三一 夜を騒がす馬車のこと
女達が夕餉の支度に忙しい頃、定食屋『いわた』では蛇川が頬をわずかに弛めていた。
見る者すべてを跪かせる堕天の美を備えながら、それを彩るのは冷笑や嘲笑、あるいは氷のような無関心、はたまた青筋を立てて激昂しているかが常の男だ。その蛇川が、こうも無防備な様を晒しているのは珍しい。
視線の先では二人の少女が闘球盤で遊んでいた。少し前に大流行した玩具で、四つの同心円が描かれた盤上で交互に自駒を弾き、より中央に近いところへ駒を飛ばして得点を競うという遊びである。
闘球盤に興じるひとりは『いわた』の女給、りつ子だ。他に客がいないため三角巾と割烹着を取っていて、こちらも寛いだ様子でいる。
もうひとり、今まさに駒を弾いて飛ばした少女は、骨董屋『がらん堂』唯一の従業員だ。少しくすんだ紅の地に小さな菊が散らされた小紋を纏い、博多帯は文庫結びに。つるりとした黒髪のおかっぱ頭で、真っ直ぐに切り揃えられた前髪の下で利発そうな丸い目が笑っている。
名を「くず子」という。本人が名乗ったわけではないが、雇い主の蛇川がそう呼んでいるため周りもそれに倣っている。
歳の頃は十を少し過ぎたぐらいか。りつ子と並ぶと、少し歳の離れた仲の良い姉妹に見える。が、どこで生まれたのか、いつ帝都にやってきたのか。なぜ、よりにもよって蛇川のような炸裂弾じみた男の元で住み込み働きをしているのかは誰も知らない。
なにせ、くず子は言葉を話せないのだ。啞である。
りつ子などは何度か筆談を試みたこともあったが、鉛筆を見せると悲しいような、恥じらうような曖昧な笑みを浮かべて首を横に振るため諦めた。明治に整備された義務教育制度によって識字率が飛躍的に高まったとはいえ、農村の方、ことに女児などは、学びの機会を与えられぬまま育った者も珍しくない。
それで、りつ子が一方的に話す形ではあったが、闘球盤は大いに盛り上がっていた。言葉がなくとも通じるものがあるようで、二人は大層気が合うらしかった。
「うまい、うまい。くず子さんは何をやるのも上手だ」
くず子の弾いた駒がりつ子の駒を押し出し、中央の窪みに収まったのを見て蛇川が声を上げた。相手が誰であれ分け隔てなく平等に傲慢であるこの男が、どういうわけか、くず子という少女に対してだけはどこか恭しい。
……りつ子としては、それが少々面白くない。
「あーあ。外野がうるさくって集中できないったらないわ」
「言いがかりだな。僕はくず子さんを応援しているのだよ。あんたが手番の時にはそっぽを向いて黙っているさ」
そら、このように。そう言って顔を背けた蛇川に向かい、りつ子が自駒を指で思いっきり弾き飛ばした。
木製の駒は礫となって盤を飛び越え、端正な横顔へと迫ったが、しかし寸前で革手袋の手に掴み取られてしまった。蛇川は視線すら動かさない。全ッ然、面白くない。
「嫌な人! ねえ、くず子ちゃん、闘球盤はまたにして、うるさい野次が届かない楽しい遊びをしましょうよ。ご存知? 御徒町に来てる見世物小屋が今とっても話題でね……」
「この人はそんな猥雑な場所には行きませんよ」
また蛇川が横槍を入れる。口調だけはすっかり保護者気取りだ。しかしりつ子は取り合わない。
「なんと、人魚の木乃伊が見れるんですってよ!」
「莫迦々々しい! 猿と鯉の死骸を膠で固めただけの陳腐な贋物に駄賃と時間を捧げようとは」
言い終わらぬうちに、二発目の駒が飛んできた。しかしそれも、一発目同様、易々と蛇川に掴み取られてしまう。
駒を弾いたりつ子が、憤然と腰に手を当てた。
「蛇川さんって本ッ当に意地悪! 本物かもしれないじゃない! 小屋には記者さんも連日詰めかけてるって聞くわよ」
「そりゃあ、衆目を集める面白い見出しが書けると踏んだからさ。ブン屋が欲しているのは正しさじゃない。鮮烈さとドラマチックな背景を有する新鮮な話題だ。
興行主は人魚の木乃伊という目新しい餌を撒く。すると、記者という蠅がすぐに寄ってきて餌の匂いを周りに拡める。結果、見世物小屋は連日大賑わいで、その取材記事を載せた新聞も売れる。割を食うのは喜び勇んで贋物を拝みに行った莫迦共だけだ。木戸銭を払って寒くなった懐をさすり、今夜かけ蕎麦に天麩羅を添えてもいいものか思案せねばならなくなる――と。こういう次第だ。実に愚かしい社会の縮図だな。
僕は無知なガキをそこから救い出そうと助け舟を出してやっているんだ。感謝されこそすれ、悪し様に言われる覚えはないね」
「子供じゃありません。あたし、もう十八よ」
「莫迦げた話題にすぐ踊らされるあたりがガキ、己が踊っていることにも気付かぬところがさらにガキ、話の本筋も理解せぬまま言葉の一節だけを拾って噛み付くあたりなどまさしくガキ。
とどめに、重ねた年の数で大人と子供を判別できると思っている浅はかさと申しますか単純さと申しますか……滑稽滑稽! いやはや、まるでガキのお手本のようですねぇ」
「あのぅ……」
カラカラ、と控えめに格子戸が開けられたのは、りつ子が三発目を弾いてやろうかと狙いを定めた時だった。昼食には遅く、夕食には随分と早いこの時間帯に珍しい、と顔を向けたりつ子が嬉しそうな声を上げた。
「静ちゃん! いらっしゃい、久しぶりじゃない」
静江である。女学校の制服にビン底眼鏡、野暮ったい二本のおさげといった出立ちで、困ったように『いわた』の入り口で佇んでいる。
「あの……急に訪ねてごめんね、りっちゃん。今、忙しい?」
「全然! 意地悪な客がひとりいるけど……まあ、気にしないで。置物だと思えばいいから。お父さぁん、隅の卓使ってもいい? くず子ちゃん、闘技盤の続きはまたやりましょ。次は絶対に負けないんだからね」
日々酔客や、時には暴漢をすら相手取って対等に商いしているりつ子である。実にちゃきちゃきとした娘で、小気味いいほどテキパキと動く。
一方の静江はいかにもおっかなびっくりといった感じで、亭主に向かって軽く会釈をしてからおずおずと店内に足を進めたが、蛇川の顔を見るなり「ぎゃっ」と悲鳴をあげて凍り付いてしまった。
ひと目見ただけで理解した。彼こそ、皆が普段から噂している「白鷺さま」に違いない。まさかこんな場所で、こんな至近距離で遭遇するなんて。静江の手が半ば無意識に前髪を整える。その間に、りつ子はもう闘技盤をすっかり片付けてしまっていた。
「静ちゃん、ミルク珈琲は飲める?」
「あ、えっと……」
珈琲なんてハイカラなもの、静江は飲んだことがない。助けを求めるように視線を彷徨わせていると、横から口を挟む男があった。蛇川だ。
「泥水だ。泥水に牛の乳を混ぜたものだ」
ゲェ、と顔を歪めて舌を出す。
「ひどい臭いの泥水をありがたがって飲む奴らの気が知れん。その良し悪しも分からぬまま、舶来物というだけで迎合する浅ましさ、卑屈さ、薄ら寒い見栄っ張りに思考停止。なんという低俗、なんという節操のなさ! こうして文化は衰退するのだ! ああ!」
「あ、あ、あののの……」
天を仰いで嘆く蛇川に、静江はすっかり気圧されたらしい。しかしりつ子にとってはこれが日常だ。「時々鳴くの、あの置物」と事もなさげに言い、奥の卓へと静江の手を引いて行く。
「淹れてみるかい」
こういう時に細やかな気配りをしてくれるのが『いわた』亭主だ。手持ち無沙汰になってしまったくず子を気遣い、さりげなく声をかける。くず子は嬉しそうに頷くと厨房へと入っていった。
いつもは追っかけ連にとっての「特等席」である奥の卓では、娘二人が声を潜めて何やら相談の真っ最中。蛇川はくず子の手付きを見守りながら「うまい、うまい」とこれまた上機嫌でいたが、そのうち、りつ子達がチラチラと窺うような視線を蛇川に向けるようになった。
会話に夢中だった女達がふと黙り込んだ時の沈黙というのは、ある意味で言葉よりも雄弁だ。
果たして蛇川はその視線に気付いているのか、いないのか……




