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骨董屋あらため  作者: 山路こいし
第一章 銀座綺譚
19/58

一九 花魁の手鏡



 ――お前さんの美しさは武器だよ。そして呪いだ。


 禿時代、香津の面倒を見てくれた姐さん――当時の花形花魁の呟く声が蘇る。

 梅毒のために鼻が欠け、美しさの残り香さえもとうに消え失せた花魁が、痩せ細った腕を布団から差し出した。その手には見事な寄木細工の手鏡が握られている。


 ――わっちはお前さんが憎い。美しすぎるからね。でも、男共は皆お前さんに恋い焦がれて眠れぬ夜を過ごすだろう……美しすぎるからだよ。

 

 ――その顔で天下を獲りんしい、香津。(かんばせ)ひとつでこの世を手篭めにするんだよ。こんな地獄でも、てっぺんまで登れば少しはマシな空気が吸えるだろうさ。香津や、この手鏡にもてっぺんの景色を見せてやっておくれ……わっちの代わりに……


 ◆ ◆


 鬼が――ついさっきまで香津花魁だったはずのモノが、壊れたゼンマイ人形のようなぎこちなさで首を巡らせ、壁近くに立つ蛇川をひたと睨み据えた。

 

 ギョッとしたのは山岡である。

 手鏡の回想と己らとは交わらぬはずではなかったのか。今のアレは、明らかにこちらを認識しているように思われるが……


「おい、骨董屋。どうにも様子が……」


 蛇川を振り向いた山岡は、さらにギョッと身を竦ませた。あらわになった蛇川の右手――瘤のような血管と無数の目に埋め尽くされた、異形の右手を目の当たりにしたせいだ。

 およそヒトのモノではない。顔を青褪めさせる山岡を見て、口もないのに無数の目がケタケタと嗤った。


「そ、その手は……なぜ……」


「次に『なぜ』とほざいたら尻を蹴り上げるぞ、巡査」


 そう言いながら、蛇川が腰を落として身構える。

 と同時に、鬼が喉を震わせて絶叫した。金切り声のような、地の底から湧き上がる咆哮のような……ヒトの(ことわり)を外れた大絶叫に、鬼の口が裂け、喉が破れて、ドス黒い粘性の液体が撒き散らされる。

 

 声による鬼の支配だ。山岡の身体が痺れ、鼓動が早まり、生ぬるい汗が噴き出してくる。

 

 そんな山岡には目もくれず、長い脚で畳を踏み抜いて、矢と化した蛇川が鬼の間合いに飛び込んだ。

 迎え撃つ隙すら与えず懐に潜り込み、掌底による強烈な一撃を鬼の顎へと叩き込む。間髪を容れずさらにもう一歩踏み込むと、たたらを踏んだ鬼の喉元に鋭い足刀蹴りを見舞った。革靴の底が肉にめり込み、吹き飛ばされた鬼が燃えた襖もろとも倒れ込んだ。


 この間、わずか寸秒。

 正義と暴力の狭間で生きる山岡ですら唖然とさせる、息つく暇を与えない怒涛の連撃だ。


「若い女ばかりを焼き殺して回ったのは、己が美貌を炎で失った腹いせというわけか……どこまでも身勝手な女だ」


 着物の燃え滓が舞い狂う中、蛇川が冷たく言い放つ。

 

 蛇川にとって、美は合理性の中にのみ見出せるものだ。形としての美などに興味はない。

 自身の容貌が優れているらしいことは自覚しているが、そこに価値は感じない。それを誇りにも思わない。役に立つならば使いもしようが、失ったとて悔いもない。

 だから、香津花魁が異常なまでに顔の美しさにこだわり、その喪失に耐え切れず鬼と化すほど、形としての美にばかり執着する理由が分からなかった。理解しようとも思わなかった。ただ、成ってしまったらば斬るまでだ。


 再び蛇川が畳を蹴る。無論、鬼とてただ斬られてやる気などない。蝶のように爪を舞わせて、美しいその顔を抉ってやらんと襲い掛かってくる。


 血よりも赤い爪を寸前まで引き付けて(かわ)し、伸び切った左腕の外側に背を添わせて回転する蛇川が、流れるような足捌きで踏み込み、軽やかに跳躍する。

 

 まるで一流の舞いを観ているかのようだ。

 洗練され、研ぎ澄まされた、一切の無駄がない動き。

 

 燃え盛る木や布が炎風によって巻き上がり、赤や金の蓮となって恐ろしくも美しく花開く地獄の中で、

 インバネスコートの裾を翻し、懐剣の刃を煌めかせながら、蛇川が一心に舞っている。

 

 山岡が思わず見惚れた刹那、稲妻よりも鋭い浴びせ蹴りが鬼の顔面に炸裂した。

 鞭のようにしなる長い脚に、回転の遠心力も加えられた情け容赦ない一撃だ。

 

 悲鳴を上げることすら叶わず崩れ落ちた鬼の首筋に、続けて蛇川が〈哭刃(こくじん)〉を突き立てた――いや、


「なにッ!?」


 突き立てようとした。が、蹴られ殴られて乱れた鬼の黒髪が、刃の追撃を許さなかった。

 

 鋼のように強靭な髪に阻まれ、反動で仰け反った蛇川に長い黒髪が巻き付いた。髪の束が幾重にも重なり、たちまちのうちに蛇川の半身を簀巻きにしてしまう。痛烈な蹴りをくれた憎い右脚にも、(うごめ)く髪が絡み付く。

 凶悪なまでの力で締め上げられ、苦悶の表情を浮かべる蛇川の手から、ついに懐剣が滑り落ちた。鬼が狂気に満ちた笑みを浮かべる。


「髪は……女の武器でありんすえ……」


 破れた喉から零れ落ちる、打ち捨てられた老婆のような(しわが)れ声……


 両腕ごと動きを封じられた蛇川になす術はない。

 軽々と持ち上げられ、右に左に、弄ぶように振り回された末に、漆喰の壁へと叩き付けられる。二度、三度と壁にぶち当てられて、堪らず蛇川が唸り声を漏らす。

 

 鞭のように振り回される黒髪の一部が山岡の頭上を掠めた。頭を抱えて身を躱し、山岡が顔を上げた瞬間、再び鈍い音を立てて蛇川が壁に打ち据えられる。

 衝撃で妓楼全体が揺れ、燃えて崩れた梁が、柱が、蛇川の頭上に降り注ぐ。


「骨董屋ッ!!」


 身を屈め、頭への直撃だけはなんとか避けてきた蛇川だったが、土壁を割るほどの衝撃に意識が持っていかれそうになる。口中に鉄の臭みが広がる。

 しかし、転んでさえタダでは起きないのが蛇川という男だ。わずかに動く右の指先で床を探り、まだ燃え続けている柱の破片を拾い上げると、身体で鬼の視線を遮りながら火を髪の拘束具に押し当てた。火は髪だけでなく蛇川の指先も等しく舐めたが、唇を引き結んで静かに耐える。


 髪で捕らえたままの蛇川を、鬼が間近に引き寄せた。荒れ狂う攻防のさなかにあって、しかしその手付きには――いや髪付きには、愛猫を抱き寄せるかのような慈しみと喜びがあった。

 互いの吐息が交わるほどに近い距離で、鬼がしげしげと蛇川の顔を覗き込む。


「なんて……なんて綺麗な顔……。まるで舶来人形のような……」


 灰褐色の瞳が鬼を正面から睨み返す。腕の一本満足に動かすことすらままならぬ状況なのに、その瞳は抗う意志を捨てていない。辺りで燃え盛る炎よりも熱い怒りが、折れることを知らぬ魂が、瞳の中で渦巻いている。


「欲しい……その美しさが……

 欲しい……憎い……欲しい……憎い! 欲しい憎い欲しい憎い欲シイ憎イ……」


 ハッ、と蛇川が嗤った。


「僕の"美"は貴様ごときの器には到底収まらん。身の程を知れッ、愚か者が!」


 嘲笑と共に、血が混じった唾を鬼の顔面に吐き付ける。

 同時に、火で炙られて脆くなった髪の拘束から右腕がついに抜け出した。弛んだ拘束を遮二無二引き剥がし、ジャケツから〈鎮釘(ちんてい)〉を引き抜こうとする。が……

 

 鬼が絶叫を上げ、怒りに任せて、さらに激しく蛇川の身体を壁に打ち付けた。鏡台や香炉、衣桁(いこう)を巻き込み、火の粉を散らしながら、蛇川の細い身体が壁に叩き込まれる。酷い衝撃で漆喰が割れ、中の土壁が露出する。


 さっきまでの痛みはまだ易しかった。そう感じてしまうほどに強烈な一撃だった。

 脚から振り回される形となったことで頭への衝撃が加速したうえに、上半身を覆っていた髪――拘束具であり鎧でもあった髪が解けたことで、激突の力が肉体に直接伝わってしまったためだ。


 渾身の一撃に、ついに蛇川の黒目が天を向いた。喉を焼きながら駆け上がってきた吐瀉物が、畳に赤黒い花を咲かせる。

 視界が揺れる。音が遠のく。身体から痺れ以外の感覚が抜け落ちていく。


 だが、まだだ。まだ(たお)れてやるわけにはいかない。気を――意識を、保たねば。


 気力を振り絞って頬肉を噛み千切り、あわや飛びかけた意識をなんとか繋ぎ止めた蛇川だったが――

 

 次の瞬間、前触れもなく、脚に絡み付いていた髪が弛んだ。

 手折られた花が落下するように、支えを失った蛇川が力なく膝から崩れ落ちる。

 

 山岡だ。

 いつの間に動いたのだろう、蛇川が取り落とした懐剣を拾い上げ、鬼の背中に目一杯突き立てている。


「ギャアアァァ―――ッッ!!」


 鬼の(ことわり)を知らぬ山岡が刺したのだ。情念を断ち斬るには至らない。しかし深傷であることに変わりはない。

 鬼の怒りが、今度は山岡に向けられた。眼球のあった場所は空洞となって窪んでいたが、血走った瞳に見据えられているのを嫌というほど感じて山岡が武者震いした。捨て鉢になった犯罪者を前にしてさえ感じたことのない強い震えだ。


 痺れる四肢を鼓舞し、壁の助けを借りながら、なんとか蛇川が立ち上がる。口内に満ちた血を吐き出し、震え霞む目で見上げれば、鬼の背中越しに山岡の姿がチラリと見えた。今にも互いに組み付かんばかりの気迫だ。だが……


 無茶だ。

 鬼は情念を斬らねば斃れない。だが山岡にその力はない。


「巡査……ッ」


 散々痛め付けられ、吐瀉物で焼かれた喉からは掠れた声しか出てこない。

 今すぐ駆け付けないといけないのに、甘い夢に囚われたかのように足が痺れて動かない。


 鬼が吼えた。大気を震わせるその声が、山岡の中折れ帽を吹き飛ばし、半纏を千切り、顔や手の皮を切り裂く。しかし山岡は鬼から目を逸らさない。膝を緩め、胸の辺りに構えた掌をわずかに広げて、フゥ――…と腹から息を吐く。

 

 炎を受けてより赤みを増した爪が、十本の無慈悲な刃が、山岡の心臓目掛けて突き出される。蛇川が歯を噛み鳴らす。


「くそッ、門外漢が出しゃばりやがって……! 巡査ッ!」


 ――と。


 鬼の纏う打掛の裾が、

 炎に舐め取られて燃える裾が、

 天井近くにはためいた。


 蛇川は見た。

 逆立ちのようにフワリと持ち上げられた鬼が、驚愕の表情を浮かべるのを。


 まるで時が止まったかのようだった。脳天を床に向けた鬼と、呆気に取られた蛇川がキョトンと顔を見合わせる。


「どりゃああッ!」


 気合い一発!

 相手の勢いを手綱のようにいなした山岡が、片脚を鬼の腹に差し込み、打掛の肩を握り締めてグイッと引く。

 裾の炎が半円の軌跡を描いて跳ね飛び、次の瞬間、鬼の背中が黒焦げの畳へと真っ逆さまに打ち付けられた。


 畳が割れ、火の粉が舞い、燃えた木材がバラバラと天井から降ってくる。


 柔道歴四十余年。

 普段は冴えない山岡巡査がここ一番で魅せた、実に見事な巴投げであった。


「……ふ、あはははッ!」


 蛇川が、笑った。心底おかしそうに笑った。

 常のような侮蔑も嘲りも冷淡さもなく、屈託のない、紅顔の少年が見せるような笑いだった。追っかけ連の女達が見れば、きっと腰が砕けただろう。


 中年巡査が見せた思わぬ勇姿が、大いに励みとなったらしい。腹の底から熱い活力が湧き上がってくる。

 少年の気配は一瞬でかき消えた。血に濡れた歯を噛み締め、全身を怒らせ、膝を沈めた蛇川はまさに野の獣だ。

 

 残る力を振り絞り、蛇川が畳の縁を蹴り抜けた。


「懐剣を寄越せッ、山岡ァ―――ッッ!!」


 声に応じて山岡が懐剣を投げる。

 

 弓形に飛ぶ懐剣を宙空で受け取り、痺れる両手で握り締めると、駆ける勢いそのまま、我が身もろとも今度こそ〈哭刃〉を鬼の喉笛に突き立てる……




 美華登(みかど)楼から出た炎は瞬く間に四隣(しりん)へと広がり、およそ十時間をかけて吉原を焦土に変貌させた。

 警官や消防組に加え、近場に居合わせた陸軍兵士までが総出で消火にあたったものの、水利が悪く、頼みの蒸気喞筒(ポンプ)車は石炭を食い尽くしてしまって稼働すらせず、約六五〇〇もの家屋が焼け落ちた。


 明治四十四年、四月九日。

 後に吉原大火と呼ばれた大火事である。



 

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