帰国
昭和五(1930)年も後半になると帰り支度を始めることになった。そこで報告書の作成やら来欧した高官の案内やら忙しくやっている。
ドイツでは職人技の精密仕上げとベルトコンベアー式の量産体制という二つの方法が存在していた。英国では設計部門が製造部門と密接にかかわっている姿を見ることが出来た。図面を引いていればいい、言われた通りに作ればいいという日本式が如何に前近代的か、まさに百聞は一見にしかずな光景がそこかしこに見られた。
報告書の主たる内容はそんなことが書かれている。確かに、所によっては「図面上可能だから、出来るはずだ」が21世紀にも罷り通る日本とは大きな違いに俺も驚いた。「現場見ろよ」という話を笑い話程度に聞かされただけだが、はるか90年前にその様な状況を脱している欧州の凄さを目の当たりにしてしまった。
こうした場面を見ると、確かに、日本が勝てないのはよく分かる。精神ウンヌン、礼儀がどうした。
確かにすごい事ではあるのだが、それが行き過ぎるとセクショナリズムに陥ることになる。誇りが意地となり意固地となる。
そうして周りも見ることなく「自らの正しさ」しか見えない視野狭窄へと陥る。戦前も21世紀も日本はたいして変わっていないのだなと、驚かされるばかりだった。
このような報告、そして、俺が乗っかって出した報告書を裏付けるような「ガイアツ」がそこにあったのだから、これはさすがに無視は出来なくなるだろう。これからの日本には、工業基盤の構築、そして、旧来の方式からの決別が必要になるのだから・・・
そして、ヴィッガースやランズヴェルクで見た「戦車の敵は戦車」という考え方。俺の知る日本軍はこの考え方に戦時中まで至ることなく、あのボロ負けをしている。出来る事なら今すぐ目覚めて欲しいものだが、マトモに戦争をしていない、そして、これから起きる戦争がまともな装甲車両を持たない中国軍とあっては、結局、学ぶ術が無いのだろうか?
そうは言っても、報告書には書き込んでおかないといけない。
昭和六(1931)年正月。異国での新年を祝った後、帰国の途に就く。
が、西回りで米国への寄り道が計画されている。クリスティーさんに逢えたらいいね。
大西洋横断は今やそう長い時間を要しない。ブルーリボン競争がある様に、あっという間についてしまう。
気が付いたらアメリカだった。
そこで様々なものをまた見学して回ることになる。各自動車メーカーのライン生産はそれは凄いものだった。これぞアメリカ!
よくこんな国と戦争したもんだと思うよ。無知は最強で野蛮だなと思う。
そして、陸軍の見学へ行ったが、試験場に何やら戦車が運び込まれている様だ。
「これは何の試験ですか?」
近くに居た米国人に来てみる。
「クリスティーが試験車両を持ち込んだんだよ」
マヂで!!
幸運というのはあるもんだと思ったね。そして、一緒に混ざって試験を見学した。
そして、ご当人も交えての歓談。
「日本から来たのか?そいつはご苦労だったね」
クリスティー本人に声をかけられた。
「どうやってきた?帰りの足はどうすんだ?何、構わないさ、送ってってやるよ。アメ車の凄さも体験すると良い」
なぜかとんとん拍子でそんな話となって、送ってくれるという。
車内では戦車の話をした。
「うちの戦車は何故か合衆国にはあまり人気が無くてねぇ~、こんな広い国なんだから俺の戦車が良いと思うだろ?」
そんな愚痴も聞いた。
「だが、ソ連と英国は俺んところに来たぞ。アイツらガチだ、どうだ?日本も」
そんな話をしてくれたのだが、俺自身はその権限が無い。以前、話しは来ていたらしいが、実績が無いとして問い合わせだけに終わっている。
「おう、あの時はな。専用の工場もないし、所詮は試作品だった。今は違うぞ?お前も見ただろ?こいつはいいぞ」
そういって勧めて来る。
「まあ、帰ったら掛け合ってくれよ、とっておきの資料をやるからさ」
そう言って何やら書類を渡されてしまった。
宿泊先に帰って読んでみると、クリスティー式の利点やら構造、運用思想などまで事細かく書かれていた。
しかしなぜだろう、履帯を外して車輪走行するのは高速は出せるが、着脱に時間を要し、重量化した場合の幅広履帯では現実的方法とは言えなくなるとか、まるでT34をすでに知っているかのような記述がある。
まさか、また神様の仕業か?これ。
そんな珍事を経ながら、ようやく日本への帰路につく事となった。




