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骨董屋あらため  作者: 山路こいし
第一章 銀座綺譚
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四四 廃墟ホテル




 おずおずと、蛇川を招くように開いたドアの向こうには、やはり屋上が広がっていた。


 まだ冷たい春の夜風が吹き付けるのは、黒ずんだコンクリートの荒野だ。

 長年の雨で表面はざらつき、方々に苔がこびりついている。好き放題にセメントの上を走る(ひび)から顔を覗かせているのは、名も知れない逞しい雑草達だ。瓦礫と化した壁材が時折ひとりでに崩れ、虚しく土煙を舞い上げる。風が吹くたび、外れかかった看板が揺れてギィ……ギィ……と切なげな音を立てていた。


 周囲を囲む鉄柵は赤錆に崩れ、根元から折れて外に傾いているものもある。手摺はところどころで捻じ曲がり、絡み付く蔦によって辛うじて支えられているといった有り様。

 隙間から寂れた宿場町の明かりが遠くに瞬いて見えるが、その温かさは屋上までは届かない。足元には闇よりも昏い何かが澱んでいる。


 わずかに光を湛えているのは、月明かりを反射する濁った水溜まりだけ。

 排水溝が詰まっているのだろう。葉と虫の死骸が腐り、溶けて、形容しがたい悪臭を放っている。先程ドアの下から踊り場に漏れ出てきた水の正体はこれか?


 屋上の片隅には割れた植木鉢や椅子の残骸が転がっていた。かつてはここで従業員らが空を見上げて憩ったこともあったのだろう。

 しかし今は、時に忘れられ、打ち捨てられたまま朽ち果てていく思い出の残滓がかすかに香るばかりだ。


「寒い……」


 己の身を抱きしめながら夏見が呟く。

 確かに寒い。しかしそれは吹き付ける夜風のせいだけではないだろう。


 革靴で硬質な音を鳴らしながら、蛇川が長い脚で水溜まりをまたぐ。その視線の先では、星空が筒状に黒く切り取られていた。何か、大きな物が置かれていて、それが星の光を遮っているのだ。


「あれは……?」と夏見。


「貯水槽だな。井戸水を動力ポンプで汲み上げていたものらしい」


 当時、既に石油エンジンや電動モーターで水を汲み上げる自動ポンプは既にあちこちで導入されていた。が、常時安定的に稼働するという信頼性は低かったため、機嫌よく動いてくれるうちに水を屋上に汲み上げておき、落差を利用して各階に自然流下させる方式が一般的であった。都市部では水道設備が整いつつあったが、地方ではまだまだ井戸水が人々の生活を支える基盤となっている。


 鉄製の円筒タンクであった。


 大人の背丈を優に超える巨大な筒。それが、煉瓦で組み上げられた土台の上に鎮座している。

 その胴部からは太さも様々な管が伸びていて、まるで、身体のあちこちにゴム管を通され、死ぬことも生きることもできず病床に横たわる終末期患者かのよう。それが四機。重苦しいほどの威圧感だ。


 鈍く曇った鉄板の表面には、赤錆と土塊がまだら模様を描いている。錆の侵食によってところどころに穴が空いているが、水が垂れ落ちる様子はない。中身はとうに枯れていると見える。


 しかし、一機だけ様子が違った。


 ポンプが動いているのだ。低く、振動を伴う機械の駆動音が、荒れ果てた廃墟の中で異質に響いている。

 鉄製の、いかにも重そうな蓋がわずかにズレて小さな隙間を作っており、そこから満杯に貯められた水の気配が漂ってくる。


「電動ポンプを備えた貯水槽とは。廃れつつある宿場町をどうにか盛り上げようと、持ち主は相当奮起したらしい。片田舎のホテルにしては不釣り合いなほど、なかなか立派な設備じゃないか」


 だが。

 蛇川の視線が、今も虚しく稼働し続ける貯水槽の足元へと向けられた。


 そこには花束の残骸があった。枯れ果てた花弁は風に散らされたか、あるいは誰かに踏み荒らされたかして粉々になり、元の形を窺うべくもない。


「好奇心旺盛な子供の目には、いい遊び場に映ったのだろう」


 ハッと夏見が息を呑む。よく見れば、枯れた花の脇にはブリキの汽車や積み木らしきものも置かれて――いや、供えられていて……


 夏見の脳裏に、幼子の悲痛な叫びが蘇った。

 助けを求め、濡れた声で母を呼んでいたあの子……


「岡部春生……あの子は、ここで……」


 夏見がその名を口にした瞬間、ポンプが一際大きな音で唸ったかと思うと突如沈黙した。


 痛いほどの静寂が肌を刺す。


 蛇川は腰を沈め、革手袋の口に指をかけて辺りを警戒していたが、それ以上に動きがないのを見るとわずかに緊張を解いた。薄い唇から漏れる吐息には呆れと怒りが滲んでいる。


「……二度と、軽率にその名を呼ぶな。

 名がモノに意思と形を与えることはあんたも知っているだろう。鬼の名など、覚悟もないまま気安く呼んでいいものじゃない。次やったらもう一度打つぞ」


 視線もくれずに言い放つ蛇川に、夏見はひどく恥じ入り、押し黙った。



 十分な実力は備えているはずだった。

 自負に足る研鑽(けんさん)も積んできたはずだった。


 何体もの鬼を祓い、祭礼の補助もなく単独で神降ろしを成し遂げる稀有な存在として、鎮守会の総本山たる春日大社でもずっと頭角を現してきた。


 誰よりも努力したからだ。


 同輩が(いびき)をかいて寝ている間も大幣代わりの枝を振るって印の結びを練習したし、神を降ろす器となるための呼吸法だって身に付けた。

 何があっても動じないよう、眠る時以外はずっと祓詞を唱えてきた。目を瞑っていても正確に書けるようになるまで、何度も地面に陣を引いた。

 まだ親の温もりが恋しい年頃に母親を喪い、枕を濡らす夜もあったが、弱々しい姿を見せては付け込まれると笑顔の仮面も身に付けた。


 なのに、今の自分はどうだ。


 神降ろしの途中で呼吸を乱し、神罰を受けそうになったところを蛇川に救われて。

 子供の声で叫ぶ鬼への戸惑いに囚われ、不用意に鬼の名を呼ぶ禁忌を犯し、境界を危うくさえしてしまった。

 力尽(ちからづく)で祓い切ろうとした夏見の前では怒りに震えていたドアも、蛇川の前では身を委ねるよう静かに開いて……


 骨董屋を名乗るこの男を前にすると、自分がひどく矮小に思えて仕方がない。

 実績を積み重ねることで少しずつ膨らませてきた自信も、今は、穴の空いた紙風船のように力無く萎んでいる。

 

 圧倒されているのだ。気圧されている。

 人として、鬼に対峙する者として。今の夏見では到底届かない場所に、蛇川はいる。


 恥ずかしい。情けない。――口惜しい。



 その時だった。

 いくつもの感情に押し潰されて俯向く夏見の耳に、どこからか、水の跳ねる音が届いたのは。


 弾かれたように夏見が顔を上げる。水の音に混じって、カリカリ、カリカリ……と耳障りな音も聞こえてくる。


「己の慢心を恥じるのは結構だがね」


 気付けば、前に立つ蛇川の身体が極度の緊張によって膨らんでいた。カリカリ、カリカリ……小さな物音はその間も絶えることがない。


「そいつは無事にここを出てからにしたまえ、夏見くん」


 カリカリ、キリキリという不快な音が、次第に強くなっていく。音の出処は貯水槽だ。あの、今もポンプが動いている……


「……あ、ああっ!」


 それが、水に満たされた貯水槽を()()()()引っ掻く爪の音だと気付いた瞬間。


 己の意思と関係なく、夏見の喉が悲鳴を上げた。



 

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