事を、鮮やかな、はたから見れば超自然的とも思える手付きで解決してくれる存在。
まるで蛇川のようじゃないか。鬼の足音に悩まされる者達が、舌のない〈空鈴〉に誘われて自ずと『がらん堂』に招かれるかのよう……
依頼人に請われれば、蛇川は死力を尽くして鬼の爪から助けてくれる。しかし、蟒蛇様が助けるのは「怨みを募らせた側の人間」だ。
誰かを怨み、憎み、殺してやりたいとさえ願う者。蟒蛇様の紅い舌は、そうした者に伸ばされる。
人を殺すにおいて最も困難なことは何か?
法の番人の目を掻い潜って、ことを無事に成し遂げることだ。
殺すこと自体は……物理的には案外簡単だ。とりわけ吾妻のような者にとっては。しかし、それが自分の仕業だと誰にも悟られてはならない、となると、たちまちその難易度は跳ね上がる。
誰かをこの世から消し去りたいと強く願っていても、大半は、その結果自分が罰せられても構わない、とまでは思っていない。
蟒蛇様は、その最も困難な仕事に対して最高の助言を与えてくれるのだという。警察の目を掻い潜りながら法を犯す、最適な方法……
それ以上は、いくら手を尽くしても情報が得られなかった。あの吾妻をして、である。
唯一、蟒蛇様からの指示は金の封蝋――二匹の蛇が象られた――が捺された真紅の封筒で届けられる、ということだけ、ほとんど偶然掴むことができたぐらいで。
「ごめんねくず子ちゃん、お水もらえる? あと一応、汚れてもいい桶か盥も。大丈夫、酔い潰れてるだけよ。怪我したわけじゃないから安心して」
『がらん堂』に入り、三人掛けのソファに蛇川を寝かせてやりながら吾妻が言う。くず子は蛇川がまた無茶をして傷付いたのではと案じた様子でいたが、吾妻の説明を聞くと安堵した様子で水を汲みに行った。
さて。何からどう問い質せばいいものやら。
ずっと雲か霞を掴むようだった蟒蛇様。その象徴たる封筒が不意に目の前に現れたことに、吾妻は珍しく興奮していた。
その隣で、少年のようにあどけない顔で、蛇川がクゥクゥと寝息を立てている。




