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骨董屋あらため  作者: 山路こいし
第一章 銀座綺譚
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三六 夜を騒がす馬車のこと




 悪いことに、その人物らは月を背負う形で立っているため、顔立ちまでは分からない。しかしその優れた上背を見るに、どちらも成人男性と思われた。


 やっぱり、本当に人だったんだ。

 馬車幽霊なんていなかった。生きた人が、幽霊騒動をでっち上げていたんだ……。


 一瞬、置かれた立場も状況も忘れ、蛇川の推論が的中していたことにただただ驚いていた静江だったが、白い息をひとつ吐き出すうちに恐怖が背筋を這い上がってきた。


 馬車の音は幽霊の仕業などではなかった。生身の人間が、何かしらの明確な意図をもって、そう錯覚させるために策を講じていたわけだ。

 となると、その目的は何? こんな夜更けに、人目を憚って行動するような男達だ。微笑ましい目的であるとはとても思えない。


 気付けば静江は往来にへたり込んでいた。すぐにも植え込みに逃げこめばどうにかなったかもしれないのに、現実的な恐怖が身体中から力を奪い取っていた。


「ヒッ……」


 ガタガタと全身を震わせる静江に、懐中電灯の明かりが差し向けられる。これまでは黒い布で覆って明かりを隠していたものらしい。電気特有の無遠慮な眩しさに、静江は目を覆って顔を背けた。


 もしかして、殺されてしまうのだろうか。見てはいけないものを目撃してしまったから。

 あるいは売り飛ばされたりして……いいや、どうせこの器量なんだもの。大した売値もつかないだろうし、結局のところ、海で魚の餌になるのがせいぜいなのかも。


 恐怖と混乱で素っ頓狂なことを考えている静江の耳に、聞き覚えのある嘲笑が降ってきた。


「僕は君のことを幾分見誤っていたかもしれんな、静江くん」


「……へぇッ?」


 シュッとマッチを擦る音がして、一気に往来が明るくなった。洋燈(ランプ)に火が入れられたのだ。

 ようやく辺りの状況を把握するに至り、静江はビン底眼鏡の奥で目を(しばた)かせた。眩しさではなく、驚愕のために。


「へ、蛇川真純ッ!」


「はあ? 生意気な小娘だな。それが年長者に対する態度かね。敬意を払え、敬意を」


「どの口が言うか」


 立っていたのは、夕刻、『いわた』でさんざっぱら静江に赤っ恥をかかせた悪辣漢、蛇川であった。

 その隣で洋燈を掲げ、すかさず口を挟んできたのは親身になってくれた巨漢の女装家――吾妻である。藍染の襟巻きを鼻の下まで引き上げ、ニコニコと人好きのする笑みを浮かべている。


 呆然とする静江の鼻先に、しなやかな革手袋を嵌めた手が差し出された。何が何やら分からず、へたり込んだまま目をぱちくりさせていると、手が焦れたようにヒラヒラと揺れる。

 ようやく意図を理解した静江がおずおずと革手袋に掴まるなり、何の予備動作もなくスルリと助け起こされた。細身に見えて、随分と鍛えているらしい。作り物のように端麗な蛇川の内側に雄々しい筋肉の強張りを感じ、静江は思わず――なにか、言葉にしがたい生々しさのような、抗いがたいヴィタリタス(Vitalitas)じみたものを感じて――その手を振り払った。蛇川が小さく舌打ちする。


「可愛げのない女だな……まあいい。よほど夕刻のことが口惜しかったらしいが、ここまで負けん気が強いとは驚かされたよ。寝所はどうやって抜け出してきたんだ?」


「えっ……と、二階だったから。その、窓の近くに生えてる木を伝って……」


「ハハ! いいぞ、君のことを気に入ってしまいそうだよ。どう思う、吾妻」


「蛇川ちゃんはこう言うけど、本当は駄目なんだからね? もし相手が悪い男だったらどうするの。()()()()もほどほどにしなきゃ」


 女言葉の巨漢に至極まともな説教を食らい、気恥ずかしさと居た堪れなさで静江が地面に視線を落とす。と、その目が往来に置かれた二つの黒塗りの椀を捉え、ここへ来た目的を思い出した静江が悲鳴を上げた。


「あ、あなたが馬車幽霊の正体だったんですか!」


「莫迦ッ、何時だと思っている!」


 胸をぶつけるように詰め寄った蛇川に口を塞がれ、言葉ではなく息が止まりそうになる。いかにその中身が悪逆非道の暴君であるとはいえ、その器はこのうえなく美しく磨き上げられているため敵わない。

 赤茄子のようになって静江が黙り込むと、蛇川はゆるゆると首を振りながら身体を離した。


「いかにも先程の音は僕の、というより、この男に鳴らさせたものだ。この界隈で情報を集めてみたんだが、これという収穫を得られなかったものでね。物は試しと、同じ場所で同じ事をやってみたわけだ」


 口調は淡々としているが、その言葉尻には苛立ちが滲んでいる。捜査が進展しなかったことが相当に口惜しかったものと見える。

 仮説の中から「不可能」を排除すれば、最後に必ず真実が残るはず……なのだが、なにせ、蛇川の立てる仮説の数があまりに膨大すぎるのだ。有力と思われる順にそれを実行しうる証拠を探して駆け回ったのだが、その全てを追い切る前にすっかり日が暮れてしまったらしい。


「もしやこの音は何かの符丁で、仲間なり取引相手なりと落ち合う合図ではないかと検証する意図もあったのだが……」


「その線も望み薄、かなあ」


 気怠げに蛇川が肩を回し、その隣で吾妻が大きく伸びをする。

 もう夜も遅い。夕刻からずっと休まず頭脳と肉体を労働させていたなら疲労も限界だろう。何も成果が得られなかったとなれば尚更だ。吾妻がゴキリと首を鳴らした、その時だった。


 突然、蛇川が往来に身を伏せた。


「洋燈を消せ!」


 地面に耳を当て、鋭い声で叫んだかと思うと、自らも懐中電灯に飛び付いて明かりをすっかり覆ってしまった。そのまま椀を拾い上げ、立ち尽くす静江を振りあおぐ。


「おいッ、あんたどこから往来に出てきた!」


「あ……っと、そこの植え込みの隙間から」


「隠れよう、急げ!」


 有無も言わせず植え込みに押し込まれ、静江は前庭に尻餅をついた。文句の形に口を開いた時、続けて押し込まれた吾妻が覆い被さってきて、静江はむぎゅうと情けない声を上げた。とても重い。


「オホホ、ごめんあそばせ……」


 四つ這いになったまま笑う吾妻に苦笑を返していると、最後に蛇川が飛び込んできた。吾妻がびくともせずにその体重を背中で受け止めてくれたからよかったものの、もし男二人が倒れ込んできたら大惨事だった。


 しかし。言われるがままに身を隠したはいいが、このことが誰かに露見すれば大事(おおごと)だ。経緯はどうあれ、こんな時間に大人の男を二人、しかも、うちひとりは何かと噂の「白鷺さま」を、女学校の敷地内に手引きしたことになるのだから。

 こんな破廉恥な悪事に比べれば、カフェー通いなど可愛いもの。ああ、これで私も不良少女の仲間入りを果たしてしまうのか……


「きっと私もアブサンを詰めた小瓶を持ち歩くようになるのだわ……」


「莫迦話をしている場合かね。耳を澄ませてみろ」


 (ジッ)と植え込みの隙間に目を凝らしながら蛇川が吐き捨てる。

 言われた通りにしてみると、なるほど、遠くから微かに物音が聞こえてくる。徐々に近付いてくるその音から察するに、どうやら、何者かが大八車を引いているらしい……



 

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