二六 旅順に散らば
「構え」の号令の口のまま顎を撃ち砕かれた小隊長が、背中から後ろざまに倒れる。
おそらくは次席の下士官だろう、その隣にいた兵士がすぐさま号令を引き継ぐ……が、少しばかり動揺したと見える。半端に途切れたままの「構え」を飛ばし、「撃て」の号令を放ってしまった。戸惑いながらも後列組が斉射をするが、うまく聞き取れなかったらしい前列が遅れ、まばらな銃撃となってしまう。こうなってしまっては威力も恐ろしさも半減だ。
加えて相手が悪かった。
わずかな綻びを決して見逃さない鷹が、猛蛇が、二人もいるのだ。
まだ一撃目の硝煙も切れないうちに淀みなく照準を合わせた銀次が、号令を引き継いだばかりの下士官を無慈悲に撃ち抜く。
ボルトアクション方式の三八式歩兵銃と違い、南部大拳は自動式拳銃だ。ボルトを操作せずとも、前後に跳ねるスライドが発砲のたびに薬莢を吐き出し、勝手に次弾を咥えてくれる。実に効率的な殺人道具だ。
加えて、銀次愛用の南部は銃身と遊底に厚みを足し、焼きを入れて十分に強化したうえで、火薬を増やした手詰め弾を用いた特別製だ。下手をすれば暴発するが、殺傷力は飛躍的に高まる。威力を求めるなら最初からコルトM1911やモーゼルC96を使えばいいのに、舶来物は手にしっくりこないから嫌だと言う。凝り性なのだ。
撃たれた下士官の額が弾け、横隊の背後で大輪の曼珠沙華がパッと花開いた。立て続けに二度も指揮官を失った隊列に激震が走る。
その横っ面に猛然と襲いかかってきたのが蛇川だ。壁にかけられていた静型薙刀を引っ掴み、円を描くようにブン回しながら前列の兵士を薙ぎ倒していく。煌めく穂先が美しい軌跡を残し、刀刃が触れた箇所からドス黒い靄を噴き出させる。
薙刀を振り抜いた勢いで半回転し、石突を床に打ち付けた蛇川が、柄を支えにして全身をフワリと持ち上げた。思わずその足先を目で追った兵士の顔に、尖った爪先が、膨張した足刀が炸裂する。着地すると見るや今度は再び薙刀を振り翳して……
まるで軽技を見ているようだ。薙刀が三本目の手となり脚となって、狂い火のように暴れ回る蛇川に付き従う。
横隊は横からの攻撃に弱いとはいえ、あまりにひどい崩れようであった。
たった二発の銃弾で二人の指揮官を喪ってしまった衝撃がまず大きい。加えて、クルクルと独楽のように回りながら繰り出される蛇川の斬撃と蹴撃が、見たこともないその動きが、奪われた統制を取り戻す妨げをしているらしかった。
瞬きすら許さぬ蛇川の連撃に、思わず銀次が大口を開けて笑う。
「アッハッハ! なるほど、こりゃあ……若頭が惚れ込む気持ちも分かるわ」
そうして背後を振り仰ぐと、
「おいっ、『小閻魔』! おどれ堅気の旦那に遅れを取ってて恥ずかしゅうないんか!」
発破をかけられた『小閻魔』――小岩じみた男も、無論既に駆け出している。蛇川とは反対の側面から横隊に襲いかかり、手当たり次第に掴んでは投げ、掴んでは投げて、倒れた兵士の人中に拳を叩き込んでいく。
「着剣ッ!」
不意にひとりの兵士が叫んだ。韮山を憎々しげに指し示していた男だ。
三八式歩兵銃は中距離での命中精度に優れているが、近接戦には向かない。長い銃身が邪魔をするし、不用意に撃てば味方撃ちの恐れも跳ね上がるからだ。そのため、戦況が乱戦へともつれ込むと、三十年式銃剣を装着して、「撃ち殺す」から「突き殺す」へと切り替えるのが一般的だ。
三角形の刃を持ち、縫合困難な刺突痕を与えるこの銃剣こそ、『金田中』で木本を惨たらしく死に至らしめた凶器である。
芯の太い号令に、鬼と化した兵士達がにわかに平静を取り戻した。銃口を上げて手早く銃剣を溝に沿わせ、前方に滑らせて、バネ式のラッチで固定する。カチッという金属音があちこちで聞こえ、片刃の剣先が蝋燭の炎を受けて妖しく煌めく。
「突撃ィ――ッッ!」
「オオオォォッッ!」
兵士達の鬼が吼えた。
同時に、それに応えるように、本堂の外からも野太い鬨の声が上がった。
無数の弾痕で穴だらけになり、空しく月明かりを通していた本堂の引き戸が荒々しく蹴破られて、手拭いや面で思い思いに顔を隠した男達が雪崩れ込んでくる。
鴛鴦組の若衆だった。万が一の場合に備え、銀次が五名ほどを庫裡に控えさせていたのだ。銅鑼の合図で飛び起きた若衆らは、どれも皆、幾度となく抗争を生き抜いてきた強者ばかりである。
しかし、中でもひときわ大きな巨躯を――木彫りのひょっとこ面に綿入れを羽織った男を見つけ、銀次は思わず目を剥いた。
「なんでアンタがおるんですか! この件はワシに捌かせる言うたやないですかッ!」
ひょうきんな表情のひょっとこ面に隠されているが、間違いない、この巨漢は吾妻だ。
無論、銀次が手配していた人数に吾妻は含まれていない。替えの効かない挨拶回りが多いため年始はしばらく忙しいと、だからこそ『金田中』の件はお前に任せると言っていたはずなのに……
「そんなにワシが信用できんですか……」
「そう拗ねるない、『弁財天』。俺ァ祭りと聞いて冷やかしに来ただけよ」
肩を落としてしょげる銀次の背中をバシリと叩き、面の下で吾妻が笑う。そして叫んだ。
「俺らの背で女神が微笑んでやがる! 手前ェら安心して死地を駆けろッ!」
「応ッ!」
統制が乱れたとはいえ、相手は訓練を受けた兵卒だ。頭数の多寡でも圧倒的に劣っている。
にも拘らず、若衆らは一瞬の怯みさえ見せずに硝煙の中へと飛び込んでいった。正眼に構えられた幾つもの銃剣がそれを迎える。
女神の微笑み――銀次の援護射撃を恃みにしている部分も大きいだろう。しかし、何よりも強く彼らの魂を鼓舞したのは……
「やっぱ、あのお人には敵わんわぁ」
しゃがんだまま額に片手を当てて、銀次が苦笑する。
優れた指揮官の号令よりも、鳴り響く軍太鼓よりも、鴛鴦組の男達を奮い立たせるもの。血を熱くさせ、腹の底に火を点けるもの……
それが、吾妻健吾の咆哮であった。




