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骨董屋あらため  作者: 山路こいし
第一章 銀座綺譚
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三五 夜を騒がす馬車のこと




 ――寝付けない。

 もう何度目とも知れない寝返りを打ち、静江は苛立たしげに息をついた。


 馬車幽霊の存在を知ってしまったあの日からずっとこうだ。夜がくるのが恐ろしくて堪らない。

 いっそ、募り募った寝不足で泥のように眠れたらいいのに。そうすれば幽霊の存在にも気付かずいられる。なかったことにしてしまえる、少なくとも静江の中では。そう願うのに、いざ布団に入ると目がギラギラと冴えてしまう。


 カフェーに出入りしてるなんて噂もある退廃的不良少女などは、薄緑色の液体が入った小瓶をちらつかせて「アブサンを舐めればコロリよ」などと(うそぶ)いていたが、生真面目な静江がそんな危うい誘いに乗るはずもなく。倦怠感ばかりが日毎に強くなっていく。

 眠くなるのは、寝ちゃいけない昼日中だけ。ああ、この身はなんて不都合にできているんだろう。


 それに……


 息を呑むほど美しい(かんばせ)が、静江の脳裏に像を結ぶ。

 穢れを知らぬせせらぎのような、彫刻家が苦悩の末に作り上げた一世一代の最高傑作のような。非の打ち所のないその顔は、しかし、みるみるうちに嘲笑で彩られていく。


 ――莫迦か君は……やれやれ、呆れた無学だ。


 ――少しは頭を働かせたらどうだ。その頭は髪をぶら下げるだけの飾りかね。


 込み上げてくる悔しさと腹立たしさに、思わず声を上げそうになる。喉元でなんとか堪え、代わりに静江は枕を叩いた。麻布の下でサワサワと音を立てる蕎麦殻にまで笑われたような気がして、静江は唇を噛み締めた。


 蛇川真純(ますみ)

 女学生らが「白鷺さま」と呼んで恋焦がれている白皙の君。


 あの後、りつ子と共に甘味処であんみつを食べてから寄宿舎に戻ると、舎中は大変な騒ぎになっていた。騒ぎといっても、馬車幽霊のために皆が怯えていたここ数日の雰囲気とはまるで異なる。誰もが熱に浮かされ、夢を見るようなフワフワとした足取りでいるのだ。

 聞けば、「白鷺さま」が寄宿舎前に現れたのだという。中には声をかけられたという者も何人かいて、感極まって涙を流している一年生などもいた。


 今朝までの静江だったら、自分も「白鷺さま」のご尊容を拝する僥倖に(あずか)りたかった、などと無邪気に羨ましがれたことだろう。しかし、その本性に触れた今となっては乾いた作り笑いしか出てこない。


 いったい何の用事で来たのだろう。散々『いわた』で静江を苛めたくせに、まだ揶揄い足りないとでも言うのだろうか。


 口惜しさが惨めさに変わり、頭まで布団をかぶった、その時だった。


 カコッ、カコッ……


 きた!

 静江は引き上げたばかりの布団を勢いよく跳ね飛ばした。心臓がドクドクと早鐘を鳴らし始める。


 いつもなら、この音を聞くなり布団の中で丸まって、少しでも音が遠ざかってくれるよう、一刻も早く朝が来るよう祈り怯えることしかできなかった。

 だけど今夜の静江は違う。静江自身も驚いたことだが、さっきまで恐ろしさで震えていたはずなのに、馬車らしき音が聞こえてきた途端、恐怖とは別の感情が腹の底から湧き上がってきたのだ。


 そっと布団を抜け出し、周囲を窺う。同室の学友らは皆揃って穏やかな夢の中にいるらしく、規則正しい寝息が小さく聞こえてくる。昼間あれほど馬車幽霊を怖がっているわりに平気な顔で、と恨めしくなるが、言ったところでしようがない。


 布団の上に広げていたお下がりのケエプを羽織る。少し考えてから、膝掛け代わりの毛布も手に取った。足袋を履いた上から油紙を二重三重に巻き付け、さらに編み靴下も重ねる。


 この時間だ、玄関は当たり前に閉まっている。

 となると出入り口はひとつしかない。

 幸いにも今夜は月が明るい。灯りがなくとも動けるだろう。


 木の窓枠を睨み付ける静江を突き動かしたもの。

 それを勇気と呼ぶには純真さがいささか足りない。怒りと言えるほどには表面温度が高くない。しかし腹の底はグラグラと熱い――そう、負けん気だ。


 蛇川は静江のことを「相当に負けん気が強い」と見抜いた。それは決して間違いではない。ただ、ひと言付け加えさせてもらうならば……


 静江はただ負けん気が強いわけではない。()()()()負けん気の強い娘であった。


 ◆ ◆


 二月の深夜、ややもすれば明け方も近付くこの時間帯はとにかく空気が冷え切っていて、霜の生えた土を踏むたび足裏が針で刺されたように痛む。

 靴代わりにと油紙を巻き付けはしたものの、尖った石を踏みでもしたら大変だ。月明かりを頼りに、おっかなびっくり、静江は前庭を進んで往来へと近付いた。


 あまりの寒さに、足を一歩踏み出すたびに後悔が胸に募ってきたが、もう後戻りはできない。それに、口惜しさと恐ろしさを抱いたまま馬車幽霊の影に怯えて過ごすくらいなら、音の正体を突き止めるために行動した方がまだマシだ。

 もし本当に幽霊だったら……そりゃあもう、途方もなく恐ろしいけれど、でも、蛇川のあの、自信と侮蔑に満ちた顔を歪ませてやれると思えば耐えられる。きっと。多分。


 もっともらしく思考しているが、半ば自分に言い聞かせているのだということに静江は気付いていない。持ち前の負けん気に、若者特有の無鉄砲さが加わった時の行動力たるや凄まじい……が、度胸がそれに追い付いていないのだ。


 相当な時間を要したが、なんとか、寄宿舎と往来を隔てる門扉へと辿り着いた。

 もちろん門扉は固く閉ざされているが、その脇の植え込みには隙間があって、そこから往来に出られることは学生なら誰もが知っている。知らないのは大人だけだ。


 静江は寝間着の裾を片手に束ねると、もう一方の手を胸に当て、植え込みの前でひとつ深呼吸をした。そして、大きなウサギ穴へと飛び込んだ少女アリスよろしく、植え込みの隙間へと身体を押し込んだ。が――


 緊張のためか意気込みによる力みが過ぎたか。勢いをつけすぎて、静江は往来へと倒れ込んだ。その隙間はウサギ穴ほど長く伸びてはいなかったのだ。

 驚きのためにあまり可愛くない悲鳴が漏れて、静江は慌てて口を塞ぐ。


 しかしもう遅かった。


 往来には二つの人影があった。

 ひとりは寄宿舎の塀に凭れかかり、もうひとりはその側で地面に屈み込んで何かをしていた。静江の悲鳴を聞き取ったか、二つの影がゆったりと背を伸ばす……



 

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