9-5 c さいきんの農業改革
「これ、黙ってんのマジしんどいんだけど。」アリスは片手で頭を抱えながらもう一方の手に持っているリストの束に目を通した。
アリスはペストリー伯爵を呼び出していろいろとっちめている最中だ。
「そこは、それ、今回はお目こぼしをいただけると殿下がお約束くださいましたので。」アリスの対座に座っているペストリー伯が揉み手をしながら言った。
アリスがリストをめくり、どんどん困った顔になる。
ペストリー伯はアリスが黙っててあげると言ったのを良いことにここ10年分の取引のリストを提出してきたのだ。
リストをめくるたびに顔が青くなっていくアリス。
前回はアリスがペストリー卿をやり込めた形だったが、今回はどうやらアリスのほうが旗色が悪い。
「あんた、リストってこれだけでしょうね?」アリスは言った。
「もちろん。お約束通りすべてお持ちしました。」
「金輪際、この辺りの商人とは関係を切りなさい。」アリスはそう言うとペストリー伯にリストの一部を指で指し示した。
ざっくり言うと『薬』とか『人』とかの関係が中心だ。
アリスが頭を抱えたくもなる。ちょっとした脱税やグレーゾーン以上の取引をキャロルの父ちゃんはやっていたのだ。
マジこんなの知っちゃってどうするつもりだろう。
「そ、そこですか。」ペストリー卿が青くなる。「かなり財政が厳しくなるのですが。」
「私が見逃すのは今回までよ、次回は無いわ。」アリスが言った。「小麦と豆がらみでもっと儲けさせてあげるから、我慢なさい。」
「約束ですよ。」
「解ってるわよ!しょうがないもの!」
アリスは不機嫌にそう言うと、リストをくるくると丸めて、机の上に置いてあったロウソクで火を付・・・隠滅したあ!!
「これで、お互い何も悪い事は無かった。良いわね?」アリスが言った。「取引明細とかも残さず処分するのよ。」
「承知でございます。」ペストリー伯がニヤリと笑って言った。「これで共犯でございますな。」
悪もんやんけ!
自分もアミール派に転向しようかしら。
「でも、だいたい解ったわ。ありがとう。」アリスが言った。「多分、いろいろな事から足を洗ってもらっても、それほど遜色ない儲けをあんたには約束できると思う。」
「では、今までの取引も続ければもっと儲かるという事ですな。ご一緒にいかがですかな?」アリスが自ら自分の裏取引の証拠を焼きすてたのを見てつけ入れるとふんだのか、ペストリー伯が吹っ掛けてきた。
「やめてよ。ほんとに潰すことになるわよ。」
「それは残念。」
「吹っ掛けるなら、他の事にして。」アリスはそう言ってから、真面目な顔で尋ねた。「ところで、ペストリー伯。あなた領地とお金とどっちが大事?」
「それはどういう意味で?」ペストリー伯が用心したようすで訊き返した。
「ん。ちょっとね。」
「お金ですかね。」ペストリー卿が少し考えて答えた。「農地は管理が大変な割に金を生みませんので。」
「そう、じゃあ、あなたんところの農地を周りの領地に押し付けてもらっていい?」
「は!?」
「農地については儲けの足を引っ張ってるはずでしょ?アキアに居ながら農業をやらない領主になってみない?」アリスが言った。
アリスの提案にペストリー卿がしばらく長考する。
「容認できません。」ペストリー卿は今までで一番真剣な顔で答えた。「殿下にいろいろな取引を制限されたことが大きい。今まで取引していた商人たちと縁を切るとなると、今後の財政面でのリスクが大きすぎます。正直、今までで貯め込んでいる物はあります。ですが、これからそれを投じて新規に事業を立ち上げねばなりません。その際に領土内で食料の自給が出来るか出来ないかではリスクの質が大きく違うのです。農地があればたとえ赤字でも飢えることは無い。」
「これを。」アリスがペストリー卿に紙の束を投げた。
「これは?」
ペストリー卿がアリスが目の前に放り投げてきた紙の束を読むにしたがって、青ざめて来た。
「これを、私にやれと?」
「そう、あなたには、アキアの小麦の流通網の管理をお願いしたいの。」アリスがペストリー卿に放り投げたのはミスタークィーンが考案した、小麦の運搬について詳細に書かれた資料だった。「エラスティアと王都周辺への運搬網については私の懇意にしている商人がいるから彼らをあてにしてもらって構わない。でもアキア内とモブート、ミンドート、ベルマリア領内はお願いすることになると思う。
「これはかなりの薄利多売の商いにございます。農地を無くし、商売を制限され、小麦の売買を押し付けられる。これはあんまりでございます。」
「やらないといろいろバラスわよ。」アリスは真正面から脅しをかけた。「あんたの貯め込んでるもの奪い取ればいろいろできることも増える。」
「そ、そんな殺生な。」
「それに、あなたが思っている以上に良い提案よ?薄利多売って言ってるけど、総額を見て。ちりも積もればで相当の儲けになってるでしょ?」
「額面的にはそうかもしれませんが、事業規模に対しては少なすぎるのです。この運搬網を構築するためにはかなりの出資が必要です。ファブリカ全土を網羅しなくてはならないので初期投資だけでなく維持コストも相当なのでございます。これでは上手くいっても回収に何年掛かかったことか。」
「最初、お金出しちゃえば後は増えるだけなんだからいいじゃん。アキアで借金しないで流通網を構築できそうなのってアキア公とあなただけなのよ。」
「それはそうですが、この規模の投資はさすがにペストリー領が傾きかねません。それに、他の商売に割く時間もお金も失われてしまうのです。今までしていた商売についても制限しろと殿下はおっしゃっているのですよ?これでは私にだけ負担が大きすぎます。これはあんまりだ・・・。」ペストリー卿が懇願する。
「その分見返りが大きいわ。」
「この程度の儲けの額では、リスクに見合わない。」ペストリー卿は引かない。
「でも、ペストリー卿。その計画、帰りの馬車には何も積んでないのよ?」
「?」
「帰りの馬車の荷台は空なの。」アリスが言った。「あなたが好きな物を積めるの。」
「あ。」
「どう?ワクワクしてこない?」
ペストリー卿が再び長考に入った。
「領土の件も含めて承知いたしました。」ペストリー卿はついに口を開いた。「ただし、一つお願いしてもよろしいでしょうか?」
「何?」
「ベルマリア、ミンドート、モブートの各領地についても殿下を通じて商人をご紹介頂けないでしょうか?
「うーん?何とかしてみるわ。」アリスが言った。「でも、あなたが直接動いたほうが早いし儲かるんじゃないの?」
「帰りの馬車の荷台に積む荷物をその商人に都合の良いように選定させようと思います。その代わりに、この件のリスクを一緒に負ってもらおうと思います。その時に、殿下のお名前が役に立つのです。早い話が、癒着ですな。」
「癒着って。」アリスが言った。「私はこの件で儲けを出すつもりはないわよ?むしろ、全貯金投げうつ覚悟なんだけど。」
「殿下が儲からなくても良いのです。」ペストリー卿は抜け目のない顔で笑った。「商人たちが、殿下に優遇されていると思うことが重要なのです。そう思わせることで彼らから資金を引き出せるのですよ。」
「あんたは儲けるのね。」
「そりゃ、もちろんでございます。」図太いペストリー卿は正直に答えた。「それに、運搬網の資金を私と彼らで全額まかなう事ができれば、この件に関して殿下が出資しなくても良くなるという事でしょう?これは殿下だって儲けているのと同じでございましょう?」
「・・・・・・まあ、良いわ。」アリスは言った。「やり過ぎたら制裁するからね。」
「目先のリスクを軽減できればよろしゅうございます。」ペストリー卿が頭を下げた。
「こっちからも一つお願いがあるのだけれど。」
「アリス殿下は私の悪事を知っていながら黙っていてくださり、一緒に癒着までなさってくれる。私にとっては同士であり上司でございます。何なりと申しつけくださいませ。」ペストリー卿がいやらしく笑いながら大袈裟に頭を下げた。
これ、まずい奴に弱み握られたんじゃないか?
「カラパス卿の持ち物すべてを担保にお金を作ったんだけれどそれでも足りないの。なまじ所持している畑が広いから投資額もでかいのよ。カラパス伯所有の不動産を担保にお金貸して。」
ペストリー卿はしばし絶句してから、アリスに尋ねた。
「カラパス卿が困窮しているのは存じておりますが、それほどなのですか?」
「うん。おととい廃領になった。」
「えっ!?廃領??」ペストリー伯は本気で驚いた顔をしている。
「一応、今のところはまだ私の預かりってことにしてる。」
「そうですか・・・。」アリスの言葉にペストリー伯は少し落ち着きを取り戻した様子だ。
「一応見積もりを取ってからで良いわ。急がないけど、この冬までには欲しい。」
「カラパス領のことなら良く存じ上げております。」ペストリー卿は言った。「500万ラムジお出しましょう。」
さっきまでアリスに対して散々リスクがと渋っていたのはどこへ、ペストリー卿はさらっと莫大な額を申し入れてきた。日本円だと数億とか十億とかの額じゃないのか、これ?
「そんなにいいの?査定ミスじゃなくて?アキアの物件にそこまで値がつくとは思えないんだけど。お金が戻ってこないリスクがないわけじゃないのよ?」
「構いません。何とか致します。」
「あらかじめ断っておくけど、さっき言ったこと以外ではあなたを優遇する気はないわよ?」アリスがペストリー卿の太っ腹さに不安を感じて釘をさす。「これも、すぐに大きな金を工面できそうなのが貴方だけだったからお願いしただけで、完全なビジネスなんだからね。」
「それだけの価値があると踏んだのですよ。」そして、ペストリー卿は思いもよらないことを付け加えた。「それに、カラパス卿は娘の友人の親なのです。」
数日が過ぎ、いろいろな手配が順調に進められた。
そして、いよいよ、グラディス達がアキア各地を巡る旅に旅立つ日となった。
ヘラクレスはアリスに「無茶しないでください」とだけ告げて、頭をなでると早々に馬車に乗り込んでしまった。デヘアはすでに乗っている。
「アリス様、お体にお気をつけくださいまし。」グラディスはアリスを惜しむかのようにぎゅっと抱きしめた。
「もう、大袈裟ね。」ちょっとした別れだというのに、アリスは意外と淡泊だった。
むしろグラディスのほうが自分の居ない時を心配して、アリスをなかなか放さなかった。
「ちゃんと、朝はご自分で起きてください。アキアのメイド様方にあまりご迷惑を言ってはいけませんよ。お肉ばっかりじゃなくてお野菜も残さないで食べないといけません。それと・・・」
身の安全を案じるというか、一人暮らしを開始する子供を送り出すときの母ちゃんのお小言だった。
「大丈夫だってグラディス。」アリスがグラディスにハグされたまま言った。「グラディスこそ気を付けてね。ヘラクレスが居るから大丈夫だと思うけど。」
「シェリア様、アリス殿下のことをお願いいたします。」アリスを抱きしめたまま、グラディスが今度はシェリアに向けて言った。「正攻法では無理です。諦めを胸に適当にやるのがコツです。」
完ぺきメイドが何を言ってるんだか。
というか、言ってる事実は酷くね?本人超至近距離にいるんですけど。
「大丈夫ですよ、グラディスさん。」シェリアは笑いながら答えた。「アリスちゃんももう大人です。」
「アリス様はアリス様です。」グラディスは真顔で答えた。「お洋服とかごはんとかそういうのが変にさえならなければ大丈夫ですから。他は無理しないでくださいね。」
「はいはい。グラディスさんは心配性ですね。」シェリアは言った。「大丈夫ですよ。まかせてください。」
グラディスは最後まで不安そうにシェリアを見ながら旅立っていった。
しかし、実はアキアのこの生活。
わんぱくなアリスが元気な状態で迎える初めてのお城生活だったりするのだ。




