一六 花魁の手鏡
――雀が交わす愛らしい鳴き声が、澄んだ空に響いている。どこかで男女の一群が笑いさざめく声がする。
眩しいほどの白昼だった。
二人は格子窓のある座敷に立っていた。
どうやら二階にいるらしいが、眼前に広がる景色は見知った帝都の姿ではない。
往来では髷を結った男達と、派手な着物の裾を翻す女達が行き交い、店先では太鼓に合わせて幼い娘が踊っている。風に乗って、遠くから三味線の音が運ばれてくる。
蛇川に取り縋ったまま、山岡はポカンと口を開けて周囲を見回した。
確かにさっきまで、自分達は築地警察署の保管庫にいたはずだ。薄暗く、埃臭く、カビっぽい……
それが今はどうだ。陽の光に照らされて輝く畳、賑やかな往来、座敷中に漂うお香の匂い。炎に包まれたはずの蛇川も、火傷のひとつすら負わずに平然と立っている。
いつまでも縋り付いている山岡を、蛇川が脚で邪険に押しのけた。支えを失った山岡は、手拭いを握り締めたままヘナヘナと座り込んでしまう。蛇川に足蹴にされたことさえ気付いていないようだった。
完全に茫然自失のていでいる山岡を見下ろし、蛇川が激しく舌を鳴らした。
許されるなら、呆けたように垂れ下がったその顎を蹴り上げてやりたい。
つぶらな瞳を開けるだけ開き、言葉もなく周囲に目をやる山岡。その姿を見ているだけで、暴力的で邪悪な欲が、腹の底からフツフツと込み上げてくる。
だから離れていろと言ったのに。どうせ、あと十秒もすれば、怒涛の「なぜ」がシャボン玉のように湧き出てくるに違いない。
一、ニ、三、……ああ面倒だ、面倒極まりない……八、ハァ、十。
「な……なぜ……何が起こっているというんだ」
そらきた。
「築地署は……? いったい、ここはどこなんだ。なぜ場所が……一瞬のうちに……何の手妻(奇術)だ? どういうカラクリだ、おい、炎は……手鏡はどこに消えた。なあおい骨董屋、なぜ我々は――」
「なぜ、なぜ、なぜ……。なあ、山岡巡査よ。あんたは『なぜ』女房と添ったんだ?」
「にょ……はぁ!?」
反射的に、山岡の脳裏に女房の姿が像を結ぶ。
うだつの上がらない山岡の、うだつの上がらない女房は、今日も亭主の帰りを待つこともなく床で鼾をかいていることだろう。
「そッ、そんなこと、なぜお前さんに言わにゃならんのだ!」
「僕とて知りたくて訊いたわけじゃないさ。
ただ、覚えておくといい。この世には、とてもひと言では答え得ぬ、あるいは答えすら持たぬ『なぜ』が山程あるということを」
要するに「ごちゃごちゃ言わずに黙ってろ」ということなのだが、蛇川にかかれば実に嫌味な言い回しとなる。
山岡は耳朶が熱くなるのを感じたが、しかし蛇川の苛立ちももっともだ。離れていろ、という忠告を無視したのは山岡なのだから。
あの時、確かに蛇川は、手鏡から迸り出た業火に全身を焼かれたはずだった。助からないのでは、と思った。菰の下に見た堀内七緒の哀れな焼死体がよぎり、気付けば我が身も省みずに無我夢中で飛び付いていたのだが……
ともかく、無事でよかった。
足蹴にされ、嫌味を投げ付けられてなお素直にそう思えるのだから、山岡も大概お人好しである。
山岡の心配と安堵をよそに、蛇川は面白そうに目を輝かせてあちこちを見て回っていた。窓辺の手摺りから往来を見下ろし、身を乗り出して、ほう、だの、ふむ、だのひとりで合点している。
「おおよそのことは分かった。まず、ここは吉原だ」
「吉原ァ!?」
「独特な構造の建物、立ち込める沈香の香りから遊廓だとはすぐに分かったが、加えて、この朱色の楼。楼がすべて朱塗りなのは吉原だけの特徴だ。
次に年代だが、防火意識もクソもない木造建てが身を寄せ合っているところを見ると、まず確実に明治四十四年以前……それに、あれだ」
蛇川は手摺りから身を乗り出して通りの先を指差した。その指し示す先を目で追えば、吉原の出入り口である大門が聳えているのが見える。
かつて遊女らを閉じ込めていた重厚な門扉は廃され、枠だけの姿となっていたが、それでもある種の重苦しさや、緊張感を宿した門だ。
「二本の門柱を繋ぐようにして橋型の建造物が渡され、その上に弁財天の肖像彫刻が据えられている。吉原の大門がこの形になったのは明治四十年一月だ。
つまり、僕たちは今、明治四十年から四十四年の間の、在りし日の吉原にいるというわけだ。
もう『なぜ』とは聞くなよ。あの手鏡はヒトの理を外れたモノだと言ったろう。そうしたモノの前では、場所も、時間も関係ないのだ」
続けて蛇川は、空の高さと霞具合を引き合いに季節が春らしいことを説明したが、その頃にはもう、山岡の意識はよそに移ってしまっていた。
その鼻先を掠めるようにして、今しも女が通り過ぎて行ったためである。
絢爛な緋色の打掛に、絡みつくように施された金糸の刺繍。前帯にも同様の意匠が豪奢に散りばめられている。
立派な横兵庫に結い上げられた鬢。そこに挿した玉かんざしが、耳の横でシャラシャラと涼やかな音を立てる。
白粉で整えた肌に、目尻には紅。商売前だからだろうか、最低限の化粧しかしていないのに、その顔を見るだけで胸がフワリと浮くような、背筋がゾクリと痺れるような、不思議な酔いに囚われる。
時を忘れて見入ってしまうほどに美しい女であった。
その美貌と派手な装いを見るに、まず間違いなく、この楼で一番の人気を誇る花魁であろう。
しかし女は山岡など眼中にもない様子で窓辺に進み、蛇川の横に立ったかと思うと、持っていた鳥籠の金具に手をかけた。繊細な細工が施された、金箔貼りの丸籠だ。
カチリと小さな音を立てて扉が開く。中に入っていた小鳥は、突如与えられた自由に戸惑うように首を傾げたが、やがて、軽やかな羽音と共に空へと一直線に羽ばたいていった。
「あっ、小鳥が……」
背後から幼い娘の声がした。
禿である。歳はまだ十にも届かないだろう。花柄の小袖に帯をやや大振りに結った、あどけない娘だった。
「香津姐さん、逃がしてしもうてようござんしたか? あの鳥は昨日、本郷屋の若様が花魁にと持ってきてくれたばかりで……」
香津と呼ばれた女は、艶やかな打掛の裾を引き摺りながら振り返った。その顔には底意地の悪い笑みが浮かんでいる。
「わっち(私)が? まさかぁ。鳥を逃したのはおなつ、お前さんじゃないかい」
「えっ……」
「お前さんがキチッと金具を閉めてりゃあ鳥は逃げずに済んだんだ、そうだろう? まったく、大事な贈り物を逃がしゃあがって……。
さあさあ、ボサッとしてないで、今すぐ追いかけて捕まえて来な。ちゃんッと捕まえるまで絶対に帰ってくるんじゃないよ」
言いながら、香津花魁がおなつの胸に空の鳥籠を押し付ける。
自由を得た鳥を、空を舞う鳥を、幼い娘がどうやって捕まえようというのか。顔を青褪めさせるおなつを見、しかし香津花魁はますます嬉しげに口元を歪めた。
「鳥が猫に食べられでもしたら……分かってるだろうね。三味線の撥で打たれるくらいじゃ済まないよ」
唇を噛み、涙目になりながらも鳥籠を手に駆けて行くおなつも、その背に甲高い笑い声を投げつける香津花魁も、二人の男には一瞥もくれない。そこに第三者がいることなど、知覚すらしていないらしかった。
「これは……この女達は……」
「例の手鏡が持つ記憶だろう。
元来、鬼は意外と語り好きなのだよ。なにせ奴らは恨み嫉みから生じたモノだ。己が身を焦がす情念を、その苦しみを、誰かに分かってほしいと願うものなのさ」
「鬼、か……」
山岡は高笑いを上げる香津花魁に目を向けた。
年端もいかぬ禿に理不尽な罪を押し付け、その焦りや恐怖のさまを見て心底喜ぶ香津花魁。容貌は頭抜けて美しいながら、その魂はひどく醜く歪んで見えた。
「確かに、鬼かもしれんな……」
どこか苦々しげに吐き捨てる山岡。しかしその声も、香津花魁には届かない。




