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骨董屋あらため  作者: 山路こいし
第一章 銀座綺譚
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五十 相喰む双蛇




 磨き上げられた真鍮の把手、疵ひとつない大理石の床。その上には幾何学模様の敷物が敷かれ、高い天井からは煌びやかなシャンデリアが吊り下げられている。外観だけでも十分な威圧感があったが、館の中はその比ではない。


 この洋館が「金に飽いた文化人」の所有物と一線を画しているのは、内装の一部に希臘(ギリシア)美術を見事に調和させている点だ。

 木造建に馴染むよう(あつらえ)えられた列柱様の装飾、大理石に彫りつけられた希臘雷文(らいもん)。女の顔に獅子の胴、鷲の翼を有した怪物スピンクスの石像も飾られている。天井にはフレスコ画で西洋神話の一場面や動植物が描かれているが、よく見れば神々は皆揃って目を閉じている。


 入ってすぐの正面には三叉路状の大階段が(そび)えており、踊り場部分で左右二方向に分かれた階段が上階へと伸びている。黒檀に精密な象牙細工が施された手摺が見事な、ルイ14世様式の荘厳な大階段だ。


 訪れる者を圧倒する大階段を、しかし蛇川は鼻白む思いで見つめた。この洋館の主人が階段を用いないことを知っているためだ。

 その階段は、上階に移動するための機能的な設備ではなく、むしろ、踊り場に飾られた巨大な油彩画を効果的に演出するためだけに設けられた額縁のようだ。


 盛り上がるほどに厚く塗り込まれた絵の具から、今もテレピン油のにおいが漂ってきそうな油彩画だった。

 濁った色彩は暗く不気味な印象を与えるのに、不思議と目が吸い寄せられて離れない。日本画特有の強い輪郭線と、西洋美術の写実性を併せ持ち、しかしどこか歪みを感じさせる特徴的な筆致で描かれているのは和装の女だ。椅子に浅く腰掛け、白い手を帯の辺りで重ねて、柔らかな目を伏目がちにして佇んでいる。


 しばらく絵の前で立ち止まっていた蛇川だったが、やがて案内の者に促されて応接間へと足を向けた。




 革張りのソファに身を沈め、無作法にも、膝高の応接卓に革靴のまま脚を投げ出していた蛇川の耳に、ギィギィと金属の擦れる音が聞こえてきた。

 その音が近付くにつれ、蛇川の身体が緊張のためにわずかに強張る。この男が緊張するなど、相手が鬼ならばともかく、人と対峙するにおいてはまず滅多にないことだ。


「いらっしゃい」


 高くはないが低すぎもせず、ノオブルな、しかしざらついた声がかけられる。


 藤製(とうせい)廻転(かいてん)自在車(車椅子のこと)、両脇に大きな車輪をつけた優雅な自在椅子に乗せられ連れられて来たその男は――


 深い知謀と冷酷さを湛えた灰褐色の瞳。

 癖も縮みもない(はしばみ)色の髪。

 日本人離れした長い手脚。

 匂い立つような気品。

 発達した前頭葉のために額は形よく膨らみ、その下に真っ直ぐ通った高い鼻梁が伸びている。


 笑みを浮かべる薄い唇も、繊細な輪郭を有する顎も、気高さを表すようにツンと尖った鼻頭までも……


「来てくれて嬉しいよ、兄さん」


 その顔は、蛇川と瓜二つだった。


 瑣末な違いはある。

 洋装の蛇川に対して男は和装。長く伸ばした艶やかな髪は束ねもせずに垂らされ、車椅子の座面でうねっている。隈に縁取られた目は窪み、頬は痩け、まるで肉付けを忘れた骸骨に皮だけを被せたようだ。

 しかしそれでも、二人の顔は合わせ鏡に映したようにそっくりだった。いっそ恐ろしいほどに。


 いや。

 彼らの姿を見た者は、実際恐怖を掻き立てられたことだろう。


 人は「己と違うもの」を本能的に恐れる。

 そして彼らは――まるで判を捺したように同じ顔を持つ彼らは、真実恐怖の対象であった。二人が並外れて美しいことも相まって、この世のモノではない、見てはならないモノを目にしてしまったかのような畏怖心さえ感じさせる。


 双子だ。

 医学雑誌の言葉でいうなら一卵性の。

 なんの悪戯か、一度のまぐわいによって授かった命が二つに分かたれてしまったモノ。


 ただひとつ。蛇川と、彼を兄と呼んだ男の間には明確な違いがあった。服装や髪型などではない。


 火傷の痕だ。

 男は、額から足の先にかけてまで、左半身が醜い瘢痕拘縮(ひきつれ)でべっとりと覆われていたのだ。


 蛇川の右手が真っ白な陶磁器についたひと掻きの疵だとしたら、男の火傷痕は名画にぶち撒けられた墨のようなものだ。カンバスの大半を覆うその墨は、純粋な美しさを求める大衆には決して受け入れられないだろう。

 しかし、その取り返しのつかない欠損が、ある種の凄みというべきか、壮絶なまでの美と歪みを醸し出している。


 険しい目を向ける蛇川に、男は柔らかな微笑みで応えた。


「少し……緊張してますね、兄さん? ほんのり汗が香ってますよ。歩いたせいじゃない。大通りまでは、辻で拾った、馴染みの人力車で来たんだから」


 合間合間に息継ぎをしながら、喘ぐように男が言う。喉まで達した火傷のために、発声するだけでひと苦労なのだ。男が声を絞り出すたび、喉がヒュウヒュウと(うつ)ろな音を立てた。


 蛇川は苛立たしげに舌を鳴らした。いつもこうだ。和紙よりも頼りないその音が、蛇川のささくれ立った神経を逆撫でするのだ。


「裾に付いた土埃の位置を見れば誰にだって分かることだ。明白なことを偉そうにベラベラ喋るものじゃない。さっさと本題に入ったらどうだ」


「ちょっとした遊びですよ。久しぶりの、兄弟水入らずなのに、つれない……」


 グ、と言葉を詰まらせて男が咳き込む。すかさず、車椅子を押して来た初老の付き人が壺を差し出し、鮮やかな血痰を受け止めた。慈しみに溢れた手付きで男の口元を優しく拭い、淡褐色の液体が注がれたグラスを手渡す。


「あまり()いて話されますと喉に負担がかかります」


「はは、嬉しくて」


 咽せないよう、慎重に男が喉に流しているのは、おそらく桔梗湯(ききょうとう)だろう。湿った畳のような、干し草のような、独特の香りが漂ってくる。


 脚を卓からどけた蛇川が、代わりに、男が送りつけてきた新聞記事を天板に叩きつけた。卓に置かれた香水瓶や銀の果物籠が揺れてけたたましい音を立てたが、男も、背後に控える付き人も微動だにしない。


「またお前が仕組んだのか」


「おお怖い。人助けですよ」


 混乱を招き、怒りを煽り、溝を深めて混沌を生じさせようとしている者……


 馬車幽霊の時、老夫婦が標的(にらやま)をひと気のない場所に呼び出した手口の鮮やかさに唸った際に、蛇川の脳裏を掠めたのがこの男――同じ胎で同じ時、同じように育った弟の存在だった。


 人間の本質は(もと)より悪であると信じて疑わない男。

 人の欺瞞や悪意に触れて悦ぶ男。

 品のある笑みの裏で悪趣味な感情を渦巻かせる男は、穏やかな瞳でまっすぐに蛇川を見つめた。


「僕にも依頼人(クライアント)がいる。兄さんと同じですよ。僕はその請いに応じて、手助けをする」


「人殺しの手解きをしてやることのどこが手助けだ。お前のやっていることはただの殺人教唆だ」


「でも、僕の助けに感謝する依頼人は多いんですよ。お蔭で、取る気もないのに、謝礼金ばかりが積み上がっていって。不具の身には食の楽しみも、女の愉しみもないから、使いどころに困って……虚しい虚しい調度品集め」


「ハ! 血塗れの金で建てた館か。悪趣味なことで。あの肖像画もその金で描かせたのか?」


 男が嬉しそうに顔を輝かせる。


「良いでしょう、ようやっと仕上がったんです。岸田劉生の筆です。僕らの道標(みちしるべ)ですよ、僕達はそこで……」


 再び咳き込んだ男に、初老の付き人が「真澄(ますみ)様!」と少し上擦った声をかけた。蛇川の眉間に刻まれた皺がますます深くなる。


真澄(ますみ)様、そろそろ」


「……うん、ごめん」


 メラレウカの精油を染み込ませたハンケチを口に当て、しばし呼吸を整えていた男だったが、苦虫を噛み潰したような蛇川の顔を見ると少し困ったような笑顔を浮かべた。口に当てていたハンケチには鮮血が滲んでいる。


「すみません、せっかく遊びに来てくれたのに、今日は具合が。……三日でどうです?」


「十分だ」


 蛇川は勢いよく立ち上がった。

 そのまま応接間を出て行こうとした蛇川だったが、真鍮のドアノブに手を掛けたまま男を――姿形どころか、名の響きまで己と同じ弟、真澄(ますみ)を振り返った。


「飛び回る僕の姿が面白いなら、いくらでも道化になってやる。だからもうこれ以上血で手を汚すな、真澄。いたずらに人を苦しめるな。怨むなら僕だけを怨め」


 真澄は小さく唇を動かした。しかし、すっかり掠れ切った声は蛇川の耳に届かなかった。



 

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