四六 廃墟ホテル
春生はどこにもいなかった。
従業員が総出でホテル中を、宿場町中を探し求めたがいない。タエも情人も気が触れたように駆け回ったが、小さな春生の姿はどこを探しても見つからなかった。無論警察にも届を出したが、捜索はいつも空振りに終わった。
哀れな春生。
まだ五歳になったばかりの幼い足で、いったいどこへ行ったというのだろう。
悲嘆に暮れるタエの焦燥ぶりは、それはもう見ていられないほどだった。
夫に先立たれ、頼れる身寄りもなく。一度は全てを諦めかけたものの、既のことで思い留まり、必死に働いて守り育ててきた珠のような子だ。その春生まで杳として行方が知れないのだから、彼女が負った痛みは計り知れない。
ホテルには常に客が出入りしている。加えてここは宿場町だ。西から東へ、あるいはその逆へ流れていく旅人も多い。その内の誰かに連れ去られたのだとしたら、もはや後を追う術はない。
タエに憚って皆口には出さないが、きっと、春生は人買いに拐かされたに違いないと誰もが思っていた。
なにせ、数年前には老いも若きも西班牙風邪でバタバタと死んでしまったのだ。まだ何ものにも染まっていない労働力は引く手数多だ。それで、子供を狙った拐かし紛いの人身売買が横行して社会問題となっていた。
警察などは端からそうと決め付けており、捜索も片手間といった具合で、半狂乱になって毎日派出所にやってくるタエの艶っぽい腰付きを見つめることにだけ熱心というありさまだった。
だから、誰も考えもしなかった。
まさか、どこを探しても見つからなかった子供が、目と鼻の先の屋上で息絶えているだなんて……
静かな声で蛇川が言う。
「〈男紙〉に書かれていた情報によると、春生が行方を晦ましてから五日ほどが経った頃、ホテルで異臭騒ぎがあったらしい。蛇口から出る水が濁り、耐え難い悪臭を放っているとな。騒ぎを受けた従業員が屋上の貯水槽を検めてみると……」
果たして春生はそこにいた。
変わり果てた姿で水に浮かんでいた。
水を吸ってふた回りほども膨らみ、青黒く変色した肌に無数の蛆を這わせた、とても直視できない姿で……
春生を見つけた従業員は、この世のものとは思えない絶叫を上げたという。
それが哀れな彼の最期の言葉となった。恐怖に仰け反った弾みに足を踏み外し、貯水槽のてっぺんから落ちて死んでしまったのだ。
それほどに高さのある貯水槽だ。五歳の子供がその上で遊ぶなど、そもそも登れてしまうなど、誰も思い付きすらしなかった。
しかも、貯水槽の上部は厚い鉄板で蓋をしているのだ。まさかそれが、ほんの僅かにずれているなんて。そんな細い隙間に入り込めてしまうほどに、幼子の身体が小さいだなんて……誰も考えなかった、誰も……
「新聞記者などクズの極みだ。奴らは部数を稼げさえすればなんだっていいのさ。当時、新聞を賑わせた記事の見出しは、それはもう非道いものだったという」
吾妻は詳しく書いて寄越しはしなかったが、その頃、紙面にはこんな見出しが踊っていた。
『恐怖! 鐵水槽に泳ぐ腐亂死體』
『ホテルへようこそ 人肉と蛆のスウプで御持て成し』
鬼と成った春生が呻く。その振動にすら耐えられず、喉の肉がボタリと落ちて湿っぽい音を立てた。
当然、ホテルの客足は途絶えた。
記事が出た直後は下世話な野次馬や新聞記者らが押し寄せたが、誰もホテルに泊まろうとする者はいなかった。
これが幽霊騒ぎならばまだ良かった。少ないとはいえ、怪奇を好む変わり者達が喜んで訪れただろうから。しかし、死体が浮いた水でもてなされたいと願う人間はいない。
春生の死は事故と結論付けられたため、誰も刑事責任には問われなかった。ホテルの支配人も、それに、母親のタエも。
子が不幸な事故に見舞われた際に親の監督責任を問う法律もあるにはあるが、なにせ、大正の時代、我が国における乳幼児の死亡率は非常に高かった。子供の死はごく身近なものだったのだ。
だから、法整備はなされているものの、それは法治国家としての体面を保つためであって、実際にそれで親が罰せられることは滅多になかった。
法はタエを裁かなかった。
彼女を裁いたのは、無責任な世間の声だ。
――母親が目を離したからだ。
――子持ち女のくせに、着飾って洋館で働きなんかしてさァ。
――異人相手にどんなサアヴィスを供していたか分かったもんじゃない。
親代わりとなってタエを可愛がってくれた支配人は事故の責任を取って辞職し、従業員も大半が辞めてしまった。
残った者はなんとかして客を呼び戻そうとしたが、ホテルの外壁には毎日のように『人肉スウプ』などの落書きが踊り、一日がかりで消しても、翌朝にはまた墨で黒々と罵詈雑言が書き付けられている始末。窓には石が投げられ、壁には人糞が撒かれ……店名を変えたところで何の役にも立たなかった。
ホテルが閉鎖されるまで、そう時間はかからなかった。
世間とは、己より弱い者を――身勝手な基準で「責められて然るべき」と判じた者を見つけると、ここまで残酷になれるものなのか。正義という看板を背負った集団は、ここまで無慈悲になるものか。
タエは泣いた。
私が目を離さなければ。働きなどせず家を守ってさえいれば。世間に責められるまでもなく、タエ自身がそう己を責め立てていた。
昼も夜もなく泣いて、泣いて涙も枯れ果てて、抜け殻のようになった時。
既に燃え尽きかけていた彼女の心臓を、こんな言葉が刺し貫いた。
――本当に事故なものかねえ? きっと、新しい男ができて、前の旦那の忘れ形見が邪魔になったに違いないよ。そうさ、そうに決まってる……




