三四 夜を騒がす馬車のこと
「あいも変わらず……」
眉を垂れ下げさせた吾妻が、指でほりほりと頸を掻いた。
「非道い男ねえ。いつか刺されるわよ」
「小娘ごときに大人しく刺される僕と思うか? それに僕は事実を言ったまでだ。腹を立てるというのは一種の防衛本能であるから、静江くんも僕の指摘が事実であると内心では認めているのさ。しかしそれを素直に受け容れられぬ弱い心が怒りとなって発露する。ああ、ガキの生き様のなんと哀れなることよ」
吾妻は両の掌を上に向けて肩を竦めた。この男に口喧嘩で立ち向かおうという気はさらさらない。
「ところで、今回の手妻はどうやったの?」
「手妻?」
「静ちゃんのこと。性格から何まで一瞬で見抜いちゃったじゃない」
「あれが手妻なものか。いつもの通り、ちょっと観察したまでだ」
蛇川はゆるく組んだ両手を臍の辺りに落ち着かせた。己の思考をなぞる時の癖で、薄く目蓋を伏せる。
「当然、彼女の着ていた制服からは学校名が、スカアフの色からは学年が分かる。羽織っていたフェルト生地のケエプは数年前に若者の間で流行したもの、よってあれは優しい姉からのお下がりだ。
制服には丈を縫い縮めた跡が見られたが、その縫い目は見事なまでに真っ直ぐだった。しかし彼女の指先には無数の刺し傷があった。つまり彼女は針がまずい。が、その指先はずいぶんと皮が厚くなっていたから、器用な針子に負けまいとして目下針仕事を特訓中……相当な負けず嫌いだ。そして負けず嫌いの矛先はまず母親に向かない。娘にとって母親とは永遠の目標であり、追いつき追い越す対象とはならないからだ。彼女が対抗心を抱いているのはもっと身近な相手、つまり、縫い縮めたのは器用な姉であると分かる」
「歳の差は?」
「彼女のように叱られたいか? 都立第六女學校は五年制だ」
「なるほど、自明。お祖父さんの件はどうやったの?」
「どうした吾妻、随分と研究熱心じゃないか!」
蛇川は鼻を鳴らして笑ったが、しかし満更でもないらしい。
「開いたままの鞄に古い銀時計が入っていた。その古さを見るに、元の持ち主は少なくとも一世代以上前の人間だ。一世代前だとすれば父親から受け継いだものだが、女学校を卒業までさせた優秀な姉を飛ばして妹に相続させるのは不可解だ。加えて、実家が相当に裕福ならばともかく、あの身なりからはごく一般的な慎ましい家庭であることが窺えるため、稼ぎ手である父親はまだ存命であると知れる。となると元の持ち主は二世代前、つまり祖父だ。
貴重な銀時計を息子ではなく孫に贈る、それは息子との関係性が良好でなかったことを意味する。貴重品を譲ったということは、当然、既にこの世にないということ。
それほど大切な銀時計を、祖父の形見を、蓋を開けた鞄に無造作に突っ込んだまま歩き回っている孫娘が不注意だと僕が評価したとしても、多分、それに反対する者はおらんだろうよ」
ううむ、と吾妻は口中で唸った。あの短い時間でそこまで思考を巡らせていたというのか。毎度毎度、この男には驚かされてばかりだ。
その灰褐色の瞳は、何をどこまで見ているのだろう。形のいいその頭蓋には、いったいどれほどの知識と情報が集積されているのだろう。
「それで、この件についてはどうするの?」
「無論、幽霊騒動をでっち上げた人物を突き止めて、その目的を明らかにする。
よくよく考えてみれば、ただの幽霊などより、人が化けた幽霊の方がよほど魅力的で唆るじゃないか。情念は時に僕の理解を超えるが、意思は概して掴みやすい。そして、この幽霊騒動は生きた人間が明確な意思で作り上げたものだ。静江嬢は僕に喜びの報せをもたらすアンゲロスだったのやもしれん。
あんたは馬車幽霊について既に知っていたな? 馬車は寄宿舎の前以外にも現れるのか?」
「ううん。アタシが聞いた話では寄宿舎前だけ」
「ふうむ。確かに、あすこは近くで御者が死んでいるから、馬車幽霊が出るにはうってつけの場所だ。加えて女学校の寄宿舎前ときている。女学生なんてものは噂好きでお喋りだと相場が決まっているから、馬車幽霊の話は瞬く間に世間へと拡がっていくだろう。
まず間違いなく犯人の目的はそこにある。しかしその先の分岐が厄介だな。噂を拡めて鉄道会社に非難の声を向けさせたいのか、女学校から人を遠ざけたいのか……あるいは、あの場所で騒ぎを起こすこと自体に意味があるのか? 今実際に起きていることから考えてみよう。出発点を見誤れば、ともするとこの件は存外ややこしくなるかもしれんぞ……」
鹿皮の革手袋を嵌めた両手を擦り合わせ、嬉しそうに蛇川が呟く。その視界にもはや吾妻は入っていない。
結局、散々苛めて赤っ恥をかかせたくせに、静江の相談に乗ってやる気でいるらしい。
しかしそれは善意からでは決してない。蛇川は退屈から逃げねばならないのだ。知的興奮と頭脳労働は、蛇川から退屈を遠ざけてくれる一番の方法であった。
蛇川は退屈から逃げねばならない。なぜなら、蛇川にとって退屈は事実"痛み"であるからだ。
彼の右腕――無数の目が巣食う鬼の右腕は、昼夜を問わず痛みを訴えてくる。疼くような、焼けるようなその激痛の前に無防備でいれば、蛇川ほどの男といえども魂は徐々に疲弊してしまう。鬼の支配に屈服してしまう。魂が折れた瞬間、蛇川は鬼に喰い尽くされてしまうだろう。
だから蛇川は、激痛を忘れるために、常に何かに没頭していなければならなかった。退屈に足を取られるわけにはいかないのだ。
ただ、骨董屋『がらん堂』の従業員、くず子のそばにいる時だけは痛みが少しばかり和らぐような気がするのだが――
そうだ、くず子だ。
「くず子さんはどうした」
すっかり忘れていた。たしか、静江にミルク珈琲を淹れてやって、その後吾妻にも……いや、どうだったか。
やれやれ、とため息をついたのは『いわた』亭主だ。
「帰したよ。怯えさせちゃ可哀想だからな」
『いわた』の厨房内には暖簾で仕切られた洗い場があって、その奥のドアはビルヂングの共用便所に繋がっている。便所にはもうひとつ別にドアがあり、そこを潜れば階段脇の暗い廊下に出ることができるのだ。
蛇川の雲行きが怪しくなってきたため、その動線を通らせてくず子を『がらん堂』に帰したらしい。さすが、銀座という激戦地で長く客商売を続けてきた男だけあって目配りが利く。口先だけ保護者気取りの蛇川などとは段違いだ。
「ならばよし! すぐに出るとしよう。ひとまず僕は六女の周りを見てみるとするか」
「ありゃま。馬車幽霊の次は『白鷺さま』のご降臨でまた騒ぎが起きるわ、これは。じゃ、アタシは御者のご遺族にでも当たってみようかな」
吾妻がのっそりと腰を上げた頃、蛇川はもうインバネスコートを引っ掴んで『いわた』を飛び出している。
まったく、どれほど生き急ぐつもりなのか。苦笑しながら、しかし吾妻も少し楽しくなってきている己を自覚せざるを得ない。
本当に、あの男といると飽きることがない。
見慣れた街が、型に嵌った日常が、狂おしいほどの興奮と驚きで鮮やかに塗り替えられていくかのようなこの感覚……
極道者、それも若頭という身分の吾妻が、ただの堅気である蛇川に付き従っているのは、その感覚から離れがたいからに他ならない。極上の美食を知った餓鬼が再び餓鬼道に戻れようか。
無論、もっともらしい言い分もある。
ひとつには、蛇川から〈鬼の涙〉を分け前としてもらうため。蠱惑的な光を宿した〈涙〉は、好事家連中にとんでもない高値で売れる。それが今や鴛鴦組にとって欠かせないシノギの一部となっているのだ。
また、〈涙〉という金脈の主たる蛇川自身を守り支える必要性も大きい。蛇川は、いわば黄金の卵を産む鵞鳥なのだ。放っておくとどこまでも無茶をする男だが、死なれては困る。
さらに、シマ内外の火種に目を配り、余計な軋轢を生じさせないための情報屋活動においても、蛇川の頭脳が大いに役立っていた。
とまあ……並べ立ててはみたものの、結局のところ、これは建前。
金の管理や揉め事への対応といった実務の大半を若頭補佐に丸投げし、蛇川について回るための言い訳のようなものであって。
実際のところ、惚れているのだ。
神蔵に指摘された通り、蛇川という男の気質と魂に、人として惚れている。
何者にも媚びず、臆さず、ただ己の信念のみに従って生きる、野の獣にも似た男。
肉体は平時にあっても心は常に戦火に置き、牙を研ぐ手を休めようとはしない男。
決して折れぬ、いや、折れることを知らぬ魂と矜持を持つ男……
堅気にしておくのがただただ惜しい。手元に置いて、銀次と双璧をなさせたらどれほどに心強く、面白いことだろう。
しかし一方で、何に縛られることもなく、誰とも馴れ合わず、自由気ままに思う存分暴れ回るさまを遠目に愛でていたいような……
さて、今度はどんな牙を見せてくれることだろう。
吾妻もまた、退屈から逃げたい性質の男であった。




