三十 夜を騒がす馬車のこと
大の読書好きは祖父譲りだと静江は思っている。
町役場の事務方をしていた祖父の書斎は、四畳半のほとんどが本で埋め尽くされていた。本好きのくせに口下手で、物語や詩の一節を引用することでしかまともに会話できない祖父を周りは奇人といい、実の息子でさえ彼を疎んじていたが、静江は祖父が大好きだった。
数珠と運命に導かれ集った、忠義に生きる男達の話。無敗を誇る横綱の伝説。海底牢から脱獄した男の鬼気迫る復讐譚……。胡座をかく祖父の足の間に挟まり、色彩豊かな物語に胸を高ならせる至福のひととき。あれが静江の原体験となっている。
頁から顔を上げ、静江は小さくため息をついた。銀時計の針は午前三時を指している。せっかちな新聞配達員が、刷りたてでまだ温かい朝刊を自転車の荷台に括り付けている頃合い。
女が物語を、それも探偵小説や冒険譚などを読むなどはしたない、と誹られる時代だ。明るいうちに本を開く気にはとてもなれない。
それで、周りが寝静まったのを見計らってから洋燈に火を入れ、黒布で火屋を覆って灯りを絞り、布団の中で息を潜めて読書に耽るのが静江の日課となっていた。女学校に進学し、寄宿舎で過ごすようになった今もその習慣は変わらない。おかげでビン底眼鏡が手放せずにいる。
静江が妙な物音に気付いたのは、夜更かしで冷えた身体を布団に潜り込ませてしばらく経った頃だった。
カコッ、カコッ、
ガラ……ガラ……
馬車だ。寄宿舎の前には石畳が敷かれており、蹄鉄の音がよく響く。しかし、こんな夜更けになぜ?
明治から大正にかけて、人々の移動手段は大きく様変わりした。
とにかく線路の登場が大きい。明治初期には蒸気機関車が導入され、都市間を結ぶ強力な移動手段として活躍するようになった。さすがに市街地で黒煙を撒き散らすわけにはいかないので、都市部では線路に沿って馬車を走らせる馬車鉄道が主流だったが、やがて電力で走る路面電車にお株を奪われることとなった。道々に馬糞を垂れ流す馬車は、曰く「文化でない」ということらしい。
バスの発展もまた目覚ましい。震災によって街の機能が破壊され、路面電車が壊滅的な被害を受けた際、大いに活躍したのがバスだった。
導入当初は数人乗りの乗合自動車を走らせていたが、その有用性が認められると車体の改良が進み、乗合馬車よりも速く、大人数を一度に運べる交通手段として親しまれるようになっていった。白や赤の襟がついた制服でめかしこんだバスガールが登場し、モガの代表格として若い女性らから憧れられたのもこの頃だ。
ともかく馬車だ。
新たな交通手段の台頭によって苦戦を強いられているものの、路面電車も市バスも動いていないこんな時間に頼れるものはやはり馬車なのだ。急ぎの急病人でもあったのだろうか。
そこまで思考し、はて、と静江は首を傾げた。
窓の外から聞こえる馬車の音から、急ぎの気配がまるで感じられないのだ。ひと息に駆け抜けていくでもなく、いっそ優雅にカコッ、カコッ、と歩を進めている。
何かがおかしい。
先程まで冒険譚を読み耽っていたせいだろうか。静江は、引っ込み思案な性格からは考えられないほど大胆な行動を取った。忍び足で布団を抜け出て、カーテンの隙間から外をそっと覗き見たのだ。
通りには月明かり以外、何もなかった。
逆にそのことが静江に確信を持たせる。絶対におかしい。だって、何もないはずがないのだ。
普通、馬車の前面には二台のカンテラが取り付けられているはず。夜道を走るには心許ない灯りではあるが、それでも、こんな夜更けに無灯火で馬車を走らせることなどあり得ない。
カコッ、カコッ、
ガラ……ガラ……
灯りもない中、音だけの馬車がゆっくり進む。
たちまち静江の鼓動が早まり、寒い夜なのに冷や汗が滲んできた。喉が渇き、口の中が粘つく。
どうしよう、怖い。見なきゃよかった。活字中毒の静江が唯一避けているのが怪談噺だというのに……
カコッ、カコッ、
ガラ……ガラ……
カーテンを閉じて俯き、呼吸を整える。あまりに強くウール布を握り締めるものだから、震える指先が白くなる。
おかしい。怖い。でも、どうしようもなく気になる。
その時、不意に音が止んだ。
痛いほどの静寂が耳を突く。
よせばいいのに、静江は衝動を抑えきれなかった。怖いもの見たさなのか、通りが常と変わらぬことを確かめて安心したかったのかは分からない。
とにかく、静江はもう一度カーテンを細く開けた。そして、分厚い硝子(レンズ)の奥で瞳を震わせながら往来を見下ろして……
次の瞬間、静江の悲鳴が深夜の寄宿舎を震わせた。




