三度目の欧州は逃避行
昭和十五(1940)年十二月、独伊軍事使節団としてシベリア鉄道で欧州へと向かった。
ついこの間交戦した国の軍人に鉄道の旅を許すソ連もアレだが、他の手段を使えない日本もなぁ~
しかし、この時代に飛行機でひとっ飛びという訳にはいかない。そこまでの飛行機が未だ存在してはいないのだから。
その結果、年越しはシベリア鉄道で迎えることとなった。鉄道での味気ない祝いの後、ようやく七日にモスクワに到着した。前回と違い、モスクワで一泊とはならず、そのままベルリンへと向かい、翌日ベルリンへと入った。
途中駅では集結したソ連軍を見、そこにT34の姿を認めた。
「あれですよ、新型戦車」
俺が使節団に言うと、皆がうなった。
「原君が頑強にチイの開発を押し通さなかったら、我が国は2,3年遅れていたのか、恐ろしい」
皆が実物を見て納得した。僅かに見えただけだが、隣のBT戦車がおもちゃにしか見えない段階で、誰もが納得した。
T34が見えたのは偶然なのか、それとも神様の悪戯だったのか、残念ながら写真を撮る暇はなかった。
ベルリンへ至る間にちらりとドイツ軍を見ることは出来たが、2号戦車主体の部隊で、ソ連軍の威容とは開きが大きかった。
この時、誰もが、「ドイツはソ連とは戦争できないな」という感想を持った。
が、実際にはこの使節団が帰国するとすぐに独ソ戦が始まるような記述になっていたから、その考えは間違っているんだろうと1人だけ考えていた。
ベルリン到着から先は、各所の表敬訪問に始まり、戦地めぐりが行われることとなった。
まず、座学としてポーランド侵攻から昨年末までの作戦に関する説明が行われた。
見つかる事のないタブレットで説明の後追いをしていたが、所々に抜けている個所が見受けられた。
ドイツ軍の失敗した箇所、或いは他国に見せたくない作戦というものが語られることなく話を進めていった。
その後、当然だが、対ソ戦の準備で忙しい東部の視察はほとんど行われることなく、西部戦域の史跡巡り状態で視察が続くことになる。
「来年の今頃には英国も落ちてるかもしれん」
ドイツ軍将校がそんな冗談を言うが、俺は知っている。すでにその能力の過半を東部に送ってるじゃないか、いま、この周辺にある兵力を英国に上陸させたって無意味だろ?と。
そんな白々しいウソも交えながら視察が続いた。
のんびり春の欧州を旅するという風情で戦跡巡りが行われ、五月中旬にイタリアへと渡った。
正直、これではアカンやろというイタリアの新戦車にダメ出しをして、リビアに石油があることをそれとなく伝えてイタリアを後にすることになった。
石油はこの戦時下に掘り当てるのは難しいし、今から75ミリ砲戦車を開発してもどうせ間に合わない。
慌ただしくしている中で、シュコダに手紙を出しておいた。内容はT34見たという内容にとどめた。
ドイツでも様々な情報収集を行った。
そうすると。4号戦車に長砲身砲を装備する話が持ち上がっているという。6号戦車に関しては未だ試作段階で確たる製作決定も行われていないらしい。タブレットによると製作決定は5月後半だから、まあ、そうなんだろう。
そして、T34に関してはある程度情報はあるらしい。情報はあるが実態はつかめていない様なので、プリントアウトした写真を「来る途中、車窓から撮った」という事にして渡しておいた。お礼がしたいというからシュコダ社に便宜を図ってもらうように頼んだ。理由を聞かれて「ロリ会長のため」と言ったら、当然ながら、意味が分かっていなかったが、何を勘違いしたのか、ニヤニヤして了解してくれた。
なんだ?ロリコンだと思われたのかな。
できれば定番のボフォース40ミリ機関砲がどうにかならないかと思ったが、日程の関係上、どうしようもなかった。
そんなこんなで、イタリアからドイツへ戻ってソ連のビザ発給を待つ間、団長の山下さんが総統に呼ばれていった。
帰ってきた山下さんは非常に困惑していた。
「近いうちにドイツはソ連へ攻め込むらしい。出来るだけ早期の帰国と日本もソ連侵攻を行ってくれという話だった」
そう言って悩んでいた。
とうとう来るものが来たと思った。しかし、タブレットの資料は足止めなく帰国できているとなっているので、帰れるんじゃないのかという楽観がそこにはあった。
ほどなくして、ようやくソ連がビザを発給して、逃げる様に列車に飛び乗って帰国の途に就く。
独ソ開戦を聞いたのはシベリア鉄道上だった。まさに危機一髪の状態だった。




