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骨董屋あらため  作者: 山路こいし
第一章 銀座綺譚
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四七 廃墟ホテル




 タエが姿を消しても、誰も彼女を探そうとはしなかった。


 これまでの経緯(いきさつ)を考えれば、彼女がどのような悲劇的な道を選んだかは大凡(おおよそ)予測ができてしまっていたし……それに、誰もが疲れ切っていた。


 ホテルの仲間は世間のように無責任にタエを詰ることは決してしなかったが、苦境ぶりが増すにつれ、心の奥底で「タエさえ春生から目を離さなければ」という考えが顔をもたげてしまう瞬間もあっただろう。

 ()い仲であったはずの男などは尚更非道く、タエの蒸発をこれ幸いと、自らも宿場町を去ってしまっていた。


 タエの失踪は新聞記者らにとって最高の食材となった。


 豪奢なホテルの貯水槽で溺れ死んだ哀れな子供と、後を追うようにして姿を消した母親。おまけにその情人は尻に帆をかけて逃げ出しているときたもんだ。

 涎を垂らして極上の食材に飛び付いた記者らによって調理され、有る事無い事を好き放題に交えて書かれた下世話な記事は、低俗な読者らによって食い散らかされ、汚され――そして、やがて忘れられた。湯気の立たなくなった料理など見向きもされないのだ。


 唯一の救いは、そうした世間の浅ましさがタエをあれ以上傷付けなかったことだ。

 彼女はもう、貯水槽の底でひっそりと息絶えていたのだから。


 愛し子が落ちた貯水槽に、タエもまた身を投げたのだ。閉鎖されたホテルにひと気はなく、春生の遺体を引き揚げるために重い鉄蓋は開けられたままで、彼女の哀しい決意を邪魔をするものは何もなかった。


 水が抜かれていることには思い至らなかったが――少し考えれば分かることだが――、そのことにタエが気付いたかどうか。

 なにせ、春生が姿を消してからほとんど飲食もせず、寝ることもなく己を責め続けたタエの身体は枯れ木のように痩せ細っていたのだ。僅かに揺れていた命の灯火など、落下の衝撃でたちまち消え失せてしまった……


 せめてあの子が極楽浄土に導かれますように。

 口の中で小さく念仏を唱えながら、暗闇に向かってタエは飛んだ。


 もっと、一緒に遊んであげればよかったなあ。

 可愛い、可愛い春生。

 駄目なおっ母でごめんね……


 ◆  ◆


 あまりに強く歯を食い縛ったために唇が切れ、夏見の顎を鮮血が濡らした。青白い肌に伝った赤は、しかし透明な涙に絡め取られて色を薄める。


 これが鬼の(ことわり)か。

 これが、今まで向き合おうとも、知ろうともしてこなかった、鬼の成り立ちなのか。


 祓うべきモノ、冥府におくる情けすら無用のモノと切り捨ててきた鬼の背後に、こんな情念があっただなんて。ああ、確かに、鬼もかつては人であった……狂おしいほどに。


 胡桃型の大きな目からボロボロと涙を溢しながら、唇を引き結び、鬼と成った春生を夏見が見つめる。タエの頭蓋骨に縋り付き、声を殺して泣く春生を。

 

 ――同調するな、しかし目を逸らすな。


 苦しかった。春生が鬼と成った経緯を知るにつけ、胸が苦しくて張り裂けそうだった。

 でも、目を逸らしちゃいけない。知らなくては、見届けなくては。痛みに同調するわけでも、温情を与えるわけでも、断罪するわけでもなく。


「岡部タエの行方は吾妻でも探り切れなかった。時間をかければ何とかなっただろうが……しかし、子と同じ場所で果てていたとはな」


 呟くような蛇川の声に、春生の呻き声が一段強くなる。

 水で膨れ上がった喉から漏れる声は押し潰され、そこに子供らしい愛らしさは微塵も感じられない。身体を揺するたびに肉が裂け、ふやけた脂肪を晒す姿は、この世のどんな生き物よりも醜悪だ。


「君は……その時、鬼に成ったんだな。水底から見上げた貯水槽の口……手が届くことを切望した口から、母親の痩せこけた身体が降ってきた時。ついに君は、鬼と成ったんだ」


「うう……、おっ母……おっ母……!」


 紫に腫れた唇を震わせ、春生が唸る。窪んだ眼窩から腐った泥のようなものが止めどなく溢れ出てくる。


「怨んだのだろう。大好きな母親を追い詰めた世間を。恐れをなして逃げた養父を。母を守ってくれなかった従業員らを。

 その怨みが君を鬼にした。その情念があんたの魂をここに縛り付けているのだよ、春生」


 蛇川が足を進める。革靴が呪わしい水を踏み、穢れた飛沫を跳ね上げさせたが構いもしない。

 迷いなく春生の前に歩み寄ると、蛇川は水の中に片膝をついた。それでも視線を合わせられないほどに、春生は小さい。


「だが、怨み切れなかったのだな。母を見捨てた人達を、あんたは憎み切ることができなかった。あんたの心の中には、喜んで遊び相手になってくれた、優しい小父さん小母さんとの思い出が詰まっていたから」


「ううっ!」


 心を紐解く蛇川の言葉に、辛抱できなくなったのだろう。獣のようにひと声吼えると、春生が身を捩りながら声を上げて泣き始めた。


「泣け!」


 諭すように静かな声音から一転、蛇川が青筋を立てて大喝する。


「泣けッ! 喚け、クソガキ! 何を一丁前に我慢していやがる! 何を(さか)しらぶって……母親が死んだのが、このホテルが潰れたのが、全て自分のせいだとでも思ってたのか?! つけ上がるな、半人前のクソガキが!

 自分で自分を縛るな、春生! ガキはガキらしく我儘と糞だけ垂れてりゃいいんだ! こんな陰惨な事故の責任が、お前みたいなガキひとりにあって堪るかッ!


 泣けッ、春生! お前はまだ、子供だろうが!」


「うゥッ、うわあァァァ―――ッッ!!」


 〈鎮釘〉を打ち込まれた貯水槽が破裂した時のように、堪えていた春生の感情が爆発した。


 抑え切れなくなった泣き声が、崩れかけのホテルを震撼させる。大きく開いた青黒い口から歯がこぼれ、瞬く間に床に広がってゆく深い(ひび)の中に転がり落ちた。肉が端から腐り落ち、コンクリートに黒い染みを作っていく。眼窩から垂れるのは耐え難い悪臭を放つ汚泥だ。


 なんと悍ましい。

 なのに、なぜだろう。

 言葉をなさない喚き声を上げ、ただひたすら己の感情に忠実に、短い足で床を打ち鳴らしながら身も蓋もなく号泣するその姿は――


 どこまでも子供らしかった。

 幼く、我儘で、聞き分けがなく、愛されることしか知らない子供の姿……


「ようやくガキらしくなったじゃないか。僕はガキが大嫌いだが、賢しらぶったガキはもっと嫌いだ」


 蛇川の口許がわずかに弛む。


「安心しろ。お前の母親は迷いなく成仏しているさ。最期の瞬間まで子を想い続けた慈母として極楽浄土に迎えられ、ずっとお前を待っている」


 喉と肩を引き攣らせながら、泥の涙に濡れそぼった目で春生が蛇川を仰ぎ見た。その頬に安堵の色が滲むのを見て、蛇川が目だけで頷いて見せる。


「お前の気持ちは分からんでもない。この場所にまた笑い声が響くことを切に願い続けていたのだろう。その願いが崩れた廃墟を豪奢なホテルたらしめていたのだ。だが、お前の我儘で他者の魂を弄ぶことは許されない。

 

 ……分かるな? 解放してやれ、哀れなあの男を。そして、お前自身を」


 蛇川が鹿皮の革手袋を剥ぐ。懐から〈哭刃(こくじん)〉を取り出し、静かに鞘を払い――


「斬るぞ。お前の未練を」


 澄んだ氷のような刃が、月明かりを受けて煌めく。

 春生は蛇川をじっと見つめて……


 小さくひとつ、頷いた。



 

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