三八 廃墟ホテル
汽車が到着でもしたのだろうか。
春の風の匂いをまとった客が続々と訪れ、人々の騒めきと足音がエントランスホールに響いている。
気難しい顔をした実業家風の男から恭しく椿屋根鞄を受け取る客室係。マホガニー製の重厚なデスクに置かれた真鍮のベルを鳴らして遊ぶ子供に、慌ててそれを叱り付ける母親らしき女。
光沢のある短毛で覆われたソファに身体を沈ませた男女が、紫煙を燻らせながらボオドレエルの『悪の華』について談義している。煙草の煙ひとつを取っても、敷島やゴールデンバットなどの馴染みある銘柄はもちろん、倫敦から取り寄せた葉をパイプに詰める者、古巴産の高級葉巻をふかす者など和洋混合の有様だ。
ロビー脇の電話室からは交換手を怒鳴りつける声。階段に敷かれた赤い絨毯の前で履き物を脱ぐ婦人に向かい、「そのままで結構でございますよ」と、詰襟に似た制服姿の小洒落たベルボーイが微笑みかける。
なんと豪奢で文化なホテルだろう。
ロビーを抜け、電灯シャンデリアの下を通り、大食堂の席へと案内されながら浜野昭三は感嘆の吐息を漏らした。
笑えるほど背の長い椅子を引いてくれた給仕人が、一礼をして下がっていく。つられて浜野も会釈を返す。
入れ違いでやってきた別の給仕人が、湯気をたてる料理を運んできた。
「おほっ」
浜野は満面に喜色を浮かべた。石の皿の上では分厚い肉の塊が肉汁を溢れさせ、野生味のある芳ばしい香りを放ちながら、ジュウジュウと脂を跳ねさせている。
目から、鼻から、耳から食欲を刺激され、浜野の腹がグゥと切なげな声を漏らした。なんと雄々しい塊肉か。これがビイフステエキと呼ばれるものだろうか。新聞記事で読んだことはあるが、お目にかかるのは初めてだ。ましてや食すなど!
気取られぬようそっと左右に目をやり、周りに倣っておっかなびっくりナイフとフォークを手にする。見様見真似でナイフを肉に差し込むと、期待通り、ナイフは吸い込まれるように肉へと沈んでいった。
慣れないナイフに苦心しながら、なんとか切り分けた肉塊を口に運び、咀嚼する。口を閉じた瞬間、いや、歯が肉を捉えた瞬間、浜野の顔が恍惚の表情でとろけた。噛むたびに弾ける肉汁が唇からこぼれそうになり、慌てて袖で拭う。
なんという柔らかさ、そして心地よい歯応え! 誰の足跡にも汚されていない白雪のように軟くありながら、しかし繊維の噛み応えも感じられる絶妙な焼き加減。石の皿で熱せられたソースの、少し焦げた醤油の香りが口から鼻へと抜けていく。
ああ、なんという贅沢。人の親切のなんと温かなことよ。
捨てる神あれば拾う神ありとはまさにこのこと。腹の底から感動が迸り、浜野は思わず涙ぐんだ。
帝都東京の華やかさに憧れた浜野少年は、尋常小学校を卒業すると同時に上京した。
住み込みで印刷所に勤め、昼は手も顔もインキ塗れにしながら必死に働き、夜は高等学校出の先輩工員から算術を学び、がむしゃらに金を稼いだ。
酒は飲んだが煙草と女遊びには手を出さず、真面目に働く姿が気に入られたか、所長の姪を嫁にもらい、四人の娘にも恵まれた。妻が肺を病み、療養所や湯治通いが必要となってからは、寝る間も惜しんでさらに働いた。
しかし、病床に臥せる妻が吐いたのは憎しみの言葉だった。
――お前様が契りを結ばれたのは私ではありません。印刷機なのだわ。
――娘達が初めて立った日も、歩いた日も、麻疹にかかって死の淵を彷徨った日もお前様はお留守でしたね。あの子の嫁入り前夜でさえ……
長患いで骨のように痩せた妻が真実骨となった時、浜野の手には何も残っていなかった。妻は死に、嫁いだ娘達は病床の母を顧みもせず働き通しの父を身限り、中陰が明けてしまうと生家には寄りつこうともしなくなった。
唯一残されたのは、ずっしりと重い給金袋だけ。薬を求める必要も、湯治に出かける必要ももはやなく、使い途を失った給金袋を前に、浜野はようやく己の過ちに気が付いた。
守るべきものを護るために働いていたつもりでいたが、自分はただ、病み細っていく妻を恐れ、娘達の成長に戸惑い、家庭に居場所を見出すこともできず、職場という慣れ親しんだ環境に逃げ込んでいただけだったのだ。
何も告げぬまま仕事を辞め、最後の給料を等分にして娘達の嫁ぎ先に届けると、浜野はほとんど身ひとつで帝都を去った。
どこへ行こうという当てもなかった。
目的も希望もなく、その手から取り溢したものを探し求めて彷徨うだけの、ただひたすらに虚しい旅路……
まさか、その道中でこんな僥倖に巡り合うとは。
軒先で少し雨宿りさせてもらうだけのつもりだったが、微笑みをたたえたドアマンに招き入れられ、恐縮しながら浜野がホテルに足を踏み入れたのが四半刻ほど前のこと。
窶れた浜野の姿に思うところがあったのか、支配人らしき恰幅のいい男に訳を聞かれ、身の上話をしているうちにこんな歓待を受ける運びとなったが、狸に化かされているんじゃないか、あるいは夢でも見ているのかという気持ちが今も抜けない。しかしステエキは確かに口の中でとろけていくし、銀食器の冷たさは葉っぱが化けたものとは思えない。
「君も早く食べたまえ! せっかくの馳走が冷めてしまうぞ!」
ハフハフと肉を頬張り、付け合わせの馬鈴薯にナイフを入れながら、同席の客に浜野が叫ぶ。
その客は、生の芽吹きを感じさせる春の匂いとはおよそ縁遠い、肌を裂く厳冬の寒気を凍り固めたような白皙の美男子であった。物珍しい灰褐色の瞳が倦んだ様子で細められている。
趣味のいい三つ揃えスーツが映える長い手脚。
香油で丁寧に撫で付けられた榛色の髪。
知謀の宿る切れ長の目は睫毛に縁取られ、その瞳の動きひとつで空気まで揺らぐ気がする。
若造の有する放埒な色香でもない。
女が纏う危うげな艶気でもない。
人を惑わせ惹きつける妖しい性と、人を拒むほど清廉な色が見事に調和した魔性の美……
知天命(五十歳のこと)を過ぎた男寡の浜野が見ても、思わず生唾を呑んでしまうほどの容貌だ。もしかすると、この男こそ化け狸が作り上げた幻やもしれぬ。
「……牛の肉はお食べにならない主義かな」
どことなく気まずくなり、少し上目遣いに尋ねてみると、男は呆れたようにため息をついた。
「あんたにそれを訊かれるのはもう五回目だ……浜野昭三さんよ」
「はて、どこかでお会いしたことがあったかな? 君ほどの男に会えば、そうそう忘れもしなさそうなものだが」
ふうむ、と首を捻っていた浜野だったが、ひと呼吸置いてから不思議に思い至った。
「君は……なぜ私の名を知っているんだ?」
男はいっそう目を細めると「やれやれ」と肩を落とした。
「あんたがそう名乗ったからだよ、浜野さん。そして僕も四度名乗った。蛇川真純だ、どうぞよろしく。これで五度目だな」
「五度目?」
「五度目? そうだ五度目だ」
「なぜ私の言うことが先に分かるんです」
「なぜ私の言うことが先に分かるんです、ハ! そりゃ何度も繰り返していたら嫌でも覚えるさ」
「き、君はまさか覚とかいう物の怪なのかね」
「き、君はまさか覚とかいう物の怪かね……あ。少し間違えたな。いや、いや、やめよう、こんな遊びは。面白くも何ともない」
浜野が漏らす狼狽の声を、呼吸まで合わせて、そっくりそのまま真似てみせる蛇川。
これはいよいよ化かされているのやも。
浜野は食べカスを口髭にぶら下げたまま、すっかり味をなくしてしまった肉を力なく噛み締めた。




