二二 旅順に散らば
三が日のうちに『がらん堂』を訪ねる心づもりでいた吾妻だったが、結局、そのドアを開ける頃には一月も半ばに差し掛かろうとしていた。年明け早々、キナ臭い事件が多発したためだ。
元旦当日に起きた御者の首吊りに始まり、大八車を狙った小火騒ぎ、夜遊びに興じていた令嬢の拐かし未遂、酔客同士の刃傷沙汰に、極めつけが……
「まいど」
スーツ姿の吾妻が『がらん堂』のドアを開けると、蛇川は新聞から目を上げることもなく「ああ」と返した。
「本当はも少し早く顔を出すつもりだったんだが。ほい、これは先生に。あけまして……だいぶ経っちまったが、まあそんな感じだ。こっちはくず子ちゃんに。くず子ちゃんは留守かい?」
「やあ、『東長』じゃないか!」
くず子というのは、この骨董屋『がらん堂』唯一の従業員である。かの少女が喜びそうな、色とりどりの金平糖を買って来たのだが……しかし、吾妻の質問は蛇川の耳に届かなかったらしい。デスクに置かれた日本酒を見て、嬉しそうに舌を鳴らしている。
「"東洋の王者"、しかも純米大吟醸ばかりが三本も手土産とは気前がいいな」
「極上の酒だぜ。平民宰相(原敬の通称)お墨付きの酒ってんで、手に入れるのにも苦労したんだ。くれぐれも年末のような荒れた飲み方はしなさんなよ」
「余計なお世話だ」
フン、と蛇川が鼻を鳴らす。
「この景気の良さから察するに、〈涙〉は相当いい金に化けていると見えるな」
「おっしゃる通りで。もう、蛇川先生様様ですよ。ま、今年もひとつ、死なん程度によろしく頼む」
「そっちもな」
蛇川が新聞をデスクに広げる。その紙面には、目下吾妻が頭を悩ませている事件が仰々しく報じられていた。新橋にある高級料亭『金田中』で新年を祝っていた一行が、侍らせていた芸者ともども惨殺せられたという凄惨な事件だ。
「この、殺された木本某とかいう男……先の戦では露助(ロシア人)を何人も殺し回って"旅順の鬼"とまで呼ばれた元軍人らしいじゃないか。剛の者でも当たり前のように殺される時代だ。いつ誰に何があるや分からん」
「この事件なあ……まったく参ったよ。木本のおっさんはウチと付き合いのあったオヤジでな。戦争を食い物にして成り上がったクチの薄汚い金持ちなんだが。
別に思い入れも何もありゃしねえが、それでも縁の者だ。もし他所のスジ者にやられたとあっちゃあ、ウチの面子が潰れっちまう。それで、年始早々調べ回っていたんだが、まあ、その可能性はないようだ」
「ただひとり命を拾った芸者の話では『軍服の男にやられた』とあるが……このご時世に好んで悪目立ちしたがる軍人がいるかね?」
蛇川の言う「先の戦」――つまり日露戦争では、多くの男手が徴兵されて前線に送り込まれた。吾妻の鴛鴦組からも、身分を隠して従軍を志願した若衆が何人もいる。「力なき者を守る」という大義を前に、彼らは命の賭け時を迷うことがないからだ。それに、箔も付く。
しかし、国中が戦勝気分に湧き、帰還兵らが英雄扱いされたのはせいぜい数年だけだった。賠償金を得られず、高額な戦費が重税となってのしかかってきたことで、人々の暮らしは圧迫の一途を辿ったためだ。その不満と怒りの矛先は、事もあろうに、地獄からなんとか這い上がってきたはずの帰還兵らにも向けられた。
「ただでさえ『金食い虫』と非難を集めている軍人が、わざわざそれと分かる軍服を纏って高級料亭に現れるか? 挙げ句の果てには殺人だ。軍の評判が地に堕ちるぞ」
「いや、それがどうやらあり得なくもないんだよ。ホトケを検めた警官に話を聞いたんだがな……木本のおっさんに遺された刺し傷はどれも三角形をしていて、縫合できんほどに深かったらしい」
「ふむ! 銃剣による刺突痕というわけか。露助を苦しめた三十年式銃剣も、確か三角の刃を持っていたはずだ」
「先生は話が早くて助かるよ」
軍服も銃も官給品であるから、徴兵された一般兵は、除隊と同時にすべて軍に返納する決まりとなっている。
しかし、戦後の混乱期には装備品の返納制度がまだ整備されていなかったため、故意や過失に関わらず、官給品がそのまま個人の所有物となることも珍しくなかった。そうして市井に出回った銃が闇に流れて犯罪に使われ、大きな社会問題になると共に、戦地帰りへの心象をさらに悪くする一因にもなっている……のだが、それはまた別の話。
ともあれ銃剣だ。
任期中の軍人であれ、治安維持行動などの軍務中以外に銃を持ち歩くことは固く禁じられている。よって、真実銃剣が凶器であるなら、戦後のどさくさに紛れて出回った流出品である可能性が高い。
「しかし、そうなると今度はわざわざ軍服を着る理由が解せん。軍に罪をなすりつけるのが目的か? あるいは、単独で軍務に就いていた者が突如錯乱したか……」
「だが、事件当日、新橋近辺で軍務に当たっていた隊はなかったんだと。伝令が突っ切ってった……なんて可能性もゼロじゃねえが、派手な動きがあるとすぐ噂になるだろ。でもそんな話も聞かねえんだよ。
そもそも『金田中』に兵隊さんが入っていく様子を見たって奴が一人もいねえんだ」
「となると芸者の狂言か……しかし遺体は銃剣による殺しを示唆している……ハハ! これは興味深いな」
その時、『がらん堂』のドアが勢いよく開けられた。〈空鈴〉が舌もないのにけたたましい音を鳴らす。
見れば、ハンチング帽にズボン吊り姿の小男が顔を青褪めさせて立っていた。
『がらん堂』を訪れる客のほとんどと同じように、なぜ自分がここにいるのか、そもそもここはどこなのか、と口を半開きにして呆けていたが、蛇川達の姿を認めるなり唇を戦慄かせて悲鳴を上げた。
「たっ、助けてくれ! 誰でもいい……何でもいいから、とにかく、俺を助けろっ! このままだと……」
ゴクリと喉を鳴らして唾を呑み込むと、
「このままだと、俺は、軍人の霊に殺されちまう!」
……ハンチング帽の男からすれば、不愉快だし、不可解な反応だっただろう。しかし、二人はまさに今「軍人」について考えを巡らせていたところだったのだ。あまりによく出来た話の流れに、蛇川と吾妻は思わず顔を見合わせてふき出した。




