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骨董屋あらため  作者: 山路こいし
第一章 銀座綺譚
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三九 廃墟ホテル




 事の発端は数日前。


 その日、蛇川は所用で帝都を離れていた。

 汽車に乗って高尾山を越え、甲府盆地を抜けて塩尻へ。そこで汽車を乗り換えて木曽路まで出て、手頃な宿で一泊する算段だった。なにせ翌日には峠越えが控えているのだ。平地は春の息吹で和らいでいるが、野麦峠にはまだ雪も多く残っている。万全の体調で臨まねばならない。


 なのに、見つけた。見つけてしまった。

 かつて隆盛を誇ったであろう街道筋の宿場町。そこに建つ西洋風のホテルを――いや、時に取り残されたかのような、ホテルの廃墟を。


 ある種の威圧感を湛えた廃墟であった。

 煉瓦の壁には蔦が這い、入り口の硝子戸は割れ、傾いた木枠を錆びた蝶番(ちょうつがい)が辛うじて繋ぎ止めている。戸口の上には気取った書体と装飾で彩られた「HOTEL」の看板が掲げられているが、生い茂る葉に隠されて店の名前は判然としない。風もないのに、建物の中から湿気った木と紙のにおいが漏れ出てくる。


 いかにも廃墟然とした廃墟だ。

 だが、この手の廃墟にしては不自然なほど、人の手で荒らされた形跡がほとんどない。ただ時と風のために少しずつ朽ちていったように見える。


 すでに衰退の途上にある宿場町に建つ廃墟だ。買い手が現れないまま打ち捨てられるのは理解できる。だが、その場合、廃墟はまず内から外から掠奪の憂き目に遭う。次いで、ならず者連中の根城となる。宿場町など、必ず土着のヤクザがいるのだから尚更だ。

 にも拘らず、この廃墟にはそうした形跡がほとんど見られなかった。なぜなら……


「なんとまあ、禍々しい……」


 廃墟を前に、蛇川が呟く。


 そう。その廃墟には、人ならざるモノの気配がそれはもう色濃く漂っていたのだ。そのために、虫や獣も、雨風を凌げればなんだっていいはずの浮浪者さえも、迂闊には寄り付けずにいるらしかった。


 蛇川はしばし思案した。


 ――このまま放っておくか?


 蛇川はいくつか己に(しばり)を課している。その縛を破れば魂で(あがな)うこととなるが、従順でい続ける限りは魂を守る鎧となる。

 その縛のひとつが「〈空鈴(からすず)〉を鳴らした依頼人(クライアント)が請えば、求めに応じて鬼を斬る」というものだ。しかし、今回蛇川は依頼人の頼みでここへ来たわけではない。ただ偶然行き合ってしまっただけだ。縛の強制力は発生しない。

 それに、ここは帝都から随分と離れている。たとえ鬼を斬ったとて、蛇川の探し物はきっと見つからないだろう。


 幸いにも、そのままにしておいても、きっと誰も寄り付こうとはしない廃墟だ。よほど追い詰められた者か、恐れ知らずを装った莫迦でなければ、あのおどろおどろしい硝子戸を潜ろうなどとは思うまい。


 見なかったことにして、適当な宿に入ればいい。二等客車を取ったとはいえ、長時間汽車に揺られたおかげで身体は心地よく疲労している。

 宿に入って湯をもらい、岩魚の塩焼きを肴に酒を飲もう。女を呼んでもいい。そうだ、それがいい。それでいいに決まってる――


「ええ、くそッ!」


 忌々しげに歯噛みし、こめかみを掻き、地団駄を踏んでいた蛇川だったが、やがて、トランクを引っ掴むと、長い脚を蹴り出すようにして真っ暗な廃墟へと飛び込んだ。



 入り口を跨いだ瞬間、強烈な眩暈が蛇川を襲った。まるで悪い飲み方をした酒の酩酊のようだ。


 耳の奥で鐘が鋭く撞き鳴らされる。平衡感覚を失った身体がグラリと揺れ、浮いているのか沈んでいるのか、立っているのか倒れているのかも分からない。

 世界がぼやけ、灯りひとつない廃墟にいるはずなのに、滲む視界の片隅を黄色い電光が駆け抜けて行ったような……


 やがて、目に映るものが再び明確な像を結んだ時。


 蛇川は、煌々と輝くエントランスホールに立っていた。

 高い天井から吊るされたシャンデリアの明かりが、蛇川の影を毛足の長い絨毯の上に伸ばしている。


 電灯に照らされた明るいロビーでは、背の高い人々が行き交い、笑いさざめいている。燕尾服姿の男が階段脇に置かれた洋琴(ようきん)を奏で、それに凭れかかって演奏に聴き入っているらしい女が洋酒のグラスをあおる。盛んに何かを話しているが、話の内容も判然としない雑多な声が耳をくすぐる。


 その誰もが顔を持たなかった。目も鼻も、口もない。凹凸さえない。のっぺらぼうである。


 顔のないポーターが現れて一礼し、腰を屈めてトランクを受け取ろうとするのを片手で制し、蛇川が小さく唸った。


「参ったな……これはまた、大変な大物を引っ掛けてしまったらしい」


 念のため背後を振り返る。(ひび)どころか、曇りひとつなく磨き上げられた硝子戸が堂々と(そび)えているが……

 ひと目見れば分かる。あれを潜ったとて、もはや外には出られまい。このホテルの主が――とうに潰えた廃墟をホテルたらしめている情念の主が、ここから帰してはくれぬだろう。今、蛇川は鬼の腹の中に囚われているのだ。


 そのまま首を巡らせて辺りを観察していた蛇川だったが、


「……すでに迷い込んでいたか」


 視線の先。大食堂の一角には、嬉々としてナイフを肉に差し込む浜野昭三の姿があった。


 さて、彼は救いようのない莫迦者か。

 あるいは、よほど追い詰められ、生と死の境界線にも気付かぬまま招き入れられてしまった哀れな男か……



 

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