滑腔砲の開発
昭和十三(1938)年に始められた滑腔砲の開発は、三年目を迎えてようやく形になりだした。
軍の弾薬規格に合わすとして75ミリでの試作が行われていたが、どうにも威力が低いという。
「75ミリでは一応の成果は出せるでしょうが、タングステン入りの特弾を用いて150ミリの貫通力を発揮できます。しかし、弾体工作の問題もありますが、そもそも、口径が小さすぎます。貫通すれば威力は大きいですが、衝突の衝撃で折損してしまう確率がまだ高いですね。タングステンを内蔵せずに鋼製ですと、120ミリ程度に落ち、射程距離も短くなります」
という事だった。同時に開発に入っているHEATに至っては、90ミリがやっとだという。それでは少々厳しい。
「求める口径としてはどの程度が良いと思いますか?」
俺は彼らにそう聞いてみた。
「我々が自由にやってよいというのであれば120ミリ欲しいですね。ただ、戦車に載るのかという現実を見越せば、75ミリライフル砲から施条を切削して可能になる、84~90ミリでしょう。計算上ですが、90ミリで制作できれば、鋼製弾体でも170ミリ程度、タングステン入りでならば200ミリを超えるものも作れると思われます。榴弾においても100ミリは超えるでしょう。ライナー成型精度を上げることが出来れば徹甲弾と同等の数字も出せるようになるかと」
彼らも戦車については考えてくれているらしい。確かに120ミリ砲が作れたならば、徹甲弾の威力も300ミリなどというレベルに達する。現用どころではない、第二次大戦において撃破不能な戦車など皆無な事だろうが、今の技術では120ミリ砲を載せる戦車を作るのは難しい。確かに、90ミリあたりが適当だろうな。
「わかりました。それではよろしくお願いします」
そして、エンジン開発もネックだった。そんなことをしている間に真珠湾攻撃が行われただの、マレー電撃戦が行われただのと新聞やラジオは賑やかだ。
ただ、その中でフィリピンにおける戦闘では九五式軽戦車が完全に時代遅れであることを痛感させられる事態が起きていた。
米軍がM3軽戦車を先頭に攻撃してきた際、九五式の37ミリ徹甲弾は物の役に立たなかった。逆に、九五式はM3の長砲身37ミリ砲で容易く撃破されてしまう。
危惧した通りの事態が起きていた。タングステン材の徹甲弾への使用は昭和五(1930)年から研究を開始していたが、モノになったのはごく最近だった。昭和十二(1937)年に国府軍戦車が現れ、その撃破に苦労するまで、弾の中に火薬を詰めた破甲榴弾で戦えるという意見が後を絶えなかった。
鹵獲したL-60に対して破甲榴弾を撃ちこんだところ、半数は自壊する結果となり、ようやく無垢材の徹甲弾の必要性に気づく有様だった。
早期に研究を始めていてよかったと思う。日本では徹甲弾に最良と言われるマルエーシング鋼すらまともに製造できていない。戦時増産が始まっている中で、新たな研究開発を始めるにはカネも資材も足りなかった。
おのずから、タングステンに頼るしかない状況で、目の前にその成果が自分からやってきたのだから、これ幸いだった。
昭和十三(1938)年に47ミリ砲と共に徹甲弾も制式化されたが、47ミリ砲弾の製造で手一杯の状態で、37ミリ砲弾の製造が間に合っておらず、前線では未だに破甲榴弾が主流だった。唯一の幸運は、すでにほぼすべての九七式軽戦車が47ミリ砲を備えていたことだろう。本隊の九七式の前ではM3軽戦車も苦戦はすれども撃破は可能だった。
実際に米国と戦争を始めてようやく、俺への批判が消え去ることとなった。
「九七式が無ければ、フィリピンでの苦戦はもっと続いたかもしれない。英軍との戦闘でもそうだ」
そんな話が多く聞かれることとなった。この頃になってようやくというのでは遅い。
「戦車には新型砲が装備されるという、既存砲で威力過少となる事を恐れたわしの酔眼じゃ」
という、酔っぱらいの妄言を言う砲兵将校が居たことも記しておこう。確かに不幸中の幸いだが、そのせいで余計なコストと時間を要している自覚は果たしてあるんだろうか?
だが、予想外というのはどこまでも続くもので
「どうやら、海軍はKAIZENによって、工廠のみならず、多くの企業にもかなりの技術移転をしていたようです。こんな時期ですが、マルエーシング鋼とタングステン合金の量産に不安が無くなりました」
ホント、だれだよ、転生者は。いや、俺以外の。




