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骨董屋あらため  作者: 山路こいし
第一章 銀座綺譚
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二五 旅順に散らば



 韮山(にらやま)()()()()()()しまうと、銀次は小岩じみた男に命じて鏡を持ってこさせた。ここがまだ寺として開かれていた頃、神仏習合の名残りで置かれていたという大きな円鏡(まるかがみ)である。それを、蛇川の指示に従って韮山の枕元に据えさせる。


「これで韮山の夢と現実が繋がるっちゅうわけですか」


「鏡だからな」


「はあ……さようで」


 実のところ、この段に至っても、銀次は"鬼"というものをまるで信じていない。そもそも興味の範疇にないのである。なぜなら、神だの幽霊だの、鬼だのについていくら頭を悩ませたところで、少しも腹が膨れないからだ。

 金もないのに子沢山という極貧家庭に育った銀次にとって、何よりも恐ろしいのは、耐え難いのは、より実質的で人間的なもの――空腹であった。


 だが、吾妻は「(鬼が)いる」と言った。ならばいるのだ。蛇川を支えろと言った、ならば支えるまでだ。

 満ツ前銀次とはそういう思考をする男である。


「それはそうと、『乱れ桜』の二回戦だ!」


 退屈そうだった蛇川の顔がパッと華やぐ。


「相手の気勢を嘲笑うかのごとき肩すかし……あの鮮やかな初動を見せつけられては次戦の相手も……あれは単なる決まり手ではなく布石でもあったと僕は見るが……」


 銀次の苦笑をものともせずに、蛇川が頬を上気させてまくしたてる。相撲大会が行われたのはもう半月以上も前なのに、恐るべき記憶力を備えた脳は、昨日のことのようにその興奮を覚えているらしい。

 話すうちに興が乗ったか、取組みの再現をしようと蛇川が立ち上がった時、小岩じみた男が声をかけた。


「旦那。韮山の様子が変ですぜ」


 見れば、それまでは目蓋の奥でゆっくり左右に運動していた韮山の眼球が動きを止め、細かく痙攣し始めていた。顔に苦悶の表情を浮かべ、歯を食いしばり、煎餅布団の上で脚をモゾモゾと動かしている。


「例の夢を見始めよったらしいな」


「シッ! 鏡を見ろ!」


 蛇川の鋭い言葉を受けて、男達が円鏡に目を向ける。


 その鏡面は、もはや韮山を映していなかった。

 映し出されているのは雪原である。雪の周りには墨のような闇が広がっていて、その一部が動いている――と思いきや、闇から人間の形が浮かび上がった。軍服姿の男が、その背に負った三八式歩兵銃が、徐々に鮮明に像を結んでいく。

 

 一歩一歩、軍服の男が近付いてくる。確かな足取りで、雪深い中を、迷いもなく韮山に向かってやって来る。ギュッ、ギュッと雪を踏み締める足音まで聞こえてくるような……

 いや、幻聴ではない。本堂には蛇川達以外に誰もいないはずなのに、確かに、入母屋造(いりもやづくり)の高い天井に足音が響いている。


「ははあ……これはこれは」


 銀次がペロリと唇を舐める。背筋がゾクゾクするのは武者震いだろうか。立ち上がり、節の目立つ両手の指をパキパキと鳴らして、いまだ対峙したことのない敵との邂逅に備える。


 その間にも徐々に足音が近付いてくる。軍人の鬼が迫ってくる、明らかな憎悪と共に。

 しかし、その思考は生ぬるかったのだと、じきに男達は思い知らされることとなった。


 聞こえてきたのは単なる足音ではなかったのだ。

 ひとつの音と錯覚させられてしまうほど、一糸乱れぬ複数の足音……右、左、右、左……数十もの足音が同じ拍で雪を押し潰す。右、左、右、左――


 単独行動ではない、これは行軍だ!


「韮山のボケナスッ! 軍服の男やない……軍服の男"共"やないか!」


 銀次が寝ている韮山の胴を蹴り飛ばす。グエッと悲鳴を上げて韮山が飛び起きたが、しかし足音は止まらない。本堂の中でもひときわ闇深いところ、須弥壇のあたりから絶えず足音が響いてくる。鏡を媒介にして夢と(うつつ)が繋がったのだ。右、左、右、左。もはや地響きすら伝わってくる。


 足音が近付くにつれ、肌を痺れさせる冷気が本堂に流れ込んできた。一月の銀座のそれとは比にならない、生身を晒すだけで死を予感させるほどの冷気だ。

 板目に沿って霜が拡がり、男達の息を白くする。雪の匂いを孕んだ風が足の裏を凍らせ、皮膚を喰むようにしながら這い上がってくる。鼻の奥がツンと痛む。呼吸するたびに無数の針が肺に突き刺さるかのようだ。


「旅順を思い出しまさぁ」


 小岩じみた男が呟く。彼もまた従軍を志願した一兵卒だったのだろう。


 やがてその時がやってきた。闇の中から軍服の集団がついに姿を現したのだ。

 その数、三十余名。小隊による二列横隊での行軍である。右、左、右、左……まるで二枚の頑強な板のような……雪を踏む足も、肩の高さも、背で揺れる銃口すらも寸分違わぬ、死を目標に突き進む鬼の行軍。前列中央に並んだ男が韮山を睨み据え、その顔を指で指し示している。


 横隊は板張りの床を歩いているはずなのに、ギュッ、ギュッと雪を踏む音がする。きっと、彼らの魂は極寒の露西亜(ロシア)に磔となったままなのだ……

 

 と。

 隊列が不意に脚を止めた。前列の男達が統制の取れた動きで膝をつく。と見えた瞬間、


「一斉射撃、構え――ッ!」


「おいおい、冗談ちゃうぞ!」


 韮山を蹴り飛ばした勢いそのまま、本堂を突っ切った銀次が銅鑼(ドラ)(バチ)を拾い上げる。腕をしならせて振りかぶると、錆びた銅鑼を力一杯叩き鳴らした。

 グワァン……グワァン……グワァンン……。三度続けて叩き鳴らすと、脇にあった大太鼓の陰に飛び込んだ。韮山の首根を掴み、蛇川もまた柱の陰に身を隠す。


「ッてェ――ッ!!」


 蛇川達が辛くも遮蔽物に身を隠すと同時に、槍衾のように並んだ三八式歩兵銃が火を噴いた。

 轟音と共に柱の木肌が抉られ、細かい木片が花火のように弾け飛ぶ。熱い風が寒気を切り裂いて頬を叩く。瞬きをする間に座具も香炉も形を失い、襖が千々の紙屑と化し、畳が跳ね、空気を震わす衝撃が胸の奥まで突き抜ける。雷鳴にも似た炸裂音が鼓膜を痺れさせ、脳をも揺らし、強靭な男達の脚をふらつかせる。柱からはみ出た足先に銃弾を受け、韮山がギャッと悲鳴を上げた。


 ……火薬の焦げた臭いが充満する。

 ここはもはや本堂ではない、戦場の真っ只中だ。


「くそッ……『弁財天』、『小閻魔』ッ、無事か!」


 蛇川が即席の四股名を叫ぶ。身分を明かさぬよう、四股名で呼び合うことにしたらしい。大太鼓や柱の陰からそれぞれ応じる声があった。しかし、続けて放たれた第二弾、第三弾が本堂を揺らし、男達の連携を困難にする。


「鬼の絶叫をまともに聞くな! 身体が痺れて自由が奪われるぞ!」


「絶叫もクソも、この音じゃ聞こえすらしませんわ!」


 三八式歩兵銃のマガジンは五発篭めだ。冷静に着弾数を数えていた銀次は、次弾装填の隙をつき、大太鼓という心許ない遮蔽物を捨てて柱の陰に滑り込んだ。

 走りながら肩提げの拳銃(のう)から愛用の南部式自動拳銃乙型を抜き取り、体勢も整えないまま、ついでとばかりに一発御礼をくれてやる。


 小隊の一斉射撃による火力とは比べ物にもならないはずのそれは、

 射程も飛距離もさして精度がいいとはいえない南部大拳から放たれたその一撃は、

 しかし二列横隊の隙間を縫ってその後方――小隊長と思われる、号令を飛ばしていた男の顎を的確に撃ち抜いた。


 満ツ前銀次という、実務能力には秀でているものの、決して武闘派とはいえない男が、剛の者ばかりが集う銀座鴛鴦組で「若頭補佐」という役職に就いている理由がこれだった。


 正確無比な狙撃の腕。

 一瞬で戦況を覆しうる可能性を秘めた、痛烈な一撃。


 どれほど荒れた抗争の場でも、背後から銀次の声が聞こえれば皆が勇気付けられた。

 たとえ敵が手投げ弾を持っていようとも、銀次ならば、敵が摩擦信管のキャップを捻じ切るよりも早く、その手ごと撃ち抜いてくれるはずだ。もし銀次でさえどうにもできない戦況ならば、それはただ、己の死に場所がここであるというだけのこと……


 銃口から立ち昇る硝煙をフッと吹き飛ばし、銀次がいっそう目を細めた。


「お粗末!」


 飄々と。しかし冷静に。

 糸のような目は、常に油断なく、空を翔ける鷹のように俯瞰して戦場を見下ろしている。今、相手がもっとも嫌がるであろう、最悪で最良の一手を探して――



 

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