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骨董屋あらため  作者: 山路こいし
第一章 銀座綺譚
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三三 夜を騒がす馬車のこと




「君、旧約聖書を読んだことはあるかね?」


 突拍子もない質問に面食らいながらも、静江はなんとか頷いた。活字の話ならば静江の領分だ。


「あ、あります」


「ダニエル書は?」


「ええ、それも……」


「よろしい! さすがは本の虫だ。

 いいか、静江くん、ダニエル書1章5節だ。バビロン王ネブカデネザルに捕えられた若きユダヤ人ダニエルは、王と同じ食事と酒を摂るよう命ぜられた。王の臣下としてふさわしい、健康で美しい青年となるためにだ。

 しかしダニエルはこれを拒否した。なぜなら、敬虔なるユダヤ教徒であったダニエルは、カシュルートに則った食事を摂らなばならぬ……分かりやすく言えば、豚、兎、イワダヌキなどの肉食を自らに禁じていたためだ。だが、王の食事には肉も酒も供される」


 そのくだりならば静江も覚えている。

 王の食物と酒とによって自らを汚すことを恐れたダニエルは、彼らの世話役にこう願い出たのだ。「十日の間、我らに水と豆だけを与えてください。そうして、自分達と、王の食物を食べた若者の顔色とを見比べてください」と。


 成人男性が水と豆(野菜を含むという説もある)だけの食事を続けていれば、あっという間に痩せ衰えてしまう。痩せてしまっては王の前に立てず、世話役らが罰せられてしまう。しかし……


「十日後、水と豆だけで暮らしたダニエル達は、王の食物を分け与えられた若者達よりもはるかに血色がよく、身体も健康に肥え太っていた。肉も魚も食っていないのに、だ。栄養学的に考えて、まずそんなことはあり得ない」


「あの……お話の意図が分かりません……」


「分からない! 嘆かわしい、少しは頭を働かせたらどうだ。その頭は髪をぶら下げるだけの飾りかね。


 僕が言いたいのは、だ。普通、肉や魚も満遍なく食らった群の方が健康通念上確実に良いはずだ。しかしそうはならなかった。水と豆だけの食事が健康的な食事を質的に上回ったのだ。

 なぜか? 彼らには『神の教えに従わねばならない』という強い戒律意識があったためだ。神の教えに従順でいれば必ず報われる、不利益を被るはずがないと信じて疑わなかったためだ。その信仰心が――やや乱暴な言い方をすれば思い込みが、彼らの健康を守ったのだ。栄養学的な常識を超越してな。


 思い込みの力が、時に精神や肉体にまで影響を及ぼすという最古の例であるといえよう。つまり……」


 ジッと集中して話を聞いていたりつ子が口を挟む。


「思い込みの力……静ちゃんは、御者さんの自殺を強く意識していたから、それらしい物音を『馬車が走る音』と思い込んじゃったってこと?」


「その通りだ、りつ子くん! 君は粗野で学がなく身体も貧相だが、地頭だけはなかなか見所がある」


 りつ子が嬉しそうに目を輝かせる。褒められているのか貶されているのか分からない内容ではあったが……


 やりきれないのは静江である。十日間も心を蝕んでいた馬車幽霊がただの思い込みだっただなんて、考えられないし考えたくもない。


「でも、確かに蹄鉄と車輪の音がしたんです!」


「近しい音など少し工夫すればいくらでも出せるさ」


 そう言いながら、空になった湯呑みを逆さまにした蛇川が、絶妙な角度で湯呑みをカウンターに打ち付けた。

 カコッ、カコッ、カコッ……

 静江が聞いた音よりずっと軽く、柔らかいような気はする。するものの、まるで違うとは言い切れない。そんな自分がもどかしい。


「車輪の音とてそうだ。重い物をわんさか載せた大八車を引けば、それらしい音になるだろう」


「でっ、でも……でも私、見たんです! 音が止んだあと不意に現れた……ひ、ひひひ、人魂を!」


 あの夜、静江に絶叫を上げさせたのがこれだった。

 音が鳴り止んだ後、恐る恐る覗いたカーテンの隙間から見た、見えてしまった、青く妖しく揺らめく人魂……


 蛇川が肩を落としてため息をつき、天井を仰いだ。その吐息には諦めにも似た疲労感が滲んでいる。


「莫迦か君は。六女の創設者も草葉の陰で泣いてるぞ。音が絶えてから光ったというならば、それは目的を果たして帰路につく人物が点けた懐中電灯の灯りだろう。もしくは、物音同様、人為的に作り上げられた炎だ。

 そもそも、なぜ音が止むまで光らなかったのだ? 音と光が別々で現れねばならない理由とはなんだ? 答えは簡単、人手不足だ。それらしく見せかけるために"作業"する手が足りんのだよ」


「あ、青い炎でした! あれは絶対、電気の光なんかじゃ……ゆらゆらと揺れて、まるで彷徨うように鉄道小屋の方へと……」


「やれやれ、呆れた無学だ。化学(ばけがく)で習わなかったか? 青い炎を生じさせる素材など幾つもあるぞ。銅、鉛、錫、輝安鉱(きあんこう)、まだ言おうか? 加里(カリウム)、セシウム……」


「もう結構です!」


 たまらず静江は悲鳴を上げた。

 なんという男だろう! どこまでも人を虚仮(こけ)にして……静江の恐怖に寄り添ってやろうという優しさや気遣い、慈悲の心が欠片もない。


 性格や家族のことをピタリと言い当てられたことからも分かる通り、この男がかなりの切れ者で、いっそ人智を超えた不思議な力を備えているとさえ思わせられたことは確かだ。でも……

 己の該博ぶりを誇り、知恵を見せつけ、無知な者をどこまでも無様にこき下ろし、軽蔑し、せせら笑う。まるで、天女の皮をかぶった悪魔だ!


 怒りと恥ずかしさで顔を真っ赤に染め上げて、静江は荒々しく鞄を掴んだ。いつもの癖で蓋が開きっぱなしになっていた鞄から中身が飛び出し、床に散らばる。

 吾妻がそれを拾ってくれたが、喉が詰まってしまってお礼も言えず、引っ手繰るようにして本を受け取った。


「静ちゃん、ごめんなさい! あたしがこんな人に相談しようって言い出したせいで嫌な思いを……」


「ううん、りっちゃんは全然悪くなんかないよ。悪いのは私……私、自分が情けないの」


 俯いたまま足早に出口へと向かう静江を、りつ子が慌てて追いかける。


「ああ、静江くん。最後に少し助言してやろう」


 格子戸を開けた静江に向かい、歌うような調子で蛇川が声をかける。目元を鋭くしたまま振り返ると、蛇川はカウンター席の定位置で悠然と長い脚を組み上げていた。その優雅さにいっそうむかっ腹が立つ。


「女だてらに探偵小説などを読み漁るのはよしたまえ。その程度の器量じゃあ君は松村(なにがし)が関の山であるし……」


 蛇川の視線を追って鞄に目をやれば、読みかけで開いたままの雑誌『新青年』がはみ出している。ちょうど開いていた(ページ)には、江戸川乱歩の『二銭銅貨』が掲載されていた。

 蛇川の言う松村某とは、この『二銭銅貨』に登場する人物だ。謎解きに成功して「俺の頭はいい」と大得意になっているが、実際にはただ主人公の仕掛けた悪戯に踊らされていただけ、という小物じみた男である。


「そうやって物語に耽ってばかりいるから、無駄に想像力ばかり働かせてしまうのだ。それに、その荒れた肌にビン底眼鏡……読書で夜更かししているからだろう? そのままでは卒業後の嫁ぎ先に苦労するぞ」


 全身の血が、カッと頭にのぼるのを感じる。

 それでも言い返せずにいる静江の代わりに、静江を庇うようにして立つりつ子がひと言で気持ちを代弁してくれた。


「最ッ低!」


「ハハハ! またのご来店を!」


 りつ子が荒々しく格子戸を閉めたにも関わらず、蛇川の嘲笑は静江の耳にはっきりと突き刺さった。



 

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