周辺の歴史
強引ではありますが、山口多聞さんの架空戦記創作大会、戦時標準船のお題作品として参加させていただきます。
小野田さんがどんな交渉をしたのかよく分からないが、北方集団は戦後も名目上、米軍の一部として扱われている。そのため、戦車や戦闘機と言った兵器の生産こそ出来なかったが、砲弾や補修部品の製造は認められ、北方集団に供給されている。
GHQ占領下にあった日本国内でも、唯一稼働していた兵器工場が北方集団向けのモノだった。国民の多くもそれに協力していたし、米国も協力的だった。
そして、誰よりも理解を示したのはマッカーサーだと言われている。なにせ、小野田さんとの交渉の後、彼は昭和天皇と会談しているが、その時、「戦前の日本が如何に赤化勢力の防波堤として努力していたか、つい最近知ることとなりました」と語ったという。
なのだが、唯一不思議な事は、朝鮮戦争に際して仁川上陸作戦を行っていない。彼はあくまで釜山の防衛に専念し、ウラジオストク攻略を進言した事で解任されている。
結局、国連軍が仁川に上陸したのは1952年に入ってからで、作戦自体は成功を収めたものの、北進を回避している。
どうもそこには南樺太にまつわる密約があったというのが定説で、一時台湾に避難していた韓国政府は1952年4月に解散し、高麗政府が樹立されている。
米ソ関係は複雑怪奇とはこのことで、高麗政府を支援する国連軍の行動をソ連も支持し、当時、義勇軍を朝鮮人民共和国へと送り出していた中国と対立する道を選んでいる。当然、目的が鞍山の資源地帯であったことは明白で、ソ連軍の侵攻によって補給線を遮断された中国・朝鮮連合軍は壊滅の憂き目にあっている。
こうして、戦争は終結し、国連軍は解散、1952年末までにすべての参加国軍は朝鮮半島を離れることとなった。
1953年3月5日にスターリンが死去した事で事態は更なる急展開を迎えて、中ソは電撃的な和解を3月末に行い、高麗政府と中ソ和解で息を吹き返した朝鮮人民軍残党、さらには国連軍撤退の隙を突いて済州島で反乱を起こした大韓民国残党による済州島政府の樹立によって、新たに内戦が始まる事となった。
しかし、ソ連はこの内戦に関与しようという姿勢を見せず、米国が巧みに済州島政府を操り、日本に居た朝鮮人を誘引して戦力を整えて釜山、木浦へと上陸、光州を占領して韓国政府の遷都を宣言し、三つ巴の内戦へと突入していくこととなった。
今でも大韓帝国の後継を自称する大韓国と朝鮮正統政府と自称する高麗国、抗日の英雄を自称する朝鮮人民共和国という三か国が朝鮮半島には存在し、新三韓時代と呼ばれている。ただ、三か国の仲は非常に悪く、今でも小競り合いが絶えず、貧富の格差が激しい地域となっている。
なぜこうも歴史が変わってるんだ?
その中で、1950年までの北方集団、朝鮮戦争における仁川上陸、済州島政府の本土上陸を支えたのは、幸か不幸か俺が提案して実現したRORO船だった。
戦前から標準船型として三菱がRORO船を提案していたものが戦時において、ブロック工法により量産されている。
デリック式に比べて作業効率が良かったことから5000トン前後の型が100隻近く建造され、戦後も40隻が稼働状態にあった。
そのうち24隻は舞鶴にあり、北方集団を支える原動力として活躍している。そして、進駐してきた米国もその有効性に目を付け、1946年には一部で建造が再開されて竣工する船が多く存在した。多くは米軍の傭船となり、日本周辺での荷役に使用されていたが、朝鮮戦争がはじまると米軍輸送船団に組み込まれて釜山への物資輸送、そして、仁川上陸に使用されている。
1952年には朝鮮戦争の終結で傭船契約も解約されるものが多く出たが、わずか一年で今度は事実上済州島政府の手に渡ることとなり、木浦や釜山への上陸、朝鮮半島南部の占領に活用されている。現在の大韓国の基盤を築いたのもこの船だと言って良い。ただ、大韓国の対日政策は今風に言えば「塩対応」と言って良く、対馬や竹島をめぐって対立することがしばしば起きている。
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