四九 相喰む双蛇
帝都東京に佇む骨董屋『がらん堂』に封書が届けられたのは、蛇川が飛騨から戻って半月ほどが過ぎた頃だった。
入り口扉と沓摺の間に差し込まれたそれには、宛名どころか差出人の名も書かれていない。
しかし、血を思わせる不吉な色をした封筒と、なにより、丁寧に捺された金色の封蝋が送り主の身元を強烈に主張していた。
封蝋には、正円に「無限大」を表す記号(∞)をピタリと重ね合わせた意匠が刻印されている。よく見ると、その意匠は絡み合う二匹の蛇によって形作られていて、円の頂点と底辺に描かれた蛇頭が互いの尾に噛み付いていた。
永遠を象徴するような、無益な喰らい合いを暗示するような。ひと言でいえば悪趣味な文様だった。
まるで差出人の顔がそこに浮き出てでもいるかのように、蛇川はしばし封蝋を睨みつけた。が、やがて乱暴な手付きで封を開けた。
中に入っていたのは新聞記事の切り抜きが一枚。他に便箋のひとつも書き付けも見当たらなかったが、いつものことなので不思議もない。
その記事は、さる実業家の毒殺事件を凶々しく報じるものだった。二日前、その妻が逮捕されたとの続報が紙面を騒がせていたが……今回はこの題材で遊ぼう、ということらしい。
蛇川が記事に目を走らせていると、骨董屋店舗と奥の間を繋ぐ扉からりつ子が顔を覗かせた。手に抱えた大きな木桶から木綿や絣の着物がはみ出している。
「蛇川さぁん。この木桶、屋上まで運んでくれません? お天気だから、夏用の単衣なんかをまとめて踏み洗いしちゃおうかと思って。くず子ちゃんと一緒に踏むの」
ね、とりつ子が声をかけると、『がらん堂』唯一の従業員、くず子が嬉しそうにニコリと笑った。つられて蛇川も小ざっぱりとした微笑みを返す。
着物の裾が濡れるのも構わず、水を張った木桶の中で楽しげに労働している少女らの姿というのは、想像するだに牧歌的で――死にそうなほどに退屈だ。
「ついでに水場の茣蓙も叩いておいておくれ。上に竹箒が転がっているからそれを使うとよろしい。では、少し出掛けてきますよ」
最後のひと言はくず子に向けて言うと、蛇川は封書を持って颯爽と『がらん堂』を出て行ってしまった。
思いがけず蛇川が見せた微笑みに虚をつかれ、りつ子はしばらく呆然と立ち尽くしていた。たとえそれが隣の少女に向けられたものだとしても、不意打ちであの優しい顔は、ずるい。
しかし、革靴の音がすっかり遠ざかってしまうとにわかに正気を取り戻し、りつ子はハッと息を呑んだ。
「木桶!」
ビルヂングの一階には隠れた名店『いわた』が入居している。りつ子とその父親が二人で切り盛りしている定食屋だ。
昼時に向けて亭主が仕込みをしているのだろう。入り口の引き戸――硝子を嵌め込んだ冬仕様の戸板から障子戸に替えられている――の隙間から鰹出汁の香りが湯気に乗って漂ってくる。
周りの路地は水を打って清められている。暑気払いにはまだ早いが、銀座とはいえアスフハルトが敷かれているのは大通りだけで、路地を一本逸れると未舗装の道が広がっているため、よほど冷える日以外は打ち水をして土埃を静めておくのだ。
掃除洗濯の手伝いで『がらん堂』を訪れる前にりつ子が済ませておいたらしい。実によく働く娘である。
蛇川も毎日足繁く通う定食屋だが、今日は障子戸を開けて亭主と二言三言交わすに留まり、店には入らず銀座通りへと向かった。
朝の銀座通りは勤め先に向かう人々で溢れていた。
流行りの折鞄を抱えて足早に歩く男、洒落た束髪にクローシェ帽を目深に被った女。ステッキと革靴が石畳を鳴らし、まだ少し眠気の残る街に活気を運んでいる。
少し首を巡らせると、蛇川の探し人はすぐ見つかった。客待ちをしていた俥夫だ。目が合うと、俥夫はパッと顔を輝かせて嬉しそうに立ち上がった。
「旦那! 乗っていきやす?」
「ああ。花川戸までやってくれ」
「浅草ですね。合点承知!」
度々使っている馴染みの俥夫だった。若くて力強く、足が速いし、余計な詮索もしてこない。俥夫にしては珍しく煙草をやらないところも気に入っていた。
都電を使えば早いが、封筒ひとつで蛇川を呼び付けてしまえる送り主に会う前に、誰に邪魔をされることもなく記事を読み返しておきたかった。その点俥は都合がいい。
貝を焼く芳ばしい匂いを立ち上らせる屋台の前を、蛇川を乗せた人力車が駆けていく。
緋色の羅紗が張られた腰掛けに座り、悠然と組んだ長い脚を蹴込に預けた蛇川に気付き、通学途中の女学生らが飛び上がった。しかし、声が往来に響く頃にはもう人力車は遠ざかっている。
「旦那を乗せた後は不思議とご婦人の客が増えるんでさあ」
俥夫が小気味よくカラカラと笑ったが、その軽口は蛇川の耳に届いていない。
俥は人混みを割るようにしてぐんぐん速度を上げ、蛇川を目的地へと連れて行った。
◆ ◆
浅草寺の裏手に広がる花川戸町には、朝のうちから人いきれがむんと漂っていた。
建ち並ぶ荒物屋や小間物屋の軒先には、竹籠や簾、団扇などの季節物が並べられ、絶えず呼び込みの声で賑わっている。染め物屋の店先では藍と白の手拭いが風にはためき、路地の奥からは下駄の歯を削る木槌の音が高らかに響いてくる。
浅草寺へ向かう参詣客や物見遊山の人々に混じって、職人風の男や荷を背負った行商人も行き交う道は、銀座通りとはまた違った活気にあふれている。
焼き団子のタレが焦げる甘じょっぱい匂い。草履を鳴らしながら笑い駆けていく子供達。
石畳の大通りを抜け、細い裏路地に入ると、生活のにおいがいや増しになる。
本框の将棋盤を挟んで向かい合う男達。その盤面を、植え込みの脇で煙管をふかすおやじが熱心に覗き込んでいる。他にも、辻を掃く者、道端に水を撒く者、泥を掻く者。
井戸の周りで洗濯に精を出す女達が、不意に現れた三つ揃えスーツの美丈夫を見つけて手を止めた。力の抜けた指から洗い物が滑り落ちたことにも気付かず、足早に歩き去る蛇川の背中を言葉もなく見送っている。
数人寄れば常に姦しい女達が黙り込むなど余程のことだ。きっと数日は彼の噂で持ちきりで、職人気質の旦那衆を呆れさせることだろう。
やがて、蛇川はある建物の前で足を止めた。
二階建ての立派な洋館だった。
建物も門柱も赤煉瓦造りで、煤けて黒ずんだ赤が今朝届いた封筒の色を思い出させる。塀は重厚な鉄の門扉に閉ざされていて、円環の把手を咥えているのは獅子ではなく醜い犬だ。建物は大人の背丈よりも高い植え込みでぐるりと覆われていて、その外観は禍々しい鉄門の隙間からしか窺えない。
賑わいと素朴さ、少し無遠慮な親しみやすさを備えた浅草の街中にあって、その洋館はまさしく異質だった。まるで、この街に染まることを全身で拒んでいるかのような……
「主人がお待ちかねです。どうぞ」
脇の番小屋に控えていた門番が子扉を開ける。蛇川はぶっきらぼうに扉をくぐると、案内も待たず勝手に砂利道を進んでいった。




