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骨董屋あらため  作者: 山路こいし
第一章 銀座綺譚
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四十 廃墟ホテル




 さしもの蛇川といえど、今回は分が悪かった。


 なにせ、情報を得る(すべ)がほとんどないのだ。

 依頼人から話を聞いたわけではないため概要すら掴めず、簡単な旅支度で出てきたため過去の記録を当たるわけにもいかない。


 無駄と分かりつつ顔のない客やベルボーイと会話を試みもしたが、やはり返答はなく。花魁の手鏡に吸い込まれた時とは異なり、蛇川の存在は"在るもの"として認識されているらしいが、身振り手振りだけでは会話にならない。

 躍起になり、二者択一の問いを重ねて意思疎通を(はか)りもしたが、従業員らはただ客をもてなすことに喜びを覚え、客らは滞在を楽しんでいるという、ごく当たり前の、ホテルとして理想的な営みが行われていることが分かったのみだった。


 唯一まともに会話ができる浜野も、このホテルについては何の知識も持っていなかった。蛇川同様、偶然行き合っただけらしい。


 せめて、このホテルがどういう経緯(いきさつ)で廃墟となったかさえ分かれば……


 既に手は打ってある。が、身を結ぶかどうかはある種の賭けだ。今自分にできる最大限をやらねば。


 蛇川は目の前のドアを睨み付けた。

 重厚感を備えた木製のドアである。配置的に、おそらくこの先には屋上があるはずなのだが、上部に設けられた明かり取り用の磨りガラスが切り取っているのは一切の光を通さぬ闇だ。しかし背後の窓からは夕陽が射し込んでいる。さて、これをどう見るべきか?


 もう何度目だろうか、蛇川は無骨な真鍮の把手を掴んだ。しかしドアはピクリとも動かない。

 施錠されているためではない。鍵のせいであるならば、手には多少の遊び(ガタつき)が感じられるはずだ。沈黙という圧を纏い、梃子でも動かぬ頑丈なドアは、まるで蛇川を拒んでいるかのよう。


 己以外の者が皆まるで同じ言動を繰り返す、悪夢のように退屈な一日を五回も繰り返す間に、ドアというドアを押し、窓という窓を開けて、あちこちで無言の顰蹙(ひんしゅく)を買いながら手掛かりを求め回った蛇川だ。施錠されたドアもあったが、遠慮なく蹴破らせていただいた。さすがに普段はそこまで堂々と狼藉を働きはしないが、ここは治外法権だろうと雑に腹を括っている。


 しかし、このドアだけはどうしても動かすことができない。

 何かある。絶対に。しかし、それを見せてやろうという気が鬼の方にないようだ。


「何が望みだ。何を怨んでこんなことを……罪もない初老の男を虜にして、あんたは何をしたいんだ」


 唸るように蛇川が問い掛ける。しかしドアは答えない。

 〈鎮釘(ちんてい)〉を打ち込んでも、煙管の煙を吹き掛けても何も反応を返さぬドアに、蛇川は小さくかぶりを振った。



 浜野は気付いていない。


 死に時と死に場所を求めて旅に出た己が、既にこのホテルに取り殺されていることに。


 哀れな浜野は……毎日、ただ毎日、絶望に押し潰された脚を引き摺り、春先の冷たい雨に打たれながら宿場町を彷徨い歩いて、ちょんの間のつもりでホテルの軒先を借りていたところをドアマンに招き入れられ、思いがけず歓待を受ける運びとなり、人の優しさに感激しながら肉の塊に舌鼓を打つのだ。

 用意された寝台の柔らかさに驚き、無精髭まみれの窶れた頬を枕に押し付け、生まれて初めて神々に感謝しながら眠りにつく。知らず目元と枕を濡らしていたことに目覚めてから気付き、少しばかり恥ずかしくなって、苦笑しながら荷造りを急ぐ。


 何度頼み込んでも謝礼を――工員時代に買った揃いの背広ぐらいしか渡せる物はなかったが――受け取ろうとしない支配人の手を押し戴き、知る限りの謝辞と賛辞を述べ、ここで受けた情は決して忘れない、失敗ばかりの人生の中で唯一光に触れた心地でしたと、また涙を流す。

 やがて支配人とベルボーイらに見送られ、浜野はホテルを後にする。ハットを持った手を大きく振って、建物がすっかり見えなくなるまで何度も何度も振り返りながら。久方ぶりで血の色を取り戻した顔には少年のような笑みが浮かんでいる。


 しかし数分後、浜野は再びホテルへと舞い戻る。


 絶望に身を震わせ、

 雨に濡れた身体を縮こませ、

 何の喜びも希望も見出せない昏い目をして……



 蛇川は決して正義漢ではない。

 道徳心の手持ちは常に切らしている。

 吾妻のように義理と人情で動く類いの男でもない。


 だが、浜野に対するこの仕打ちは……

 救いの手を差し伸べ、温かな希望で生きる気力を与えておきながら、すぐにまた絶望の底へと突き落とすこの仕打ちは……他者の魂を弄ぶかのごときこの仕打ちは、あまりにも胸糞が悪い。


 恐らく、浜野は今頃、戸惑いながらも大食堂に通されていることだろう。肉汁滴るステエキを前に、「おほっ」と目を輝かせているに違いない。


 このホテルに呑み込まれてからというもの、蛇川は一度も食事に手を付けていない。

 伊奘冉(イザナミ)黄泉竈食(よもつへぐい)を口にしたため現世に戻れなくなったのだ。鬼が供する食事をどうして平気で食べられようか。時間感覚が狂っているのか、あるいは生と死の狭間にいるためか、不思議と腹が減らないことが救いだった。


 今回は、また浜野への質問内容を変えてみようか。もしかすると、うまく聞き出せていないだけで、意外なところに浜野とホテルの接点があるやもしれぬ。

 そう考えて大食堂に向かった蛇川だったが、その入り口に差し掛かった途端に目を剥いて足を止めた。


 食堂に、()()()()()がいる。


「やはり、牛の肉には赤ですよ、赤! あ、でもポートワインは甘ったるいからいけません。あんなの婦女子の飲み物ですよ。ねえお給仕さん、ボルドオ産のワインって置いてます?」


 陽気にはしゃいでいるのは、まだ若い少年だった。親しげに浜野の肩を抱き、顔のない給仕を呼び止めてワインを注文している。


「い、いや、生憎だが私には手持ちが……」


「ご心配なく! 僕が喜んでお支払いしますよ。浜野さんの()()()()に幸あれかしと!」


 立ち襟シャツの上から萌黄(もえぎ)色のウール着物を纏い、角帯を貝口に結んだ書生風の出立ち。

 そこまではいいが、なぜかそこに、女物らしい西洋花柄の肩掛けを羽織っている。頭に載せたカンカン帽にはレエスのリボンで白い羽飾りを巻き付け、大きな蝦蟇口(がまぐち)鞄を細い鎖で斜め掛けにした、なんとも珍妙な扮装の少年だった。


 趣味のよさを気取っているように見えるが、その実、手近にあったハイカラらしい物をただ身に付けただけなのは明らかだ。それが女物かどうかも分かっていない辺りが、少年の「洒落た都会っ子」ぶりがハリボテであることを雄弁に物語っている。


 浜野のように、また人が迷い込んでしまったか。

 蛇川は一瞬身を強張らせたが、しかし、こちらを向いた少年の顔を見るなり、そうでないことを悟った。


 少年は、自信たっぷりの笑みを浮かべていたのだ。

 浜野のように生きることに疲れ切ったわけでも、何も分からぬまま紛れ込んだ愚か者でもないらしい。となると、一番厄介で、面倒臭い……


 少年が胡桃型の大きな目を輝かせた。


「驚いたなあ、こんな所に好き好んで入ってくる人が僕以外にもいたなんて」


 帽子を取り、芝居がかった仕草で胸に当てて、少年が軽くお辞儀する。


「はじめまして。鎮守(ちんじゅ)会で祓方(はらえかた)巫覡(ふげき)をしております、夏見(なつみ)と申します。お兄さんは同業の方でしょうか? それとも、うっかり迷い込んでしまったお莫迦さん?」


 鬼の気配に満ち満ちた場所にも拘わらず、夏見少年は、何の気負いもない様子でクスクスと笑った。



 

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