四二 廃墟ホテル
吾妻から返ってきた〈男紙〉には、少し濡れたらしい跡があった。道中で雨に降られでもしたのだろう。
あえかな蝶の飛翔による旅路は非常に険しい。
思念を辿ってくるため道に迷うことはまずないが、鳥の気紛れで啄まれたり、雨風に破れたりすることも珍しくない。建物に迷い込んで身動きが取れなくなることだってあり得る。
間隔をあけて三通は飛ばすよう指示を出したが、一通だけでも無事に戻ってきたのは僥倖だった。
蝶の姿で休まず飛び続けたとて、帝都は遠く離れている。障りなく進んだとしても片道で一昼夜はかかるはず。向かい風や雨に遭えば二晩は必要だ。
きっと、蛇川から〈女紙〉が届くなり大急ぎで調べて紙に書き付け、すぐさま蝶を飛ばしてくれたのだろう。
しかし、だ。
〈男紙〉の末尾にはこんな落書きが添えられていた。
『實ニ恐ロシキハ鬼ヨリモ無聊ト知ル。早ウ戻レ。御身ヲ大切ニ』
末尾は『〆』の字で結ばれているが、字の先端に顔と尾を描き足して、舌を出した蛇の姿に工夫されている。
相棒の幼稚な遊び心に、蛇川は呆れたようにため息をついた。
とはいえ、この状況下では、吾妻が寄越した情報ほど心強いものはない。五日に及ぶ探索で蛇川もある程度推論を固めてはいたが、これで確信を持って事に当たることができる。
――鬼に堕ちた魂に救う価値なんてありませんよ!
夏見の悲痛な叫びが蘇る。
深過ぎる傷を負った者が選ぶ方法はさまざまだ。
傷から目を背ける者、痛みに同調して沈む者。そして、耐えきれず死を選ぶ者……。夏見はきっと、傷を与えた相手を――父を、鬼を怨み憎むことで、なんとか己を保ってきたのだろう。
青い熱に駆られて手痛い失敗をしなければ良いが。
再度頭の中を整理し、手早く荷物を片付けると、蛇川は鬼の本丸であろう場所へと急いだ。
夏見少年が向かうとすれば、恐らくはそこだろう。
◆ ◆
果たして夏見はそのドアの前にいた。蛇川が何度試しても開く気配を見せなかった、屋上へと続くドアだ。
そうと予測はしていたものの、実際に目の当たりにすると少しばかり感心してしまう。
夏見がこのホテルに入り込んでからそう時間は経っていないはずだ。にも拘わらず、この場所こそ要であると早々に見抜くとは。彼が言った「なかなかやる」という自負は、あながち間違いでもないらしい。
夏見はドア前の踊り場に屈み込み、木炭で床に陣を書きつけていた。その周囲には香皿に乗せた印香がいくつも配置され、直火で燻々と細く煙を立てている。蛇川が鼻をスンと鳴らした。
「白檀か」
「わや! お前いぎなり……あ」
前触れもなく話しかけた蛇川に驚いたものか、夏見が素っ頓狂な声を上げる。
思わず口をついて出てしまったのだろう。漏れ出たお国言葉に慌てて夏見が口を押さえるが、もう遅い。蛇川の顔にはニヤニヤと意地の悪い笑みが浮かんでいた。夏見の狼狽ぶりを面白がっているのだ。
「ははあ、それで必死に都会ぶっていたわけか。郷里は北の奥地と見える」
「し、仕方ないでしょう! それが生まれってやつなんですから……なのに皆んな揶揄うんだ。祓詞も訛ってるぞって」
「そりゃまずい。だが、普段は別に構わんのではないか。訛っていようが、吃っていようが」
夏見がわざとらしいほど丁寧な言葉を使うのはこのためか。きっと、散々訛りを揶揄われてきたのだろう。
少し顔を赤らめたまま、荒い手付きで襟を正した夏見が「とにかく!」と強引に話を切り上げる。
「もう問答も説教もいりませんよ。僕はただ自分の為すべきことに集中するのみです」
「どうぞ。存分にやりたまえ。僕はただ見物するのみだ」
むう、と夏見が口を尖らせる。
この男を前にすると、いつもの自分を崩されるようでむしゃくしゃする。もっと、余裕たっぷりに振る舞えるはずなのに。この、全てを見透かすような灰褐色の瞳が、嘲笑に歪められた薄い唇が、わずかな虚勢も戸惑いも見逃してくれない……
陣を書き終えて要所に護符を貼り付けると、木炭で汚れた手を拭い、裾を払って夏見がその中央に着座する。幾何学模様で人の顔を模った雑面を取り上げると、ほう、と蛇川が無邪気に声を上げた。
組紐で面をつけながら、夏見が横目で蛇川の様子を窺う。蛇川は、懐から取り出した女物の煙管を長い指で弄んでいた。
「本当に、邪魔はしないでくださいね」
「しつこいな。手も足も出さんさ」
「口も」
蛇川が無言で目を伏せて両の掌を見せる。
フン、と小さく鼻を鳴らし、沈黙を守るドアへと夏見が向き直った。咳払いをし、軽く肩を揺すり、尻の据わりを確認する。
全ての雑念を意識の外へ。
これより夏見は人ならざるモノと成るのだ。
目蓋を閉じ、音を立てぬよう鼻から大きく息を吸う。鼻腔を通り、喉を過ぎて肺に至った空気が胸を豊かに膨らませ、全身を駆け巡り、肉の器を気で満たしてゆく。
深く息を吐き出しているはずなのに、麻の雑面は顔の前でピクリとも震えない。次第に胸の動きも小さくなっていく。
息を止めているわけではない。だが、回を重ねるごとに、呼吸による身体の反応が失せていく。特別に修得した呼吸法であろう。呼吸という、魂を肉に縛り付ける軛を排したことで、夏見から人間らしさが一枚また一枚と剥がれ落ちていく。
ゆったり数度、森森と呼吸を繰り返した後。
静かに目を半眼に開いた夏見が大幣を取り上げた。
それだけで空気が一変する。
肌を刺すような緊張感と、厳かな気配が辺りを包む。
少女じみた顔からは驕りの滲む笑みがすっかり消え失せ、感情の剥がれ落ちた丸い瞳は凪いだ海のようだ。穏やかだが深く、底知れない。
雑面をつけ、呼吸の気配を排したことで、夏見は現人神と成ったのだ。神降ろしだ。人ならざる鬼と対峙するために、夏目自身もまた、人ならざる神と成ったのである。
「祓え給ひ清め給へ、神ながら守り給ひ幸へ給へ」
左手で幣串を掴み、右手を傍らの麻袋に突っ込んで、取り出したもの――塩と米を混ぜたものらしい――を三度続けて辺りに撒く。大幣を静かに左右中の順に撫で、一撫一吻、撫でるたびにそっと息を吹きかけて穢れを散らす。撫でて穢れを絡め取り、息で清め、また撫でて……
どうしてなかなか、堂に入った姿である。
低い声で祓詞を唱え、落ち着き払って大幣で印を結ぶ夏見の姿には少年らしからぬ風格があった。
いったいどれほどの研鑽を積んできたのだろう。
ただ一人で神を降ろして鬼を祓うのだ、その胆力たるやいかほどか。
極限まで集中しているためだろう、雑面の下の夏見の顔にたちまち玉の汗が滲む。風もないのに萌黄色の長着がブワリと膨れ、淡い揺らぎが夏見を包む。栗色の瞳から徐々に色が失われていく。
扎、扎と大幣が振られるにつれ、重厚なドアが小さく震え始めた。清めの塩が撒かれるたびに、古い木が軋むような、硝子を掻くような不快な音が響く。
夏見の顔が赤らみ、大幣を握る手にまで汗が浮かび始めたころ、小さな震えはホテル全体へと伝播していた。
壁に取り付けられた電灯の覆いが割れ、壁面に大きな亀裂が走り、天井からは埃と木屑が降ってくる。
壁紙がズルリと剥がれ落ち、黒ずんだ染みだらけのコンクリート壁が露わになる。廊下に飾られていた絵画は端から腐り、赤絨毯は毛羽立って縮み、閉ざされたドアの下から濁った水が溢れ出してくる。
まやかしのホテルが、徐々に本性を現していく。
祓詞に身を捩り、苦悶の声を上げながら、寂れた廃墟の姿を晒していく。醜悪な鬼の体内が露わになる。
ドアの向こうで、何かが激しく打つかる音が鳴り響いた。
しかし夏見は動きを止めない。大幣を撫で、息を吹きかけ、塩と米を撒く。ドンッ、ドンッと何者かが暴れ狂う音が次第に激しさを増していく。
間断なく祓詞を唱えながら、傍に置いていた神楽鈴に夏見が手を伸ばした。
――シャン!
大幣が立てる幽けき麻の擦れ音を切り裂き、神楽鈴が打ち鳴らされる。ドアが悲鳴を上げるように軋み、さらに一層大きな音が凄まじい振動となってホテルを揺らした。
息を吐くことすら憚られる空気の中で、蛇川が静かに煙管をふかす。
まだ十七、八の少年がこれを一人でやり切るのか。蛇川の肌が薄く粟を立てる。鎮守会の市川團十郎、などと軽口紛れに嘯いていたが、確かに、人々はこの少年の姿に神を見るだろう。
神楽鈴を打ち鳴らす間隔が次第に短くなっていく。
夏見の全身から汗が散る。
腕は激しく振り動かされているのに、呼吸の気配を一切感じさせないその姿は、もはや人の領分にない。
耳を貫く鈴の甲高い音が鳴り響き、共鳴し、幾重にも反響して、ホテルを揺るがす轟音と溶けて不愉快極まりない旋律を奏でる。
やがて、一際強く神楽鈴が打ち鳴らされた時。
耐えられぬ、とばかりにドアが苦痛の絶叫を上げた。
……しばしの静寂。
次の瞬間、
沈黙を守っていたドアが、ついに、凄まじい怒号をあげ、弾けるように開け放たれた。




