四五 廃墟ホテル
爪が鉄壁を掻いている。
最初は風の唸り声に紛れてしまうほど微かな気配だったのに、ギリギリ、ガリガリという甲高い音が、次第に強く、激しさを増していく。逼迫した振動が肌を粟立てる。
まるで背骨に直接爪を立てられているかのような耐えがたい嫌悪感、そして恐怖が夏見を襲った。
もはや「爪で掻く」などと生易しい音では収まらない。
指の骨を削りながら掻き毟っている。
鉄の擦れる不快な音が耳の内側で反響する。あまりに大きな音で鼓膜が破裂しそうだ。たまらず夏見が耳を押さえるが、音を遠ざけることができない。
擦れた箇所から火花さえ散りそうなほどに激しい音が夜闇を裂き、貯水槽を揺らし、コンクリートの床を割り、土埃を上げ、荒れ狂う怒号のように廃墟ホテルを芯の底から震わせて――
バンッ!
突然、貯水槽が内側から叩かれた。夏見の肩がビクリと跳ね上がる。
バン! バン!
鉄を掻き、指を削る音の合間に激しい音が響く。
だが、だが……
その音からも察せられてしまうのだ。成熟した肉厚さを感じさせない音。力ない細腕で叩かれた幼い音。
きっと、全身の力を振り絞り、必死の思いで叩き鳴らしているはずなのに。その音の主の手の小ささを、腕の非力さをまざまざと感じさせられ、「ああ……」と夏見が呻いた。足も届かず、周りも見えず、逃げ場もないあの円筒の中で、あの子は!
「同調するな!」
背を向けたまま、蛇川が鋭い声を飛ばす。
「取り殺されたいか! 鬼の前だぞ、気を確かに保て! 毅然としろ、生きてここを出たければな!」
ぐぅ、と夏見が喉で唸る。身体の芯が凍ったように寒いのに、目と頭だけが燃えるように熱い。
「同調するな、しかし目を逸らすな。これが、あんたが今まで見ようともせず力任せに祓ってきたモノだ。鬼の理だ! その目にしかと焼き付けろ!」
上衣の胸元から取り出した〈鎮釘〉を蛇川が放つ。矢となって飛んだ三本の釘が鉄の貯水槽に突き刺さる!
――……
寸瞬。
音が、時が止まった。
次の瞬間、悍ましい鬼の咆哮が炸裂した。
頭の中を雷鳴が切り裂いたような、
耳元で太鼓を打ち鳴らされたような、
凄まじい轟音と共に貯水槽が破裂する。
タンクの中から黒々とした水がうねる濁流となって溢れ出し、激しい飛沫を散らしながら二人に襲いかかる。
思わず夏見が袂で顔を庇う。しかし蛇川は両腕を身体の脇に垂らしたまま身動ぎもしない。顔に飛沫がかかっても、灰褐色の瞳は呪われた貯水槽を見据えたままだ。
その視線の先に、ソレはあった。
青黒い塊。
そう形容する以外にない、醜いモノ。
その正体に気付いた時、口を押さえた指の隙間から夏見の悲痛な声が漏れた。
「あれは……!」
子供だった。
小さな子供の腐乱死体。岡部春生だ。
皮膚は水を含んで青黒く膨れ上がり、ところどころが裂けて白い皮下脂肪が覗いている。濡れた紙より脆くなった皮膚は、既に自重にすら耐えることができないのだ。
短い髪は束になって頭皮に張り付いているが、ほとんどが抜け落ちて残っていない。頭皮ごと崩れたのだろう。
眼窩は虚ろに開いているが、そこに収まっているはずの眼球はとうに腐り落ちている。穴に溜まった水が流れ、ふやけた頬を伝っていく。
紫色に腫れ上がった唇は、両の端が痛々しく裂けている。ずっと叫び続けたのだろう。助けを求めて。
手の指先からは全ての爪が失われていた。それどころか、崩れた指先からは骨の先端が覗いている。
きっと、かつては温かく湿っていたであろう小さな手。
土とお日様の匂いがしたであろう柔らかなその手が、何かを大事そうに抱きしめている。白くて丸い、幼子の腹ほどに大きなそれは……
「そうか。水の中で……君は、母を抱いていたのだな。今日までずっと。だから、そこにいたかったのか。誰にも邪魔されたくなかったのか」
小さく震える春生が縋り付いていたモノ。
それは、白骨化した、大人の頭蓋骨だった。
◆ ◆
二三の若さで男は死んだ。
西班牙風邪だった。妙に咳き込むようになってからわずか数日。病み衰える暇も、家族が悲しむ暇もなかった。あまりの大流行ぶりに『手當が早ければ直ぐ治る』と書かれた引札まで刷られて早期治療が呼びかけられたが、男は医者を待つ内に死んでしまった。
残されたのは、二つ下の妻と、産まれたばかりの息子だけ。
男の妻は名をタエといった。
両親は既に亡く、義両親も西班牙風邪に取られてしまい、頼れる兄妹も近くにいない。
早逝した夫の忘れ形見である春生を抱え、一時は心中を考えもしたが、追い詰められた母子を崖っぷちから拾い上げてくれたものがあった。つい最近開業したばかりの、豪奢な西洋風ホテルだ。
鳴り物入りで開業したにも拘わらず、西班牙風邪を恐れて働き手がまるで集まらないのだという。西班牙が感染源というわけではないのだが、正しい知識を持たない民衆は根拠もなく外国人を恐れた。海外からの利用客も多いホテルなぞで働きたがる者などいなかった。
タエにとっては地獄に仏だ。まだ首も座らぬ春生を布でしっかりと支え、おんぶ紐で背に結わい付けて、身を粉にして客室の清掃に勤しんだ。
幸い、無我夢中で働くうちに西班牙風邪の猛威もなりを潜め、ホテルにはハイカラな仕事に憧れる就労希望者がわんさか押しかけるようになった。
若くて愛嬌があり、働き者のタエは同僚の誰からも愛された。恰幅のいい支配人も、タエを娘のように可愛がった。
やがて春生が一人遊びができるようになると、従業員の控え室の一角に茣蓙を敷いてもらってそこで遊ばせ、タエは一層精力的に働くようになった。客前に出る仕事も任せられるようになった。
無論、まだ頑是ない春生を一人きりにさせる訳にはいかない。そのため、支配人も含めた従業員らが、休憩がてら、入れ替わり立ち替わりで春生の面倒を見てくれた。
たくさんの優しい小父ちゃん、小母ちゃんに囲まれて……春生は本当に、本当によく笑う子供だった。母親同様、皆に愛された子供だった。
好い仲になった同僚男性と三人で暮らすようになり、夫に先立たれた悲しみも徐々に癒え、そろそろ家庭に戻って春生に弟妹を作ってやろうか、なんて話をしていた矢先のことだった。
春生が、控え室から忽然と姿を消したのは。




