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骨董屋あらため  作者: 山路こいし
第一章 銀座綺譚
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二一 旅順に散らば




 銀座の外れには小高い丘があって、頂には古びた寺が建っている。寺といっても、とうの昔に廃寺(はいじ)された寺で住職もいない。

 眺望がよく、銀座の街を一望できるこの寺は、かつて界隈を担当していた"も組"の火消し達が有事の際に集められた由緒ある場所でもある。いわば、命を賭して「力なき者」を守り抜いてきた男達の魂が宿った場所だ。今は銀座鴛鴦(おしどり)組の持ち物である。


 普段は鴛鴦組の道場として使われ、鍛錬や礼儀作法の学舎として活用されている廃寺だが、年の瀬になるとにわかに緊張感を帯びてくる。毎年、この時期には鴛鴦組の恒例行事が執り行われるためだ。


 特に元旦は圧巻だ。

 組を挙げての新年会は、火消しの象徴である(まとい)を天高く掲げた「纏揚げ」で華々しく始まり、次に「木遣(きや)り」へと続く。木遣りは、元は掛け声や合図として唄われた作業唄であったが、江戸時代になると町火消しによって洗練され、祭礼の場などで広く唄われるようになったものだ。火消しの流れを汲む鴛鴦組では、今も伝統として新年会で木遣りを披露するのが習わしとなっている。

 男達は皆揃いの法被(はっぴ)を羽織っていて、その背には鴛鴦の(つがい)(かたど)った紋が染め抜かれている。纏にも同じ紋が金糸で刺繍されており、ひとつの紋の下に集った任侠達の姿はそれだけで壮観であった。


 男達が野太い喉で唄い上げる荘厳な木遣りが終わり、組長からの挨拶が済むと、軽やかな触れ太鼓の音に合わせて褌姿の若衆らが雪崩れ込んでくる。新年を祝う相撲大会の始まりだ。これを楽しみに毎年丘を登って来る見物人も多い。



 樽の脇に立ち、手ずから祝い酒を振舞っていた若頭・吾妻のもとに、全身から湯気を立たせた男が駆け寄ってきた。今さっき行われた取組みの勝者である。


 上背はそこそこあるものの肉付きが薄く、吾妻の巨躯と並ぶとマッチ棒のようにも見える華奢な男だ。顔付きも飄々としたもので、一見しただけでは武闘派集団の構成員とは思えない。

 しかし、背中一面に彫られた(あで)やかな弁財天が、左目の上を走る大きな刀疵が。そして何より、キュウッと弧を描いて吊り上がった、糸のように細く鋭い目……その目の底にある、抜き身の刃にも似た冷たい光が、男を堅気(カタギ)の世界から遠ざけていた。


 本堂の階段に腰掛けた組長と、吾妻とに向かって、疵顔の男が順に頭を下げる。吾妻は朱塗りの(さかずき)になみなみと酒を注ぎ、笑顔で男に差し出しながら声を張り上げた。


「勝者ッ、満ツ前(みつまえ)銀次!」


 ドッと大いに場が湧き上がる。銀次と呼ばれた男は、捧げ持った盃をひと息で飲み干した。背中の和彫りがパッともう一段鮮やかに染まる。


「見事な決まり手だったじゃねえか、ギン」


「まだ一回戦ですからな。"古女房"として、こんなところで消えてやる訳にはいきませんのや。

 若頭こそ、アニ(木遣りのソロ)の大役ご苦労さんでした。今年の木遣りも痺れましたわぁ……ほんま、ええ喉してはる」


 軽妙な関西弁でニヤリと笑い、銀次が腹のサラシで飲み口を拭う。柄杓を受け取り、清めた盃に一層なみなみと酒を注ぐと、「どうぞ」と吾妻に差し出した。


「ええ酒や、骨まで沁みましたわ。若頭もぜひ」


「おいおい、俺だってこの後取組みがあるんだぜ」


「負け知らずのお人が何を言うてはるのやら。……おいっ手前ェら、祝い酒もろたら必ず返盃せえよ! 酔いに酔わせて、今年こそ吾妻健吾に土付けたれッ!」


 オオッ!と地響きのような声がそれに応える。苦笑しながらも吾妻が盃を空にすると、さらに大きな歓声が上がった。腕で口元を拭い、盃を振って(しずく)を切りながら吾妻が叫ぶ。


「さあ次だ! 手前ェら、オヤジの前で無様な取組み見せたら承知しねえぞ!」


 一帯はやいのやいのの大盛り上がりだ。勝ち抜き戦で行われるこの相撲大会では、勝つたびに祝い酒が振る舞われるため、決勝ともなるとさすがに足元が覚束なくなる。それがまた笑いを誘うのだ。


 心地よい熱気に包まれながら、盃を置いて本堂へ。

 本堂の階段にドッシリと腰掛けているのは、かつて「銀座の傑物」と呼ばれ畏れられた男、鴛鴦組組長・神蔵(かみくら)甚八だ。黒紋付の上から揃いの法被を肩掛けにし、愛用の煙管(キセル)をふかしながら、汗の粒を散らして身体をぶつけ合う若衆らを眺めている。吾妻が横に立つと、石段をポンと叩いて座るように促した。目礼し、吾妻が下段に腰掛ける。


「……俺ァ毎年、これを観るのが楽しみでなあ。()()達が皆んないい顔してやがる。なあ、吾妻」


「皆んなオヤジの前で格好つけたいんですよ」


 潰れた喉の奥でグツグツと笑い、神蔵が紫煙をプカリと吐き出した。六十をとうに過ぎた老傑であるが、今なお吾妻を超える愛煙家ぶりである。


「例の御仁は今年も来てるのかい。お前ェが惚れ込んでるってえ骨董屋の先生だよ」


「来てますよ。あのお人は大の相撲好きですからね。ほら、あそこ。最前列で土俵に齧り付いてる様子のいい男がいるでしょう。あれですよ」


 二人の男の視線の先では、和装にトンビコート姿の蛇川が、革手袋の拳を振り回しながら「腰が引けてるぞッ、九頭龍!」「般若ッ、右だ! 右を差せッ!」などと盛んに野次を飛ばしている。刺青の柄から勝手に四股名をつけて盛り上がっているのだ。その様子を見た神蔵がガラガラと笑い声を上げた。


「カッカ! 気持ちのいい御仁じゃねえか。後で挨拶に行かねばな」


「俺も、後日酒を持って参上するつもりでいます」


「んむ……」


 刻み煙草を指先で丸めながら、目を細くした神蔵が蛇川を見つめる。

 荒事から睦事(むつごと)まで様々なものを見て来た瞳には、打算も虚勢もなく、ひたすら無邪気に声援を送る蛇川の姿が、どうしようもなく眩しく映るらしかった。周りのほとんどが極道者にも拘らず、まるで気負わずいられる肝の据わりようも好ましく感じるのだろう。


「ありゃあ、男が惚れる類いの男だな、吾妻よ。気骨のある奴ァ皆んな、不思議な色したあの(まなこ)に己を映したくなっちまう……この御仁に己を見てもらいたい、認められたいと願っちまうわけだ。

 見てくれの良し悪しだけで岡惚れしゃあがる女の情愛なぞとは重みが違う。男が男に惚れる瞬間ってのはな……目の前にいる男が、手前ェの(タマ)信念(スジ)を賭するに値する男であると確信した時よ。


 大事にしろよ、吾妻。()()以外にそんな男と出会える奴ァ滅多にいねえ。先生にはとびっきり()い酒を持ってってやんな」


 ワアッと大きな歓声が上がった。九頭龍と呼ばれた若衆が足取りの末に押し倒されてしまったのだ。頭を抱えて口惜しがる蛇川に笑い、神蔵に一礼してから、吾妻が祝い酒を注ぎに戻った。


 大会はすでに波乱の様相を呈している。なにせ、男達は皆昨夜からほとんど眠っていないのだ。

 年末の三日間は拍子木を打ち鳴らしながら銀座中を夜回りするのが慣例となっており、最終日である大晦日――つまり昨日は、夜回りを終えた足で道場に集まり、年越し蕎麦を肴に夜通し酒を飲み続けていたのである。酔い潰れた者から順に板張りの本堂で雑魚寝をするが、空が白む頃には起き出して元旦の準備を始めている。


 鴛鴦組が執り行うこの催しは毎年評判で、鴛鴦組と友好関係にある他組の面々はもちろん、繋がりの深い地元の名士や顔役、医者先生なども顔を揃えて見物に来ている。ヤクザ(と言うと吾妻は怒るが)との関わりを表沙汰にできないはずの大企業の重役までもが、土産を携え、帽子に手拭いで顔を隠して参上していた。鴛鴦組の規模と人脈が窺えるというものだ。



 結局、優勝の栄冠は例年通り吾妻が掻っ攫っていった。

 勝者に祝い酒を振る舞うたびに返盃を受けるのだ、酒は人一倍食らっていたはずだが、その足運びは最後まで一切乱れることがなかった。うわばみなのだ。これもまた傑物である。


 優勝者だけに許された黒漆の大盃を捧げ持ち、神蔵が注いだ酒を一滴残らず飲み干した吾妻を見て、銀次が口惜しそうな、しかし誇らしそうな顔で賞賛の声を送った。


「イヨッ、我らが不動明王! 弁慶も裸足で逃げ出すわい!」


 かつて火消しらが集った場所に、大正の今、義理と人情に生きる男達の哄笑が響き渡る。実に気持ちのいい、新年の幕開けであった。



 

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