9-13 b さいきんの農業改革
黄金色の穂がダクスの城壁から見える一面の野を埋め尽くし、山から吹き下ろす風に煽られて波のように大地をうねらせていた。
「よし!」アリスは街の外壁の上に登って、一面の明るい金色を満足そうに見渡して満足そうに言った。
当然、アリスは脱走してきたのだ。
今日からいよいよ小麦の収穫が始まる。この後、それに加わるつもりだ。
アリスは時間ぎりぎりまで一面の小麦を眺め、その後、外壁から下りる階段を駆け下りると、収穫作業が始まる直前に農民たちと合流した。
アリスがいつも遊びに行く畑のまわりには普段の何倍もの人々が集まっていた。
ダクス周辺の人々で総出だ。
ちなみに、急いで収穫しろというアリスの命令のせいだ。
そして、命令を下したアリスは率先して動く。
アリスは鎌を持つと、例の夫婦に教わりながら収穫を手伝った。
どっちかって言うと小麦の刈り取りよりも、刈り取った小麦の運搬のほうでアリスは獅子奮迅の大活躍だった。
農民クラスの男ではアリスのパワーを上回る人間は誰も居なかった。
小麦の収穫は1週間で終わった。
ここ十数年で一番の収穫量だったそうだ。
ただし、2日前くらいに数か月ぶりにふらりと戻ってきたデヘアに言わせれば、ダクスの畑の能力を考えると豊作にはほど遠いとのことだった。
農民たちの顔は明るかった。何故なら、この小麦の余った分がお金となって自分たちに帰ってくるからだ。それは本当に微々たる額であった。それでも、この収穫から、農民たちの仕事が彼らの暮らしに還元されるようになったのだ。
一方で、アキア公とアキア候の表情は少しずつ険しくなっていた。
少なくともダクス近郊を見る限りは小麦の量は十分で販売価格も海外の小麦より安くできるのは確定なのだが、それでも何かが原因で売れなかったら・・・そんな不安が頭をよぎっているらしい。
夜になり、アリスの書斎に小麦の収穫高を記した書類をスラファが届けに来た。
「アリスン。」机に座って流通まわりの資金の計算を修正しているアリスにスラファが声をかけた。「どうしてこんなに急いで収穫したん?」
「こないだね、ペストリー卿が小麦の流通網を握っているのが気に食わないってアキア公に文句言われたのよ。」アリスの返事はスラファの質問に対する答えになっていなかったが、スラファはそのまま黙って聞いた。「アキア候もね、流通に何人も商人が絡むとコストが上がるからって言ってきた。」
「商人たちは海外の小麦売買でも間に入ってるからそこは一緒でしょ。アキア候も理解してたはずなの。」
「そうね。」アリスが言った。「二人とも不安なのよ。」
「不安?」
「そ、小麦が売れるかどうか。売れなかったらアキアは公領ごとお終いだし。」
「でも、ダクスで収穫した小麦の7割はもう買い手がついてるし、売価も目標価格で出せそうなんよ?問題ないはずなの。」
「問題ない『はず』だからよ。早めに『はず』をとって問題な『かった』にしないといけないみたい。」アリスが言った。「アキア公たちですらこれだけイライラするんだから、他の領主とか、何をしだすか分からないわ。だからいち早くダクスで成功を示したいの。」
「きちんと売れることを見せれば流通面は問題ないから安心できるってこと?」
「うん、それともう一つ。まだ小麦の買い手の付き方が鈍い。」アリスが答えた。「これを改善したい。」
「うーん。そうかなあ?」スラファが首をかしげた。
「貴族商取引法よりも安い価格まで売価を押さえることが出来たわけでしょ。つまり、輸入小麦より安い値段で卸すって言ってるのよ?本来もっと飛ぶように買い手が付いて良いはずなのよ。」
「アキアからそんなにたくさんの安い小麦が出てくるなんてみんな信じられないんじゃない?だから、様子見しているんだと思う。」
「そう!」アリスはスラファを指さした。「だから、出荷実績をつけたい。そうすれば買い付けが一気に増える。買い付けが増えれば皆安心できる。」
「なるほどねー。計画通りに上手くいっていても考えることはあるんねぇ。」スラファが少し疲れたようにため息を付いた。
「そうねぇ。」アリスもつられてため息をついた。
「まあ、全部計算通りに進んでるし、私達まで気を張っててもしょうがないのー。アリスンも無理しないで休んでね。」スラファが言った。「ここの所毎日収穫手伝いに行って大変だったでしょ。」
「うん、でも、もう少し。あとひと踏ん張り。」アリスが椅子に座ったまま伸びをした。
「やっぱり、もうすぐ帰ってしまうん?」唐突にスラファが尋ねた。
「ん!?」アリスがスラファの発言に少し驚いて振り返った。「一応、ここの小麦の出荷が終わったらね。どうして分かったの?」
「なんとなく。」スラファが答えた。「寂しくなるんよ。」
「芋畑も何とかしないといけないのよ。えーと、なんだっけ?連作障害?」アリスが言った。「その対策をしないと本格的にヤバいらしいのよ。」
「資金繰り?」スラファはアリスの芋についての発言は無視して、これまた唐突に尋ねた。
「・・・うん。それも。お見通しなのね。」アリスが言った。「このままだと、農業を辞めてもらったみんなの中から、来年あたり、本当に食べていけない人が出てきちゃう。」
「私がもっと力になれれば良かったんだけど・・・。」スラファが言った。
「そんなことは無いわ。あなたにもあなたのお父さんにもすごく感謝してる。」アリスが答えた。「領地、担保にしちゃってごめんね。」
アリスは辞めた農民たちの雇用を確保することについて未だに頭を悩ませている。
酒や紙などの新事業を立ち上げるには時間と、そして何よりも金が必要だった。
領主たちに頼もうにも、彼らも金がない。そもそも彼らは辞めた農民の事についてはそこまで本腰を入れない。
スラファはそのことについてアリスと一緒に本気で悩んでくれる数少ない理解者だが、お金がない。
そして、スラファからお金と領土を全部取り上げたのがアリスだった。アリスの改革に耐え切れずスラファの実家であるカラパス家は潰れた。彼らはアリスの改革を受け入れ、自ら犠牲になることでアリスの力となる資金まで残した。アリスはカラパス家も復興したいと考えている。
「ええんよ。」スラファが笑った。「それよりも、たくさんお金を貸してくれたキャロルンのお父様に感謝しないといけないのー。」
「そうね。」アリスは言った。
昔、スラファへのカラパス卿からの手紙を盗み見て、カラパス卿がペストリー卿を毛嫌いしていたことを知っている。今、カラパス卿はペストリー卿の事をどう思っているのだろうか。
「私も、アキアで新しい産業が出来ないか頑張ってみる。」スラファが言った。「期待してて。」
「でも、クラウスの事はいいの?」
「うん、旦那様、分かってくれる人だから。」スラファは答えた。「いま、必要なことをしないと、二人とも後悔する。」
「ありがと。」
「大丈夫なんよ。農業じゃない方法で黒字化なんて他の領地では皆やってる事なの。簡単簡単。安心していて。」スラファが明るく言った。「それに、小麦の買い取りで農民たちに余裕が出てきたみたいなんよ。ダクスの服屋さんとかいくつかのお店が復活したんよ。きっと何とかしてみせるの!」
「うん。ありがとう。」アリスはスラファに向かってニッコリとほほ笑んだ。
「ラヴノス卿。話が違う!」
トマヤたちの状況を確認しようと、ラヴノス伯に視点を合わせたところ、若い商人がラヴノスを怒鳴っている所に出くわした。
あれ?この商人なんか見たことあるぞ?
少し背が伸びているけど、以前オリヴァやミスタークィーンたちの会合に居たアリスの事を目の敵にしてた若い商人だ。
「違う事はない。契約通りだ。」ラヴノスは若い商人の態度に文句を真に受ける様子も無く無機質に伝えた。「我々は貴君らにこれ以上小麦を安く売ることはできない。貴族商取引法があるからな。」
「しかし、王女の小麦はあんたらの売価より安いじゃないか!」商人が必死の形相で言った。「これじゃあ、王女の小麦ばかり売れて、俺たちの小麦は売れない!話が逆だ!」
「アキアの小麦の価格までは私のあずかり知らぬところだ。」ラヴノスは商人を冷たく見下ろしながら言った。「そなたが小麦の価格をそれよりも下げて売れば良いだけの事であろう?」
「バカな!あれだけの小麦を買い取り価格よりも安く売れと言うのか?」
「抱き合わせで私の所有している調度品を格安で売ってやったろう。それで利益を出す代わりに、お前たちは小麦を儲け度外視で安く売る。そういう契約だったはずだが?」
そうか、輸入小麦を最低価格もしくはそれ以下で販売して、アキアの小麦の流通を阻害しようとしていたのか。もしかしたら、商人たちがアキアの小麦を買い控えていたのはこういった暗躍があったのかもしれない。
しかし、アリスは小麦の値段を貴族商取引法で定める輸入小麦の最低価格よりも低く押さえた。それどころか、輸入小麦の仕入れ価格に近いところまで売価を下げたのだ。ラヴノスはここまでの価格破壊は予想しておらず、貴族商取引法の最低価格を元にアリスの改革の妨害を計ってしまったのだ。
「あんたからしたら、あんな調度品、要らないものを処分して体よく金を作っただけじゃないか。」若い商人が言った。
「それなりに金になるものだ。きちんとした商人であればあれで莫大な儲けが出せよう。」
「あんなもの売り切って儲けを出したところで、あの大量の小麦をアキアの値段に合わせて売ったら破算だ!」
「しかし、売らなくても破算だろう?なら売るしかあるまい。」ラヴノスは冷たく言った。「私と貴君との契約はすでに互いに執行されている。あとはお前たちがどう小麦をさばくかだ。」
「卑怯だぞ。」商人が悔しそうに言った。
「口の利き方を慎みたまえ。」ラヴノスは言った。「エンヴァイ殿、契約履行を反故にしようとするなど、貴君は商人として恥ずかしくはないのか!」
「くっ、憶えていろ。」エンヴァイと呼ばれた商人は捨て台詞を吐くとラヴノスの元を去って言った。
「王女め。どうりでこちらの小麦を買おうとする商人が少なかった訳だ・・・。」ラヴノスは苦々しくそう呟いた。
ラヴノスの小麦はアリスの事を毛嫌いしていたあの商人にしか売れていなかったようだ。その程度の小麦ではアキアの小麦を市場から追い出すにはほど遠かった。
アキアの小麦は順調に王都に運ばれた。
きちんと納品されることが分かったためか各地から注文が次々と入ってき始め、アキアから小麦が流れるように出荷されていった。
アキアブランドの小麦が春のファブリカ国を席巻し、輸入小麦は市場から姿を消した。
一方、雨季の始まったアキアのため池には水がたまり、いよいよ豆の植え付けが始まろうとしていた。
アリスのアキアでの農業改革は順調に成されたといって良いだろう。
そして、アリスは王都に居た。




