四八 廃墟ホテル
――気付くと蛇川は畦道に寝かされていた。空高くで小さな星々が瞬いている。
ゆるい傾斜が蛇川の体重を柔らかく受け止め、その下では青々とした木賊が押し潰されている。春の風が吹いていた。
「お目覚めですか」
鼻先を飛ぶ羽虫を手で払っていると、頭上から声が降ってきた。夏見だ。噛んでいた木賊の茎をプッと吐き出し、蛇川の隣に腰を下ろす。
「魂を抜き取られたかと思いましたよ。いきなり人形みたいに崩れ落ちるんだもの」
「……道理で臭うわけだ」
寝転んだまま上衣の前裾を掴み、蛇川が顔を顰めた。きっと、酷い悪臭を放つ、あの腐った水の中に顔から倒れ込んだのだろう。衣服には黒い染みが広がり、胸の悪くなるような臭いが辺りに漂っていた。
「感謝してもらっても構いませんよ。僕がいなけりゃあなた、崩れた廃墟の下敷きになっていたんですから。本ッ当に大変だったんですからね、気絶した男の人を支えて階段を駆け降りるのは。あなた、細そうに見えて案外鍛えてらっしゃるんだなあ」
視線を巡らせると、頭元に蛇川のトランクが置かれていた。上には鞘に収められた〈哭刃〉が載せられている。その視線に気付いたか、夏見が誇らしげに胸を張った。
「なんとか持ち出せました。骨董品だと仰ってたから、替えの効かない大事な物かと思って。僕の蝦蟇口は拾う余裕もありませんでしたが」
春日野に戻って大幣を作り直さなきゃ。そう呟く夏見の横顔をしばし眺めていた蛇川だったが、視線を夜空に戻すと、革手袋の口を探って小さな何かを取り出した。〈鬼の涙〉だ。懐剣を鞘に納めたあと、薄れゆく意識の中でなんとか拾って、革手袋の中に転がし入れておいたのだ。
少しの期待を込めて〈涙〉を確認した蛇川だったが、予想通り、蛇川が探し求める輝きはそこになかった。不思議と温かな気持ちが呼び起こされる、あの特別な輝き……
パタリと手を落とし、蛇川が長々と嘆息する。
終わったのだ。長い、長い滞在だった。
蛇川が鬼と成った春生を斬ると同時に、まやかしのホテルは崩壊を始め、呪われた貯水槽も、浜野昭三の遺体も全て呑み込んで、巨大な瓦礫の山と化していた。本来在るべき姿に戻ったのだ。
硝子が嵌め込まれたドアを恭しく開けるドアマンも、人好きのする笑顔で客を迎え入れる支配人も、その歓待に涙して感激する哀れな浜野ももういない。
母親の遺骨と温かな思い出に縋り、永遠の一日を、甘く腐った夢のような一日を繰り返していた岡部春生も……
深夜の大轟音と激震は眠る宿場町を叩き起こした。あちこちに灯が入れられて、畦道の背後は不自然なほどに明るい。その明かりが、人知れず役目を果たし終えた男達の影を、黒く長く草の上に伸ばしていた。
「いつもこうなんですか」と夏見。
「こう、とは」
「意識を刈り取られてしまう。鬼の仕業か懐剣の仕業か知りませんが……命を削られてるんじゃないです? そのうち本当に死にますよ、あなた」
うん、と蛇川が曖昧に呟く。
やはり、鬼の腹の中に長くいたのが悪かったか。蛇川の右腕に巣食う鬼は、同胞の気配に強く影響される。それは時に蛇川に第六感的な気付きを与える助けにもなったが……
何日も鬼の支配下にいたことで、右腕の鬼による侵食をいたずらに許してしまったものらしい。右腕が激痛を訴えてくる。
まるで焼きごてを押し付けられているかのようだ。目蓋を閉じて眉根を寄せ、荒波のように打ち寄せてくる痛みの襲撃にじっと耐える。
「……その、腕の鬼。見せてもらえませんか?」
やや遠慮がちな夏見の請いに、蛇川は右腕のシャツを捲って応えた。
その下は山鳩色の長手甲に覆われている。右腕を持ち上げ、手首で留めていたこはぜを外すと、緩んだ布を肘辺りまで引き下ろす。
皮膚に深く噛み付く無数の目。しかし今はその全てが閉じられている。同胞の気配が去ったためだ。
閉ざされた目蓋は、一見しただけでは醜く浮き出た血管と大差ない。酷く爛れた火傷痕、と誰もが思うだろう。極上の美を備えた男に刻まれた、醜く痛々しい烙印。
「僕、祓えますよ。あなたに赦しを与えられる。その腕は多分、動かなくなるけど……」
「それはできんのだ。今はまだ」
たるんだ長手甲を引き上げ、こはぜを留めて、衣服の袖を整えながら蛇川が言う。
「でも……」
「くどい。肘の先は入れ墨で封じてあると話したろう。ただ、どうしても少しずつ侵食されてしまうのでな。飛騨に住む婆あに墨を入れ直してもらいにいく道中だったのだ。まさかこんな形で足止めを食うとは思ってもなかったが。
それに、この革手袋にも長手甲にも経文や鉄粉で……いや、詳しい説明は省くが、とにかく、やれることはやっている。まだ暫くは生きられるさ」
夏見が困惑の表情を浮かべる。
今の蛇川の状態は、導火線の残尺が分からない炸裂弾のようなものだ。いつ右腕の鬼に魂まで喰らい尽くされるや分からない。
これ程の男が鬼と成り果てたら、いったい誰が祓えるというのだろう。崇徳院の怨霊、あるいはそれを上回る脅威と見做してかからねばむしろ喰われる。蛇川がその危うさに思い至らないはずがないのに。
なぜ、そんな危険を冒してまで、鬼をそのままにしておくのだろう。
「……無作法な質問だったらすみません」
「そう前置きする時はまず間違いなく無作法だ。だが、どうぞ」
「鬼を祓わないのは、かつてその鬼が喰らった方が……御母堂が関係してるんですか」
鬼と一つ躰に同居するなど正気の沙汰ではない。その苦しみは想像すらも及ばない。いったい、どれほどの精神力で耐え忍んでいるというのだろう。
自分を苦しめ、痛めつけて。
荊の道を裸足で歩くような真似をしてまで、この男は何をしようとしているのだろう。何を求めて闘っているのだろう。
しばらく宙を見つめ、唇を開きかけた蛇川だったが、やがて、震える腕で支えながらゆっくりと上体を起こした。夏見が手を貸そうと身を乗り出したのを片手で制する。
寝転んでいると疲労の沼にどこまでも沈んでいってしまいそうだ。夜が明けるまでこのまま畦道で眠ってしまってもよかったのだが……
いつまでも答えようとしない蛇川に、夏見が急かすような視線を寄越す。わけを知りたかった。この、底知れぬ骨董屋主人を突き動かすほどのわけを。
しかし、返ってきたのは小莫迦にしたような間延びした声だった。
「なんだ、その神妙な面は。僕は答えるだなんてひと言も言ってないぞ」
「なっ……あなたさっき『どうぞ』って」
「無作法な質問を許してやったまでさ」
夏見が丸い目を白黒させた。
いつしか蛇川はまた例のニヤニヤ笑いを浮かべている。
この男、わざと揶揄っているのだ。春生に見せた強さと優しさ、厳しさを備えた大人の男は、あの達観した男はどこへ消えたのか。
「無作法を自覚しているのなら、無作法で返されても文句はあるまい」
「だっ、でも、気になるじゃないですか。鬼に憑かれて正気を保ってる人なんて初めて見たんですから」
「なぁぜ僕があんたの好奇心を満たしてやらねばならんのだ。人を見せ物扱いするなら木戸銭を払えよ。言っておくが、僕は高いぞ」
「はあ、損な性格ですねぇ。僕は真面目にあなたを心配してるだけなのに」
「ハ! 善意の押し売りほど迷惑なものはない」
「……あなた、お友達いないでしょ」
蛇川が可笑しそうに唇を歪める。
打てば響く愉快な玩具だ。りつ子とはまた違った面白さがある。もっと揶揄ってやろうか。
しかし、のっぴきならない事情がその楽しみを邪魔していた。
次第に辛抱ならなくなってきた事情とは――
臭いのだ。
濁った水に浸かってしまったせいで、全身が臭過ぎる。耐え難い腐臭で鼻が曲がってしまいそうだ。
しばらく顔を顰めていた蛇川だったが、やがてついに、駄目だ!と腹立たしげに声を荒げた。
「もう我慢できん! 銭湯に行く、今すぐにだ!」
「ええ? この時間じゃもうどこも火を落としちゃってますよ」
「この際水でもぬるま湯でも構わん。とにかく、一刻も早くこの汚水を洗い流さねば気が済まん!」
うーん、と立てた人差し指を顎に添えていた夏見だったが、
「じゃ、僕もご一緒しちゃおう! 入れ墨も見てみたいと思ってたんですよ。どんな文様だろうなあ。
あ、でもお代は骨董屋さんが出してくださいね。なにせ僕の蝦蟇口は瓦礫の下ですから。素寒貧というわけです」
「はあ? なぜ僕が」
「あなたの命と骨董品を守ったわけですから、まあ、それくらいは。あと、春日大社までの運賃もお願いしますね。十円、いや十二円あれば足りるかと」
膝に手をついて立ち上がりながら蛇川が鼻を鳴らす。
「莫迦々々しい! 命を救った恩を言うならお互い様だろう。神降ろし途中でしくじって、危うく"神崩れ"になりかけた二流の祓方はどこの誰だね?」
「二流ですって! さすがに聞き捨てなりません、撤回を求めます!」
「分かった撤回してやる。夏見くん、あんたはせいぜい三流だ!」
「なっ、なんて人だ! あのまま屋上に置いてくればよかった!」
「ハハハ! 言うじゃないか、蝦夷の田舎坊主が偉そうに」
「北・海・道・です! あまり莫迦にしたら怒りますよ」
「ほう、もっと怒らせたらまた訛りが出るかね? ひとつ試して……あ。なら僕が木戸銭を払わねばならんな。面白そうな見せ物だ」
「本ッ当、嫌な人ですねあなた!」
大人気なく喚き合いながら、それでも結局、共に銭湯に向かうのだろう。トランクを提げて明かりの方へ歩いていく蛇川の後を、夏見が慌てて追いかける。
その背後を、春の風が走り抜けていった。
柔らかな風の中に、子供の笑い声が響いたような。
〈 廃墟ホテル 了 〉




