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骨董屋あらため  作者: 山路こいし
第一章 銀座綺譚
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二四 旅順に散らば




 夕刻、韮山(にらやま)は生まれて初めて乗る四輪自動車に揺られていた。

 といっても、決して愉快な乗車体験ではなかった。なにせ、韮山は猿轡(さるぐつわ)を嚙まされたうえに頭からスッポリと麻袋を被せられていたのだ。


 勤め先の新聞社を出た直後のことだった。背後から突然襲撃されたため、何者に拉致されたのかも分からない。揺れや物音からどうやらそうらしいと判じただけで、己が乗せられているのが四輪自動車かどうかすら怪しかった。


 どの理由で自分がこんな目に遭っているのかは分からない。分からないが、「なぜ自分が」ではなく、「どの理由で」と自然に考えてしまうのだ。悲しいことに、身に覚えが山ほどある。


 やがて、金属質なブレーキ音(やはり自動車だったようだ)と共に動きが止まった……と思いきや、韮山の身体が米俵のように抱え上げられた。小柄とはいえ、大人の男である韮山を軽々と持ち上げてしまう襲撃者に、改めて恐怖が込み上げてくる。


 抵抗する気力も湧かないまま担がれてしばらく行くと、どうやら目的地に着いたらしい。思いのほか優しい手付きで降ろされ、次いで麻袋がパッと外された。


 広い板張りの空間だった。

 窓はなく、蝋燭が数本灯されただけの薄暗い広間だったが、麻袋に視界を遮られていた韮山にとってはそれさえも眩しく、思わず目を細める。その正面で、伸び縮みする赤い炎が、荘厳な如来坐像を背負う形で立つ"狐"を妖しく浮かび上がらせていた。


 狐――いや、黒塗りの狐面を付けた細身の男だ。

 面には白く柔らかい線で鼻や細い目が描かれているが、その表情はどこかとぼけていて滑稽さを感じさせる。趣味のいい三つ揃えスーツと狐面の対比が、妙にちぐはぐな印象だった。


「韮山文蔵やな」


 狐面の下から少しくぐもった声の関西弁が響く。


「感謝せえよ。アンタが助けを乞うた御仁がなぁ、兵隊さんの霊からアンタを救うてくださるそうや。一生涯感謝せえ。

 ただ……アンタはブン屋や。糞にたかる蝿のような輩や。救われた恩も忘れて、後々あることないこと書かれたら面倒やさかい……ワシらは身分を伏せさせてもらいまひょ」


 戯けたように人差し指を口の前に立ててはいるが、その声はゾクリとするほどに冷たい。


 韮山はあんぐりと口を開いたまま固まった。

 殺される、と思っていたのだ。あるいは惨い拷問が待っていると。当たり前だ、有無も言わさず拉致されたのだから。


 迷いもなく、恐ろしく慣れた手付きであった。襲撃者が暴力の中で生きる輩であることが否応なく察せられる。命乞いなど、蚊の羽音ほどの意味もなすまい。

 ならばどの財産――新聞記者として事件を嗅ぎ回る中で手に入れた数々の秘密だ――を捧げれば命拾いできるかしらと、麻袋の下で脂汗をかきかき必死で思考を巡らせていた韮山だった。なのに、今、この男は「救う」と言ったか? 軍人の霊から?


「ちょ……ちょっと待ってくだせえよ、旦那。状況がまるで理解できな……」


「理解する必要はない」


 狐面の男がピシャリと言い放つ。


「アンタはただ、念仏唱えて寝とけばええ。なにせ、兵隊さんの霊とやらは夢の中に現れるんやろう……現れたなら……後はあちらの御仁が万事解決してくださるわ」


 あちらの、と手で指し示す方を見遣れば、艶めかしい美貌の男が太い柱に背を凭せかけて立っている。

 そうだ、思い出した。自分はあの男に助けを乞うたのだ。天女のように美しい男だったので、あれもまた夢の出来事かと思っていたが……


 韮山の視線を受け、天女がゆるゆるとため息をついた。


「とにかくあんたが夢を見んことには始まらん。大船に乗ったつもりでさっさと寝たまえ」


 ここへ至って、ようやく韮山は周囲を見回す余裕を得た。どうやら相手に真実害意がないらしいことを肌で感じ取ったからだ。新聞記者という、キナ臭い話題や事件の狭間を駆け回り、人の秘密や本性に触れる仕事に従事してきた韮山には、臆病な野生動物じみた勘が備わっていた。


 連れてこられたのは板張りのだだっ広い空間で、奥には金箔で飾り付けられた豪奢な三段の須弥壇(しゅみだん)が設けられている。段には蒔絵で長い尾の鳥が描かれていて――あれは孔雀だろうか。

 須弥壇の上には穏やかな眼差しの如来坐像が安置されていて、かつては金泥で光り輝いていたのだろう。しかし、塗装はほとんどが剥げて木の肌が露出しており、それがある種の凄みのような、おどろおどろしさを湛えていた。


 どこかの寺の本堂に見えるが、しかし壁には薙刀や槍が立てかけられ、壁際に置かれた樽には木刀が無造作に突っ込まれている。仏具と見られる大太鼓の脇には巻藁や綱、麻袋などが雑多に転がっていた。


 (おごそ)かさと荒々しさが同居したような空間に、素性の知れない男が三人。関西弁の狐と不機嫌な天女、そして韮山の背後にもうひとり――これが韮山を軽々と持ち上げた襲撃者だろう。背丈こそ韮山と大して変わらないが、ゴツゴツと盛り上がった筋肉が小岩を連想させる男が立っていた。小岩もまた、編笠と手拭いで顔を隠している。

 その脇には黄ばんだ煎餅布団が敷かれていて、本当に、ここで寝ろということらしい……



 無言の圧におされて怖々布団に寝転んだ韮山だったが、この状況下で眠気がやってこようはずもない。

 韮山も相当心臓に毛を生やした男ではあるが、それでも、拉致された先の怪しい本堂(あるいは道場)で、正体不明の男達に見守られながら(いびき)をかけるほどの肝っ玉はない。


 居心地の悪さにモゾモゾと寝返りを繰り返していると、しびれを切らしたのだろう、胡座をかいていた狐面が膝を打って立ち上がった。


「……よっしゃ! いっちょ子守唄でも聞かせたろかい」


 韮山の髪を鷲掴みにして無理やり上体を引き起こした狐面が、子守唄を口ずさみながら、スルリとその背後に回り込んだ。ジャケツの腕を韮山の首元に回し、肘の内側を首の頸動脈に食い込ませると、もう片方の手で手首を掴んで勢いよく締め上げる。耳元で歌われる穏やかな子守唄が、強烈な違和感と恐ろしさを掻き立てる。


「んがッ、ぐ……っ」


 短く呻く余地すらない。

 わずか数秒。流れるような裸絞(はだかじめ)が決まり、韮山の身体から力が抜ける。と見るや、狐面――銀次はすぐに腕を解き、泥人形のようにクタリと落ちた韮山の身体を足でチョイチョイと布団に寄せた。


「ええ夢見いや」


 無論、失神した韮山の耳にその言葉は届かない。



 

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