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まだ途中ですが退場となりました

 目を覚ますとそこは見知った天井だった。


 ありきたりな反応で済まないが仕方がない。


 俺は急いでパソコンの電源を入れてみた。


 そう、戻っていた。7月28日に北海道行きを命じられたその時点で。


 気になったのはそれから何が起きたのかだった。


 8月8日にソ連の対日参戦があり、8月11日に南樺太へも侵攻してきたとある。


 樺太の戦いについて調べてみると、そこには驚きの名前があった。


 樺太軍

 司令官 原乙未生


 基幹兵力五式中戦車106両、五式中戦車二型54両、第88師団


 つまり、北海道に送った全チハを原さんの元に集中配備した挙句、樺太に送り込んでいたらしい。

 構成は急増でありながら、元から樺太に配置されれいた第88師団と北海道から送られた要員によって固められていたらしい。


 北海道に居た戦車兵は全て樺太に渡り、わずかな時間で五式に習熟することがほぼ強制されていたという。


 その成果か、樺太における防衛戦は少ない損害で9月2日までの戦闘をしのぎ、3日に再開された戦闘においては、北方艦隊の援護のもと、9月15日のソ連の戦闘停止命令まで国境線をほぼ守ることに成功している。


「なんじゃこりゃ・・・」


 夢かと思ったが事実だった。


九二式重装甲車に始まる日本の装甲車両を検索してみたが、記憶と相違ない。


 試しに一式中戦車のページを覗いてみると、まああ、記憶通りだ。フィリピンで米戦車部隊をあわや壊滅にというところまで追い込んでいるし、三式中戦車に至っては、沖縄で無敵の存在だったらしい。破壊には航空攻撃と艦砲射撃が行われたという。凄まじさだ。

 九五式軽戦車に命中した徹甲弾が、あまりの装甲の薄さに反対へ抜けていったという笑い話があったが、M4戦車に命中した三式徹甲弾の中にはも同じように反対へ抜けていく弾が存在したらしい。どんな化け物だよ。



 五式中戦車二型の場合、その存在自体が伝説と化している。

 夜間に夜襲で撃破しようとした歩兵隊に機銃掃射を加えて逆襲に出たなんてのは当たり前の話で、T34に奇襲されても撃破されるどころか平然と打ち返して逆に4両を血祭りにあげたという話まである。

 9月の再開以後、苦境から起死回生で持ち込んだ僅かなIS2はたった2日で全滅、撃破出来た五式中戦車は持ち込んだ6両に対し僅かに2両。二型に至ってはIS2を2000mから正確に狙撃し撃破したという話まで残されている。


 満州進攻において鹵獲された三式中戦車を見聞したソ連軍の記録によると、その徹甲弾の貫徹力は砲弾によってまちまちで、最低136ミリ、最大では実に238ミリを貫通し、最良の砲弾をもってすればIS3すら撃破可能との見解を出しているらしい。


「ヤボンスキーの戦車は化け物か!」


 実際、報告書にはそんな走り書きも見られたという。

 ただ、これはあくまで満州にあった三式中戦車の話であって、このデータを基に、南樺太進攻を行ったソ連軍は大損害を出している。

 なにせ、1945年にはタングステンの使用量がさらに増した砲弾が製造されており、その威力は飛躍的に増していた。更に二型に積まれた新型砲は初速が増しており、有効射程も伸びていた。

 樺太で使用された砲弾の貫徹力は最低198ミリ、最大で301ミリにも達しており、1950年の段階では安定した砲弾供給が行われたことも手伝って、貫徹力は常に230ミリを超えていたという。これではIS3やT54であってもひとたまりもなかった。


 そう言えば油田はどうなったのかというと、ソ連が接収したは良いが、2年もしないうちに枯れはててしまったらしい。

 あたりを探査して他にも可能性があったことから、長らく中ソ間で領有問題となり、問題が解決したのは冷戦後の事だったという。


 小野田兄弟、そして原さんを加えたメンバーが北方集団として半ば独立国のような状態で北海道や樺太に存在していたが、小野田信也海軍中将の交渉によって、対ソ部隊として日本軍に解体命令が出された10月以降も存続が認められ、樺太には五式中戦車がそのまま配備されている。


 国内の混乱をよそに、北方集団は米国や日本の草の根支援もあって存続を続け、1950年、朝鮮戦争による混乱の中で侵攻してきたソ連軍と三度交戦することとなっている。8月2日に戦闘が開始された。


 三度目の交戦相手はIS3やT54だったことで苦戦を強いられたが、米国による警告によって事態は一週間で終息している。五式中戦車の被害も甚大で、36両が撃破され、残存する戦車が45両しかなくなっていた。五式中戦車二型にいたっては、12両を残すのみだった。


 実情はソ連には知られることなく、サンフランシスコ講和条約によって再軍備が認められた日本は、1953年、憲法を改正して名前を自衛隊と改めて、新生日本軍がスタートを切ることとなった。


 北方艦隊所属艦が海上自衛隊の基幹部隊となり、樺太に配備されていた北方集団樺太軍が陸上自衛隊の基幹要員となっていく。


 小野田兄弟はその後、小野田信也海軍中将は政治家へと転身し、後の総理大臣となり、小野田慎吾陸軍中将は自衛隊へと移り、初代幕僚長を務めている。原乙未生陸軍中将もしばらく陸上自衛隊に在籍したのち、戦車開発のために三菱へ入社、五式中戦車二型を更に発展させた61式戦車を世に送り出している。


 三式戦闘機飛燕はターボプロップ戦闘機として、航空自衛隊初期の所属機として北方集団から移管され、F86が供与され、完全に新生空軍の形が整う1958年まで日本の空の守りとして活躍している。


 局地戦闘機閃電は残念ながら部品の欠乏によって廃棄状態だったが、後に製造元である富士重工が引き取り、各所の協力を得て日本初の超音速戦闘機F-1として見事に再生している。


「インテーク変えたらそのまま音速超えた。何言ってるかわからないと思うが、なぜそんなことが出来たのか、私にも分からない」


 という、開発秘話が残されている。


 藤本氏に転生していた奴はさすがにやりすぎだと思う。俺?原さんのページを読んでみたけどなんだか仲良く共存できていたみたいだよ。

 戦後、三菱の島根工場が再開した際には、俺が書き溜めておいた農機の資料を農機部門に提供している旨がエピソードに残ってる。


「昔、思い付きで私が書き溜めた農機のアイデアがあったので、農機部門に提供したのだけれど、あれっていつ思い浮かんだのか、記憶にはあるんですが、なぜそう思ったのか実はよく分からないんですよ。ほら、五式中戦車二型を急いで設計して、無理を言って620馬力エンジン積んだり、主砲を56口径にしたのも、今思うとなぜそこまでやったのかなって(笑」


 ネットで出てきた手記にはそう書かれていた。

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