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骨董屋あらため  作者: 山路こいし
第一章 銀座綺譚
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三七 夜を騒がす馬車のこと




 そう時を置かずして、往来に大荷物を載せた大八車が現れた。前で男が引くのを後ろから女が押し支えている。夫婦だろうか。

 月明かりだけではよく見えないが、腰の曲がり具合からすると若人ではなさそうだ。初老の域はとうに超えていると思われる。少し、意外だった。


 大八車の車輪が石畳を踏むと、途端に音が硬質に変わった。続いて、女が荷台から取り上げた桶らしきものを石畳に打ちつけ始めると、たまらず静江の口から「ああ……」と嘆息が漏れた。

 これだ。この音だ。ずっとこの音に恐怖していたのだ、自分は。その正体を知り、間近で聞けば、なんということもない音なのに。


 蛇川の言う通りだった。腹立たしいけど、口惜しいけれど、彼が正しかった……自分はなんと莫迦だったのだろう。

 旧約聖書にあった通りだ。思い込みの力が敬虔な信者の健康を守り、思い込みの力が静江の耳を曇らせていた。


 恥ずかしさと情けなさで俯向く静江の隣で、吾妻がたがめすがめつ往来の人物を観察しながら呟いた。


「なんだか……ごくごく普通の老夫婦に見えるけど。いったいなぜこんなことを……」


「シッ! よく見ろ、もうひとりいるぞ」


 蛇川の目線を追えば、天水桶の脇にもうひとつ人影があった。その近くにはこの往来で唯一終夜点灯されている街灯が立っていて、明滅する頼りない明かりが人影を薄く照らし出している。

 最初は仲間かと思った。しかし、人影はその場から動く気配がない。明かりが届くギリギリの場所に潜み、馬車幽霊を装う老夫婦を観察しているようにも見える。何やら手元を忙しなく動かしているらしいその人影に、蛇川が押し殺した声で「そうか!」と小さく唸った。


 新鮮で話題性のある贋物(にせもの)の餌。

 それを面白がって、我先にと飛び付いてくる輩……


 覚えのある思考だった。『いわた』でりつ子と交わした軽口と、目の前の状況がピタリと符合する。


「なるほど、馬車幽霊の目的はこれか! 幽霊騒動は、騒動の性質にも、場所にも大して理由はなかった……いや、あるにはあったが、ともかく、奴らは騒ぎを起こせさえすれば良かったのだ」


 ひとり納得している蛇川に、吾妻と静江が顔を見合わせる。


「ええと……つまり、あの人達は世間から注目されたかったってこと?」と吾妻。


「莫迦を言え、答えが目の前にあるだろう。

 女学生らが深夜の怪音を馬車幽霊と勘違いする。口さがない女学生らによって、噂はたちまち世間に拡がる。拡がれば、さてこれは面白い記事が書けるぞと飛んでくる輩がいるわけだ……見ろ、商魂(たくま)しい記者殿を」


 蛇川のその囁きが終わらぬうちに、暗がりで手元が狂ったか、記者と見られる男が鉛筆を取り落とした。ちょうど天水桶の土台に落ちた鉛筆が、深夜の往来に澄んだ音を響かせる。

 その瞬間、それまで懸命に大八車を引いていた男が梶棒をパッと離して車から抜け出した。逃げるかと思いきや、音がした方へと矢のように駆けていく。


「いかん!」


 間髪を容れず、蛇川が植え込みから飛び出した。まだ状況を把握できていない吾妻もまた、首を捻りつつ蛇川の後ろについて行く。


 男は天水桶脇の人影に襲い掛かろうとしていたが、一足飛びに駆け、数歩のうちに追いついた蛇川がその背を勢いよく蹴り飛ばした。男が矢なら蛇川は光だ。

 男は鞠のように転がったが、遮二無二もがいて起き上がり、なおも天水桶に向かおうとする。凄まじい執念だ。


 闇の中で二人の男がもつれ合う。

 蛇川は大八車を()っていた男の背に組み付いていたが、火事場の馬鹿力とでもいうべきか、凄まじい力に振り解かれてしまった。

 何事かを喚きながら、男が風車のように腕を振り回す。蛇川は瞬時に飛び退って距離を取ったが、わずかに体勢が崩れている。見れば、左腕の袖が切り裂かれ、上腕から鮮血が滴っていた。


「先生!」


「騒ぐな! それより洋燈(ランプ)、いや懐中電灯だ!」


 鋭く命じられ、吾妻が慌てて懐中電灯の布を取り払う。丸い明かりに照らされて、刃物を持った男が思わず目を庇った。

 蛇川がその隙を見逃そうはずもない。一瞬のうちに肉薄すると、男の右手を激しく蹴り上げた。しなる鞭のような脚に弾かれ、男が出刃包丁を取り落とす。慌てて拾おうと手を差し出すも、蛇川の革靴が包丁ごとその手を踏み付けた。


「ぎゃッ」


 鋭い痛みに仰け反ったところへ、もう一方の脚が寒気を切り裂いて襲いかかる。流れるような暴力に恐れをなしたか、相方の女が悲鳴を上げる。


 なんで堪ろう。強烈な蹴りを無防備な顎に受け、しかし手を踏み付けられているため後ろざまに倒れることも許されず……男は空いた手で宙を何度か掻いたあとに泡をふいて昏倒した。蛇川は息のひとつも乱していない。


「……さて、記者殿」


 出刃包丁を道の脇へと蹴り飛ばし、危うく刃の餌食となりかけた記者に向き直った蛇川だったが、その顔を認めるや「おやまあ!」と気の抜けた声を漏らした。天水桶の脇で揉み手して蛇川を見上げているのは、ハンチング帽にズボン吊りという装いのチビのブン屋――韮山(にらやま)だったのだ。


「ヘヘヘ……おばんでやす、天女様。先日はどうも」


 昏倒した男を襟巻きで縛り上げていた吾妻が、ゲェ、と舌を覗かせる。

 韮山は先月、軍人の鬼に取り殺されかけていたところを蛇川に救われた新聞記者だ。その折には吾妻ら鴛鴦組の面々も大いに働いたものだったが、信念(スジ)も通さず、ただ世間の声に迎合する記事ばかり書く韮山のことを、吾妻は快く思っていない。


 蛇川が呆れた様子で肩を落とす。


「あんた、いったいどれほど怨みを買えば気が済むのだね。旅順帰りといい、この老夫婦といい」


「やだなあ、あっしは汗水垂らして真面目に仕事してるだけですよ。怨む方が筋違いってもんだ」


「筋違いだなんて、どの口が!」


 割って入ったのは桶を石畳に打ち付けていた女だ。一連の暴力に腰が抜けたか、大八車の車輪に縋り付いていたが、声には気迫がこもっている。


「お前の出鱈目な記事のせいで息子は死んだんだ! この人殺し!」


 激しく渦巻く憎悪に静江は身を竦ませたが、しかし蛇川は隙間風ほども意に介さずに「やれやれ」とため息をついた。


「各々弁明はご随意に。だが僕にそれを聞いてやる義理はないね。続きは署で存分にやりたまえ」


「か、勘弁してくださいよ旦那ァ! あっしは馬車幽霊を記事にしようと夜(じゅう)働いてただけの善良な市民ですぜ!

 お上の世話になるのぁ御免だね。マッポはあっしら記者を毛嫌いしてやがるんですよ。あれこれ難癖つけて引き留めて、嫌がらせするに決まってらあ。ねえ天女様、第一、あっしは被害者ですぜ?」


「それを決めるのは僕じゃない。人の領分は人が裁くさ」


 尖った顎をツイと上げ、薄っすらと白み始めた空に蛇川が目を細めた。


「夜が明ける。幽霊は()の世に還る時間だ」


 ◆ ◆


 その後、近隣の署に突き出された韮山と老夫婦は、それぞれ仔細に取り調べを受けた。

 ついでに、男を痛烈に蹴り飛ばした蛇川も警官にこっぴどく叱られたが――なにせ相手は顎の骨が砕けていたので――、幸か不幸か、先に腕を切り付けられたという事実があったため、辛うじて「(やむ)を得ざる防衛」と見なされ釈放された。


 後日伝え聞いたところによると。


 老夫婦の息子は、偏見の入った杜撰な取材のために濡れ衣を着せられ、非難の声に責め立てられる日々を苦にして自ら死を選んだのだという。家業の金物屋を継いだ矢先のことだった。

 後に警察の捜査で冤罪であることが分かったものの、時既に遅く、老夫婦の息子は石見銀山(砒素)を飲んで苦しみの末に果てていた。その記事を書いたのが韮山であったのだ。


 事の次第をお上に訴え出ても、韮山を罪に問うことはできなかった。しかし老夫婦にとっては韮山に愛息を殺されたも同然だ。

 せめて話をと呼び出してもまるで応じず、誠意もなく逃げ回る韮山に業を煮やし、待ち伏せを試みたこともあったが、特高(特別高等警察)に目を付けられている韮山には度々尾行がついており、それが逆に韮山を守る盾となっていて迂闊に手が出せない……


「そこで思い付いたのが『馬車幽霊』というわけだ。御者の死を利用して馬車幽霊という餌を作り上げ、女学生らに噂させ、旨そうな匂いを嗅ぎつけた韮山が食いついてくるのを待っていたのだ。懐に出刃包丁を忍ばせてな。

 まあ、韮山の食指を刺激できさえすれば、題材も場所も別に何だってよかったのだろう」


 結局、韮山に公式なお咎めは下されなかった。

 今回の件で言うと韮山は確かに被害者であるし、息子の死のきっかけとなった記事にも違法性はないと判断された。新聞記事の誤報や誇張は当時決して珍しいものではなかったし、軍や政治に関わるものでない限り警察は滅多に深入りしないし、新聞社としても「話題を集められたなら儲けもの」ぐらいの構えでいるのが普通だ。

 ただ、警察を騒がせたことに対する詫びもあってか、後日、小さく「過日の報に誤りあり」という訂正記事が載せられた。文字にしてわずか三行程度の小さな記事だ。両親は到底納得すまいが……


「しかし、なかなかうまいことを考えたものだ。意中の相手を、深夜、人の目に付きづらい所へ、わざわざ己の意思でやって来るように仕向けるとは」


 革手袋を嵌めた拳を唇に押し当て、蛇川が目を険しくする。


「考えれば考えるほど、凡庸な金物屋夫婦が思い付く策とは思えん。……何か臭うな」


 例のごとく、昼下がりの『いわた』である。蛇川は出されたライスオムレツにも手をつけず、まるでそこに答えが書かれてでもいるかのように、年季の入った上げ台を睨み付けている。

 その視線の先に置かれた納豆の小鉢を、りつ子が慌てて配膳していった。また横取りされてはたまらない。


 馬車幽霊騒動の顛末を報じる記事を読んでいた吾妻は、器用にそれを折り畳むと『いわた』亭主に返却した。


「最近、過激な読み物やら活動写真やらが検閲をすり抜けて出回ってるじゃない? それを真似た悪事が増えてるって聞いたけど、その類いかしらね」


「フン、作り物の猿真似か。その程度の小悪党ならば可愛いものだが……どうも僕には、混乱を招き、怒りを煽り、溝を深めて混沌を生じさせようとしている者の存在が強く感じられてならんのだよ。

 そして不幸にも、僕にはそれを喜ぶ男に心当たりがある。この世は――人の本質は(もと)より悪であると信じて疑わんような男なんだが……」


 珍しく、歯の裏に貼り付いたような声で呟くと、蛇川は椅子の上で仰け反って顔を覆った。


「ああ! 僕の思考もくだらん物語色に染まってしまったかな。ビン底眼鏡の文学少女に毒されたのやもしれん」


「面白い()だったよね、静ちゃん。どうしても心付けを渡すって言って聞かなかったけど、結局受け取ってあげたの?」


「莫迦を言え! 小娘から金を毟り取るほど落ちぶれちゃいないさ。しかししつこい女でな、こう言ってやったのだ。『そんな事に小遣いを使うぐらいなら』……」




 文机に向かい、静江は深々とため息をついた。用意した原稿用紙は既に大半が埋まっているが、物語の本質を捉えた良い表題が思い浮かばない。


 これまで、文学は読んで楽しむものだと思っていた。その根底には「自分ごときに書けるはずがない」という諦念もあったのだが、とにかく。

 書いてみたい、と思った。自分のために。あの夜の出来事を、彼の鮮烈さを、ずっと記憶に留め置くために。


 蛇川真純。「白鷺さま」の二つ名を持つ、麗しの骨董屋亭主。


 しかしその実態は、口を開けば傲岸不遜、唯我独尊。他者を無知と嘲笑って顧みもしない。

 そのうえ、一度暴力に火が付いてしまえば、いとも簡単に堰をぶち破って荒れ狂う奔流のような男……


 原稿用紙の出だしには『骨董屋(あらため)』の文字が書かれている。だが、その続きが思い浮かばない。

 骨董屋あらため……『悪辣紳士』? いやいや、そんな陳腐な言葉じゃ彼を表せない。なら、冴え渡る知謀と激情が同居する『不良探偵』はどうか。ううん、もしそんな表題にしたら、彼はまた「つまらん探偵小説に簡単に感化されやがって」と嗤うだろう。


 ――ガキが心付けなどと偉そうに。そんな事に小遣いを使うぐらいなら、その金で宝賀堂のへちま水でも買いたまえ。ビン底眼鏡どうこう以前に、そうも荒れた肌では並の男は寄り付くまいて。


 心付けを渡そうとする静江をせせら笑う蛇川の声が蘇り、静江の胸がキュウと苦しさを訴える。

 嫌な人。意地悪な人。年頃の乙女を苛めて揶揄って。でも、でも、だけど……


 骨董屋あらため。

 その先はまだ、空白だ。


 それが一番いいのかもしれない。

 彼が真実何者であるかなんて、静江には――いや。きっと、誰にも計りようがないのだから。


 鉛筆を握り直し、静江はまだ見ぬ大作の予感に胸を躍らせた。

 

 偉大なる文学作品には、綿密な取材や実体験からくる生の温度が宿っている。静江もまた、この大作を名著たらしめるために、とことん彼を取材しなければ……


 なんて、ね。




〈 夜を騒がす馬車のこと 了 〉

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